ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

漢字一文字の「医」の項目について。

 

  医(名) [1]①医術。医学。② ←医学部。[2](造語)〔-医〕医者。「内科-・開業-」                   三省堂国語辞典

 

三国のこの項目はいいと思います。どこがいいかと言うと、名詞と造語成分とを分けて書いているところ。明鏡も同じです。

悪い例。新明解。

  

  患者に適切な指示を与え、適薬を与えたり 必要な手術を施したり して病気を治すこと(技術)。「-は仁術」[ 語例 ]「-者・ 名-・ 外科-」   [新明解国語辞典第七版]

 

「医は仁術」という用例はいいのですが、[語例]の「名医・外科医」の「医」は「病気を治すこと(技術)」ではありません。

反対に広辞苑は、「医」を「病を治す人。くすし。「主治-」」とし、「人」としての説明しか与えていません。それなのに、「-は仁術なり」という「医術」としての句をあげているのは矛盾しています。

こういうところを見ると、きっちりと記述しようという気がないのだろうか、と思います。

もう一つ。新選の「医」の用例に「医院・医療・病院」とあるのは、単なる不注意によるミスでしょうか。(最後の「病院」)

私もやりそうなタイプのミスで、なんというか、親近感を覚えます。

 

「い」の初めのほうの項目から。まずは「亥」。

 

 い 亥(名) ①十二支の最後。いぬ(戌)の次。いのしし。「-年・-の年」〔月・日にも言う〕②昔の時刻の名。今の午後十時ごろに当たる。四つ。「-の刻」③昔の方角の名。北北西。  (三省堂国語辞典

 

 他の辞書はみな「二時間」を指すことも書いているのですが、それは不要という判断でしょうか。


  明鏡 時刻では午後十時、または午後九時から十一時の間。
  新明解 時法では午後九時ごろからの約二時間を指した。
  新選 時刻について午後十時、またその前後二時間を、また一説に午後十時からの二時間をいう。
  大辞林 ① 十二支の一二番目。年・日・時刻・方位などにあてる。いのしし。がい。 ② 時刻の名。今の午後10時頃。また,午後10時から12時まで。または午後9時から11時までの間。③ 方角の名。北から西へ30度の方角。  (大辞泉もほぼ同じ)

 

新選・大辞林などではどの2時間かで異説を紹介しています。この異説があることを考慮し、ごちゃごちゃするのを避けて、三国は書くのをやめた?

まあ、それならそれで一つの考え方です。

もう一つの問題。

②と③の語釈の「昔の」とはどのぐらい前のことでしょうか。十年か、百年か、千年か。

例えば、中学生にとって昭和の終わりは十分「昔」でしょう。その頃、「亥の刻」と言っていた?と思うかもしれません。

いや、それとも、この「昔」は戦前か、もっと前で明治、あるいは明治以前か。中学生には(あるいは、大学生にも)わかりようがありません。

何らかの限定が必要でしょう。で、「昔」を三国で引いてみると、


   むかし [昔] (名) ずっと以前。

 

ちょ、ちょっと待ってください。これではあまりにもおおざっぱすぎます。

「亥」とは「ずっと以前の時刻の名。方角の名」ですか?

これは三国だけの問題でなく、他の多くの辞書も「昔の~」です。

「昔」って言えばわかるでしょ? 常識ですよ。ね?

わかるわけがありません。

 

  新明解 亥 十二支の第十二。猪(イノシシ)を表わす。〔昔、方位では北から三〇度西寄りを、時法では午後九時ごろからの約二時間を指した〕

    昔 過去の時代。〔自分が経験したことのある近い過去から、経験する以前の遠い過去までも指す〕

 

いや、そんな意味の幅の広いことばを不用意に語釈に使ってはいけないのですよ。

 

  明鏡  昔 遠くさかのぼった過去のある時点・時期。ずっと以前。

 

「遠くさかのぼった」と言われても、どのくらいさかのぼるのか。

でも、結局、「昔」の語釈としては、新明解や明鏡のように書くしかないのでしょう。はっきり限定できる性質のものではありません。


では、「亥」の説明のほうはどう書けばいいのか。「亥の刻」というのは、いつ頃まで人々がふつうに使っていた言い方なのか。日本語の語の使用の歴史を調べないとわかりません。かなり難しそうです。

