ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

赤ちゃんと赤ん坊

飯間浩明(敬称略)がツィッターで、「赤ちゃん」と「赤ん坊」について書いていますが、次のような見方はないのかと。(私は飯間のツィッターを時々のぞいています)

  うちの赤ん坊  あなたの赤ちゃん

「赤ん坊」を自分では使わないという人が増えているのかもしれませんが、それはともかくとして、両方使う人(私もそうです)の場合、上に書いたような使い分けはないのだろうかと。

人が抱いている乳児を見て、「赤ん坊、かわいいですね」とは、私は言いにくいです。ここは「赤ちゃん」と言います。それに対して、

  妹のところの赤ん坊を見てきたよ。妹に似て、気が強そうだったな。

という感じで「赤ん坊」を使います。もちろん、ここで「赤ちゃん」も使えます。

ネットで、「「赤ちゃん」と「赤ん坊」はどう違いますか」という質問に対して、こう答えている人がいました。

 

  mfuji 

  The difference between 赤ちゃん and 赤ん坊 is same to お母さん and 母.
  赤ん坊 is used when you are talking about your baby.

    ex. うちの赤ん坊の写真を見ますか?
  赤ちゃん is used when you are talking about someone's baby.
    ex. あなたの赤ちゃんを見せて下さい。
  If you call your baby, you should use 赤ちゃん.
    ex. 赤ちゃん、お休み。

 

私と同じような感じ方をしている人がいるんだな、と少し安心しました。

ただし、私は「お母さん:母」ほどのはっきりした使い分けはないと思います。敬語のような「丁寧さ」の違いがあるわけではなく、「赤ん坊」が単に「乳児」に対応する日常語であるのに対して、「赤ちゃん」はより親しみのこもった話しことばである、ということだろうと思います。そして、「赤ちゃん」を使う人が増え、「赤ん坊」はだんだん使われなくなってきた、と。

最初に話に出した飯間のツィッターでは、次のようなアンケートをし、その結果を紹介しています。

 

  【問1】あなたの知り合いに子が生まれました。それを人に話すとき、次の2つから選ぶとすれば、どちらの表現を使いますか。

       赤ん坊が生まれたんです  6% 
    赤ちゃんが生まれたんです  94% 

 

この文脈だと、私も「赤ちゃん」派です。しかし、「ソト」と「ウチ」の違いというのを考慮して、「ウチ」の文脈でアンケートをとり、「どちらも言う」という選択肢を用意したら、また違った結果になるんじゃないでしょうか。

 昔はやった歌で「こんにちは、赤ちゃん(・・初めまして、私がママよ)」という歌がありましたが、これは、自分の子どもでも「赤ん坊」は言いにくいですね。

  おい、あかんぼ、お前のオヤジだぞ、これからよろしくな。

と言えないこともない?

 

赤潮・青潮

赤と青の両方を。三省堂国語辞典から。

 

  赤潮 〔地〕プランクトンがふえたために赤茶色となった海水。漁業に損害をあたえる。

  青潮  酸素がほとんどふくまれていない海水。青白く変色して見える。

  

赤潮は〔地〕がついているのに、青潮はそうでないんですね。なぜでしょう。(〔地〕というのは、この辞書で「地名・地理・地質」の分野の専門用語である、ということを表します。つまり、「青潮」は日常語?)

それはともかく、酸素がないとなぜ青白く見えるんでしょうね。そもそも、なぜ酸素がほとんど含まれていないのか。その原因を一言でも書いてほしいところです。

他の辞書の「青潮」を見てみましょう。

 

  新明解  海底の有機物が腐敗して酸素をほとんど奪われた状態の水塊が、海面に上昇し、青白く見える現象。

 

腐敗によって酸素が奪われるのですか。それが海面にあがってくる。でも、酸素がないとなぜ青白く見えるのか。酸素って、特に色はありませんよね。

 

  岩波  沿岸部の海水中の硫化水素が紫外線に反応して青白い帯状にわき上がり漂うもの。水中の酸素が欠乏し、魚や貝を害する。

 

え? 硫化水素が紫外線に反応して? ずいぶん難しくなってきましたね。青白いのは硫化水素ですか。「有機物の腐敗」はどうなったのか。

 

  明鏡  硫化物やプランクトンの色素により海水が青色になる現象。酸素の欠乏で魚類の大量死を招く。

 

今度はプランクトンの色素ですか? それで「海水が青色になる」?