私の漠然とした印象では、江戸時代まででしょうか。明治になって、西洋の時刻の言い方が入ってきたのでしょう。しかし、明治初期、一般の人はどう言っていたのか。午前十時とか、午後十時とか言うようになったのはいつごろからか。これは、庶民が時計というものを使うようになったのはいつかということにつながるのでしょうか。

(いや、江戸時代でも、「亥の刻」の類よりも、「六つ」とか「八つ」とかいう方が普通の言い方だった? ふむ。つくづく、自分の無知を感じます。)

それにしても、これまで、誰かこの記述の不十分さに気づかなかったのでしょうか。

 

「い」の漢字の順

久しぶりに。

 

いくつかの国語辞書の「あ」と「い」の初めのほうを見比べて、いろいろ考えているのですが、三省堂国語辞典の「い」の初めの漢字一字で表される語の順番が気になりました。

 

第六版では次のような順になっています。

   第六版  井-伊衣亥-医易-胃威偉-異意緯  

画数の順かと思うと、一か所違います。それぞれの画数を調べると、

             4 - 6 6 6 - 7 8 - 9 9 12 - 11 13 16

となります。「偉」の位置が違います。

これが、第七版ではまた微妙に変わります。

   第七版  井-亥伊衣-医易-威偉胃-異意緯

「亥」が上がり、「胃」が下がりました。この画数は、

             4 - 6 6 6 - 7 8 - 9 12 9 - 11 13 16

となり、「偉」がまた一つ前に来ました。これは、どういう理由によるのでしょう。

三国の「この辞書のきまり」p.(8)によると、同じ仮名の語は、品詞の順により、同じ品詞の中では漢字の画数順によるはずなのですが。

品詞が違うのは「偉」が(形動ナリ)であるだけで、あとは名詞です。

そもそも第六版の順序は何によるのか。そして、それを「改訂」した第七版はどういう理由で変更をくわえたのか。なぞです。

 

ある人の仮説です。「亥」を「井」の次に置いたのは、この二字の歴史的仮名遣いが「ヰ」であるという共通点を示したいからではないか、というのです。なるほど。

もう一つの仮説はこうです。

「胃」が下がったのは、こうすることによって、「威」と「偉」が、この辞書が「→ ←」を使って示す「かき分け注意」の関係にある語であることを同じページで示せるからではないか。もし「胃」が「威」の前にあると、「偉」がちょうど次のページに押し出されてしまい、「→ ←」の表示がわかりにくくなるから。

これも、まったくささいなことですが、確かにその通りです。このことに気付いた人は大した観察力・推理力だと思うのですが、さて、それにしても、辞書編集者というものは、そんなことを考えて語の順番を並び替えるものなのでしょうか。「この辞書のきまり」で書いた規則を破ってまで。

 

あげる

前回の記事の続きで。

 

  あおむける ①表面を上へ向ける。(からだの)腹のがわを上にする。②顔を上げる。(⇔うつむける)[名]仰向け。「-になる」                    三省堂国語辞典 

 

この②の「顔を上げる」というのは、「あおむける」動きの例として、まあ、そうなんだろうと思うのですが、「あげる」の項目を見ると、

 

   上げる ①上のほうへ動かす。「頭を-」

 

とあります。

「あげる」の一般的な意味が「上のほうへ動かす」のだというのはいいとして、この用例の「頭を上のほうへ動かす」ことは、ふだんの、前を向いた状態からはできないのじゃないでしょうか。(背伸びする?)

前を向いた状態から、上を見たとしても、それは「頭を上のほうへ動かす」ことにはならない。「顔が上を向いた」だけですよね。頭は、「後ろに倒れる」ので、むしろ低くなってしまう。(身長を測るとき、上を向いたら、低くなりますよね)

つまり、「頭を上げる」というのは、頭を「前に下げた状態」から、前を向くようにことを意味するわけです。(「あおむける」の新潮現代の語釈に「裏返しや横向きになっているものを」という説明がありましたが、それと同じような、「ふだんとは違った状態から」という前提が必要な表現です)

つまり、「手を上げる」とか「レバーを上げる」のような「上の方へ動かす」ことを表すというより、「前に向ける」ことを言うのです。

では、上の②の「顔を上げる」とはどういうことか。こちらの場合は、確かに、前を向いた状態より顔の位置が少し高くなると言えるでしょうが、「顔を上げる」という表現で言いたいことは、「顔を上の方へ動かす」ことではありませんよね。「上を向く」ことですね。

 

追記:2020.11.8

久しぶりに読み返してみて、最後の所がおかしいように感じました。

 

  「顔を上げる」という表現で言いたいことは、「顔を上の方へ

   動かす」ことではありませんよね。「上を向く」ことですね。

 

「顔をあげる」も、「頭をあげる」とおなじで、下を向いていた人が前を見るときに使えますね。「上を向く」とは限らない。

では、「歩いているときに飛行機の音が聞こえたのでそちらを見上げた」場合は何と言うか。「顔をあげて空を見た」のか、「頭をあげて」か。

私は「顔をあげて」だと思うのですが、「頭をあげて」でもいいか。

 

もう一度整理すると、

   頭をあげる  顔をあげる

という表現は、

   下を向いていた状態から前を見る状態にする

   前を見ていた状態から上を見る状態にする

   下を見ていた状態から上を見る状態にする(三国「あおむける」②?)

のどれ(とどれ)に当たるか、という問題です。

何人かの人に聞いてみたいですね。

 

 

あおむける

 

  あおむける ①表面を上へ向ける。(からだの)腹のがわを上にする。②顔を上げる。(⇔うつむける)[名]仰向け。「-になる」   三省堂国語辞典

 

まず①について。「表面」と言うけれど、何の「表面」なのか。「表面」とは何か。

このことば、私はあるところで「ひょうめん」と読んだら、ある人に「オモテメンと読むんじゃありませんか」と言われて、あちゃーと思いました。なるほど。確かに、「ひょうめん」と「おもてめん」では違いますね。勉強になりました。

「ひょうめん」だったら、対立するのは「内側・内面」ですよね。「上へ向ける」なんだから、「おもてめん:うらめん」の対立にしないと。

他の辞書を見ると、

 

  学研現代新  〔顔や物の前面を〕上に向かせる

 

「前面」と言っています。でも、「前面」だと当てはまらないものもあるんじゃないか。

 

   新潮現代 顔や体、物(の一部)を、上に向ける。また、裏返しや横向きになってい       るものを、起して、表面や全面を上に向ける。あおのける。  

 

「裏返しや横向きになっているものを」が重要です。もともと、普通の状態に置かれていたら「あおむける」ことはできないのです。

でも、次のような例もあります。

 

  現代例解  あおむけ 上を向けること。(略)「急須のふたをあおむけに置く」

 

名詞のほうを見出しにして、動詞は子項目にしていますが、この例はいいですね。「急須のふた」の場合は、「おもてめん」でも「前面」でもありません。「内側」を上に向けること、です。また、「裏返しになっていた」わけでもありません。

三国の、「(からだの)腹のがわを上にする。」という、この語がいちばんよく使われる場合は、「おもてめん」という意味合いと、「内側」という意味合いもあるのかなあ、と思います。

さて、どう説明したらいいのでしょうか。

明かり

語釈がよくわからない項目を。

 

 明かり ①〔光を出すもとが見えないで〕いちめんに明るい状態。「-がさす・雪の-」                 三省堂国語辞典

 

語釈の「いちめんに明るい状態」というのをそのまま用例に入れてみると、「<一面に明るい状態>がさす」??