そもそも海水の色って、どう言えばいいんでしょうか。青色じゃない? 三国・新明解・岩波の「青白い」というのは、ふつうは色がない水が「青白く」なる、という意味でしょうか。それとも、全体が青い中で、そこだけ青「白く」なるということでしょうか。

 

  広辞苑  海底の有機物の分解によって生じた硫化水素を含む水塊が浮上し、青白い帯状に漂う現象

 

新明解が言うところの「海底の有機物が腐敗して」分解すると、岩波が言う硫化水素が発生して、それが海面にあがってきて、青白く見える、ということ。 これで「有機物の腐敗」と「硫化水素」が関係づけられました。

岩波の「紫外線」はどう関係するんでしょうか。

 

  大辞林  海底の有機物が腐敗するときに酸素を奪われた水塊が、潮流によって海面に上昇し、硫化水素を発生させる現象

 

え? ちょっとまってください。海底で有機物が腐敗するとき、酸素が奪われるだけですか? 硫化水素は、それが海面に上昇してから発生する?

 広辞苑の説明と、はっきり対立するんじゃありません?

 

  デジタル大自泉  赤潮のうち、比較的緑色に見えるもの。また、有機物の分解に酸素が消費され、酸素の乏しくなった海水が水面に上昇し、青白く見えるもの。水生生物に被害を与える

 

え?え?え? 青潮って、赤潮の一種だったんですか! しかも、「緑色」ですか。「青白い」んじゃない。でも、なんで色が違うのかを説明してくれないと。こっちは硫化水素の話はなし。

 

青潮」の化学現象自体に違いがあるわけでなし、その過程は明らかになっているんだろうと思いますが、辞書によってかなり違いますね。何が何だかわからなくなってきます。

結局、原因など詳しいことを言わない三国が素人にはいちばんわかりやすい?

 

参考までに、wikipedia の解説を。ちょっと長いですが。(岩波の「紫外線」は出てきませんね。)

 

海水に含まれる硫黄コロイド化し、海水が白濁する現象である。これが発生している海は薄い青色に見えるので、赤潮と対比して青潮と呼ばれているが、実際に青い色をしているわけではない。夏~秋に東京湾で多く発生することが知られている。赤潮と同様に魚介類の大量死を引き起こす事がある。

富栄養化により大量発生したプランクトンが死滅して海底に沈殿し、バクテリアによって分解される過程で海中の酸素が大量に消費される。その結果、溶存酸素の極端に少ない貧酸素水塊が形成される。通常、この水塊は潮流の撹乱により周囲の海水と混合されて分散するが、内湾ではこの力が弱い。また、東京湾などでは浚渫工事に伴う土砂の採集跡が海底に窪地として残されており、ここに溜まった水塊は貧酸素環境が特に保たれる。貧酸素水塊中では嫌気性細菌が優占する。嫌気性細菌の一種である緑色硫黄細菌などの光合成細菌の一部は大量の硫化水素を発生させる。この硫化水素を大量に含んだ水塊が湧昇すると、水中の酸素によって硫化水素が酸化され、硫黄或いは硫黄酸化物の微粒子が生成される。微粒子はコロイドとして海水中に漂い、太陽光を反射して海水を乳青色や乳白色に変色させる。多くの場合、青潮は未酸化硫化水素による独特の腐卵臭を伴う。

 

難しくてよくわかりませんが、色の変化の原因は「硫化水素が酸化され」たことによる生成物がコロイド化し、それが太陽光を反射することによる、ようです。

この説明が正しいのだとして、では、国語辞典の中でどれがいちばん正確にまとめているのか。 

  

青虫

赤から青に色を変えて、軽い話を。

また、三省堂国語辞典から。

 

  青虫  小型で緑色のイモムシ。例、モンシロチョウの幼虫。 

 

青虫とは小型で緑色のイモムシである。では、イモムシとは。

 

  芋虫  毛虫の形をしているが、毛の目立たない虫。成長すればチョウやガになる。

 

なるほど。毛虫の形をしているが、毛の目立たない虫、だそうです。では、毛虫とは。

 

  毛虫  木の葉などを食いあらす虫。ガの幼虫で、体の上側に黒・茶色などの毛があり、人をさすものもある。「-のようにきらわれる」

 

ふむふむ。あれ? イモムシのところで、「毛虫の形」とありましたが、毛虫の項ではその形について述べていません。さて、毛虫とはどんな形なのか。

いくつかの国語辞書を見てみましたが、毛虫の形を書いているものはなかなかありません。みんな知っているから、わざわざ書かなくてもいいだろう、では、辞書として失格なのでは?

ふだんは見ない辞書まで見たら、ありました。

 

  旺文社国語辞典 「体は円筒状で」

 

辞書をいろいろ持っているのはいいことです。毛虫の形は「円筒状」とわかりました。

いや、軽すぎる話ですみません。

 

赤帽

「赤」つながりでこの語を。

 

  赤帽 ①赤い色の帽子。②駅で旅客の手荷物を運ぶ職業の人。ポーター。〔赤い帽子をかぶる〕

             三省堂国語辞典

 

「赤帽」は「赤い色の帽子」か。

確かに、「赤帽」は「赤い色の帽子」かもしれませんが、これは、辞書の語釈としては問題があります。

「なるほど。赤帽は赤い色の帽子のことをいうんだな。じゃあ、あの女性は赤帽をかぶっている、って言っていいのかな」と考える人が出かねないからです。

「AはBである(AならばB)」とき、「BはAである(BならばA)」とは限らない、ということはよく知られていることだと思いますが、辞書の語釈も同じように考えていいか。

「Aとはなになにのことである」と辞書にあれば、「なになにのことをAと言う」ということと解釈されます。つまり、「辞書による定義」と見なされるのです。

「赤帽」とは「赤い色の帽子」である、と辞書が書けば、「赤い色の帽子」のことを「赤帽」と呼ぶのだ、という定義になってしまいます。

しかし、すべての赤い帽子が「赤帽」ではありません。「赤帽」とは、

 

  新明解 〔運動会などの時かぶる〕赤い色の帽子。

 

などのことを特別にそう言うわけです。「小学校の」をつけたほうがよりわかりやすいかもしれませんが、こういう限定をつけないと、すべての赤い帽子になってしまいます。

 

次に、三国の②の語釈、「ポーター」について。

別の辞書では次のように書かれています。

 

  新明解 ②〔駅で〕手荷物を運んだ職業の人。

  明鏡 ②~のを職業とした人

  学研 ②~を運搬した人。現在はない。

 

学研の「現在はない」という情報を、新明解の「運んだ」、明鏡の「職業とした」も表しているのでしょう。三国も、何らかの形で同じ情報を示すべきです。

ということで、三省堂国語辞典の「赤帽」の項は、改訂すべき項目です。 

 

赤提灯

暑い日が続いていたのですが、今日は、雨のせいもあってけっこう涼しくて助かりました。さて、涼しくなってくると、恋しくなるところです。

 

  あかちょうちん  (看板として赤いちょうちんを店先にさげた)一杯飲み屋。あかぢょうちん。

           三省堂国語辞典

 

赤いちょうちんがあるのはわかるのですが、「一杯飲み屋」とはどういうところをいうのでしょうか。このことばはそのまま項目にはなっていませんでした。「いっぱい」の項に用例として出ています。

 

  いっぱい  ①すこしの酒(を飲むこと)。「-やる・-(飲み)屋」

 

つまり、「赤ちょうちん-赤いちょうちん=一杯飲み屋」とは、少しの酒を飲ませる飲み屋、のこと? そうでしょうか? 確かに、ちょっと軽く飲む店、だとは思うのですが、何となく不満です。

では、そもそも「飲み屋」とは。

 

  飲み屋  てがるに酒を飲ませる店。居酒屋。

 

え? 私の語感では、「飲み屋」と「居酒屋」は違うような気がします。どこがどうとははっきり言えませんが。

 

  居酒屋  腰かけさせて、てがるに酒を飲ませる店。飲み屋。

 

ふむ。「居酒屋」とは、まさに「腰掛けさせて」という意味があったあのかもしれませんが、今、特にそういう「飲み屋」をいうわけでもないでしょう。(他の飲み屋もふつうは座って飲みます)

ここまで見てくると、結局、「居酒屋」も「赤ちょうちん」も「一杯飲み屋」も同じようなもの、となってしまうようです。「赤ちょうちん」の特徴は「赤いちょうちん」だけで。

「飲み屋」の類語に「酒場」というのもあります。

 

  酒場  客に酒を飲ませる店。居酒屋。バー。「大衆-」

 

おや? 酒場とはバーですか? これは、酒場の例としてあげてあるのでしょう。居酒屋は和風の酒場で、バーは洋風の酒場の例として。わかりにくい書き方です。(居酒屋は「飲み屋」でもありました。酒場も飲み屋も同じ?)

さて、結局、「あかちょうちん」とはどういう飲み屋を指すのか、他の店はそれぞれどう違うのか、三省堂国語辞典の説明をあれこれ読んでいってもはっきりしません。皆、同じようなものだ、というのが結論でしょうか。

他の辞書ではどうなっているのでしょうか。

 明鏡では、

 

  飲み屋  酒を飲ませる店。居酒屋。
  酒場  客に酒を飲ませる店。

 

この「客に」の有無は何なんでしょうか。結局同じものを指すのでしょうが。

 

  居酒屋  安い料金で酒を飲ませる酒場。大衆酒場。△古くは店先で酒を飲ませる酒屋を言った。
     大衆  世間一般の人々。庶民。民衆。「━演劇[酒場]」△狭義では農民・労働者などの勤労階級をいう。

 

居酒屋の注釈はいいですね。「居」は「すわる」のではなく、たんに「いる」ことを意味すると考えればいいということでしょう。今言うところの「イートイン」みたいな。ちょっと違うかな?

それにしても、居酒屋って「大衆酒場」なんですか。「大衆酒場」というと、私にはちょっと古い感じのことばです。「居酒屋」がそれに取って代わりつつあるということでしょうか。

 

  赤提灯  店先に赤い提灯をつるした大衆向きの飲食店。一杯飲み屋。赤ぢょうちん。
  一杯   わずかの酒をいう語。「軽く━ひっかける」「━飲み屋(=大衆酒場)」

 

ふむ。赤ちょうちんは「飲食店」扱いですね。でも、「一杯飲み屋」を介して、結局は「大衆酒場」、つまりは居酒屋のことになるようです。

明鏡も、どれも同じようなもの、という判断でしょうか。

 

  新明解を見てみましょう。


  飲み屋  居酒屋など、庶民が気軽に立ち寄って酒を飲めるような店。
  酒場  客に酒を飲ませる店。バーや居酒屋。「大衆-」
  居酒屋  庶民に安上がりで酒を飲ませる店。大衆酒場。飲み屋。
  赤提灯 〔目につきやすいように店頭に赤い提灯をぶら下げることから〕「居酒屋」の俗称。あかぢょうちん。

 

新明解も、どれも気軽で安い店、ということのようです。赤ちょうちんは「居酒屋の俗称」だそうです。

あ、でも、「酒場」は、特に「安い」とは書いてありませんね。高いバーもあるのでしょう。

その、気軽でなく酒を飲む(高い)店は何というのでしょうか。「高級酒場」かな?

 

私には、講談社類語辞典の書き方がわかりやすく整理してあるように感じられました。これが正しいと言っていいかどうかはまた別ですが。

  

  飲み屋  酒を飲みたい人に、酒・食事を提供する店。 
  酒場  酒を取りそろえ、客に飲ませる店。「大衆~」◇「飲み屋」では食事も出すのに対し、「酒場」では食事を出さない、酒中心の店も含む。たとえば、バーは酒場だが飲み屋ではない。

 

「飲み屋」は食事も出す。「バーは酒場だが飲み屋ではない」という説明は、何となく納得させられます。


     居酒屋  安く酒を飲ませる大衆的な飲み屋。
  一杯飲み屋  簡単なつまみで軽く飲ませる小さな店。
  赤提灯  [俗]小さな居酒屋

 

居酒屋は安く、「飲み屋」なので食事も出す。それに対して一杯飲み屋は「簡単なつまみ」だけで、しっかり食べるわけではない。じっくり飲めるわけでもない。で、赤ちょうちんは、居酒屋の小さいもの、(ガード下かなんかにある感じ?)という説明です。なんとなく、わかったような気になりました。

しかし、世の中の人がみんなこのように使い分けているかどうかはまた別のことでしょう。

それにしても、ほかの国語辞書も、この程度にはそれぞれの語の意味合いを説明し分けてほしいものだと思います。せめてその努力が感じられるようには。

 

  

暦(の上)

「秋」の話の続きです。

明鏡国語辞典の「秋」の説明の中に、「陽暦では九~十一月、陰暦では七~九月。暦の上では立秋から立冬の前日まで、天文学では秋分から冬至まで。」という部分があり、それはそれでなるほど、と思ったのですが、改めて考えると、「暦の上」とは何のことかと思います。

 

  暦  一年間の月・日・曜日・祝祭日・月の満ち欠け・日の出・日の入り・干支えとなどを日を追って記したもの。七曜表。カレンダー。「━の上ではもう春だ(=立春になった)」△「日か読み」の意。
           [明鏡国語辞典 第二版]

 

陽暦」と「陰暦」はどちらも「暦」のはずです。では、「暦の上」とは? 

上の用例では、立春になることが「暦の上で春になる」ことのようです。

 

  りっ‐しゅん【立春】 二十四節気の一つ。暦の上で春が始まる日。太陽暦の二月四日ごろ。
       [明鏡国語辞典 第二版]

 

ここにも「暦の上」とありますが、その説明は辞書の中で探し当てられません。「二十四節気」を見てみます。

 

  にじゅうし‐せっき【二十四節気】 太陰太陽暦で、一太陽年を太陽の黄経に従って二四等分し、それぞれに季節の名称を与えたもの。春は立春・雨水・啓蟄けいちつ・春分清明穀雨、夏は立夏・小満・芒種ぼうしゅ・夏至小暑大暑、秋は立秋処暑・白露・秋分寒露霜降、冬は立冬小雪・大雪・冬至小寒大寒に分ける。二十四気。
    [明鏡国語辞典 第二版]

 

さて、難しくなりました。「太陰太陽暦」だそうです。

 

  たいいんたいよう‐れき【太陰太陽暦】 月の満ち欠けを基本にして、太陽の運行を考えて修正を加え、季節とのずれを少なくした暦。一九年に七回の閏月うるうづきを設けて一三か月の一年をつくる。陰暦。旧暦。
△一般に「太陰暦」「陰暦」「旧暦」といわれるものはほとんど「太陰太陽暦」のこと。日本では一八七二(明治五)年まで用いられた。
      [明鏡国語辞典 第二版]

 

はあ。つまりは「陰暦」のことだそうです。

あれ? 初めの「秋」のところでは、「陰暦では七~九月。暦の上では~」とありました。つまり、「陰暦」と「暦の上」は別のものを指していたはずです。

さて、わからなくなりました。「暦の上」って何なんでしょうか。

「秋」のところで、明鏡の説明を紹介したあとで、「広辞苑大辞林などもほぼ同内容」と書いてしまいましたが、不正確でした。広辞苑には「暦の上」つまり「立秋から立冬の前日まで」という記述はなく、大辞林は、

 

  陰暦では七月から九月まで。また、二十四節気では立秋から立冬まで。

 

と書いています。「暦の上」とは書いていません。

また、デジタル大辞泉は次のように書いています。

 

  日本では9・10・11月をいう。暦の上では立秋から立冬の前日まで(陰暦の7月から9月まで)

 

この書き方だと、「暦の上」とは陰暦のことと読めます。結局、そういうことなのでしょう。「立秋から立冬」は、ほとんど「陰暦の7~9月」と重なるというわけです。

つまり、明鏡の書き方がおかしかったんじゃないか。「暦の上では」を陰暦とは別のことのように読ませてしまうのは誤りなのではないか、と思うのですが、どうでしょうか。

 

秋口

秋に関係する語についての短い話。

 

  秋口  秋のはじめのころ。    三省堂国語辞典

 

これで悪いわけではないのですが、次のような注釈があるとちょっとうれしくなります。

 

   [参考]「・・・口」という形での季節の言いかたは「秋口」だけで、「春口」「夏口」「冬口」とはいわない。       例解新国語辞典

 

もっと短く書くと、

 

  [注意]春・夏・冬には「・・・ぐち」とは言わない。    学研現代新国語辞典

 

なくてもいいような、ちょっとしたことですが、あるとうれしいです。

でも、なぜ「秋口」だけなんでしょうね。