「明かり」は「状態」ではありません。「<明かり>がさす」と、その結果、「一面に明るい状態」になるのでしょう。

新明解も同じような語釈です。


     新明解 ②〔どこからともなく光が差し〕一面に明るい状態。「-がさす/星-」

(三国と新明解の語釈が同じというのは、同じ筆者が書いたものである可能性があります(見坊・金田一春彦とか)から、どちらかが「まねた」というわけでもないでしょう。)

 

私には、三国も新明解も、どうしてこういう語釈をするのかわかりません。「どこからともなく」差す<光>を「あかり」というのではないでしょうか。(あとで見る他の辞書はそう書いています)

「明かりがさす」とはどんな状況で言うのでしょうか。例えば地下鉄の工事現場で事故があり、生き埋め状態で助けを待っているとき、「明かりがさす」と言えば、(どこからだかわからないが)光が差し、まわりが見えるようになる。その時、差してきた「光」を「明かり」というのではないでしょうか。

また、「月明かり/星明かり」と「雪(の)明かり」は違います。

三国の「雪の明かり」は、たしかに、景色全体がぼんやりと明るい様子を言うのでしょうから、「光を出すもとが見えないで いちめんに明るい状態」ということの例になる、ということでしょう。

一方、新明解の「星明かり」は、星から光が来ているのですから、「どこからともなく」とは言えません。

 「明かり」は各辞書で語釈がけっこう違います。(省略した三国の②、また明解の①は「あたりを明るくする/光を出す物。電灯・灯火など。」です。)

大きく三つに分けてみます。

 

 a 暗い中であることが必要、という語釈
      岩波 暗い中に認められる、まぶしいほどではない光。「ネオンの-」

     特に、照明用の光。「-をともす」「-がつく」(略)

     △「雪(の)-」のように、光の反射にも言う。  
   例解新 ①くらい中での光。「明かりがさす。明かりをとる。月明かり。雪明かり。」

 bあたり/周りを明るくするもの
   三省堂現代 ①あたりを明るくするもの「雪の-・月の-」

     ②照らすための光「-をつける」

       現代例解 ①あたりを明るくする光。物を明らかに見せる光。光線。

     「外の明かりがもれてる」「雪明かり」「月明かり」

   明鏡 ①周りを明るくする自然の光。「窓から-が差し込む」「夕暮れの薄-」

     「月[雪]-」 ②周りを明るくする人工の光。(略)

  ▽自然と人工で対比しています

   大辞林 ①明るい光。光線。「月の-」「-がさす」 
 ▽ 強いライトの光も言えるでしょうか 。「太陽/日のあかり」など。

 cもっと単純に 
   学研 ①光。②ともし火。灯火。③電灯などの光。ライト。
      新潮 ①明るさ。光。光線。

 

私の判断では、岩波の線がいいように思います。さらに、「あかりがさす/さしこむ」のような例があればもっといいのではないでしょうか。

 

あえて

説明の難しい副詞を。三省堂国語辞典の説明はどうもうまくありません。

 

  あえて(副)①むずかしいとわかった上で。「-危険をおかす・-言えば」②わざわざ。特に。「朝聞く曲には、-クラシックを選ぶ」③〔文〕別に。必ずしも。「-おどろくには当たらない」  (三国)

 

まず①。「あえて危険をおかす」というのは、「難しいとわかった上で、危険をおかす」のでしょうか。「危険だとわかった上で(それをする)」ということではないでしょうか。わかっていて、なぜするのか。その時の気持ちは、どういうものなのか。そこが、「あえて」を使う理由でしょう。

 

  明鏡 ①《下に意図性をもった動詞句を伴って》困難な状況や心理的抵抗をおして物事を行うさま。そうする(または、そうしない)だけの価値があるものとして言う。しいて。「君のために-言おう」「評価は高いが、-苦言を呈する」「将来を慮り、責任は-追及しない」

 

心理的抵抗をおして」「そうするだけの価値があるものとして」というあたり、いいですね。また、単に「むずかしい」というより「困難な状況」と言うほうがいいでしょう。

新明解は、用法を分けず、一つの語釈と多くの例でこのことばを説明しようとしています。

 

  新明解  自分の置かれた立場や状況から見て、損失や危険を伴うことを承知の上で、成功した際の効果を期待して、思い切ってその事を実行する様子。「反対意見を押し切って、-決行した/-言わせてもらえば、君は辞任した方がいい/人権問題に関わること故、-再考を求める/そんなぜいたくな物は-〔=無理してまでも〕食べたいとは思わない」

 

新明解の語釈は限定しすぎ(「損失や危険」は言い過ぎ)だと思いますが、用例がいいですね。ただし、最後の例で「無理してまでも」というのはちょっと違うように思います。

とにかく、「あえて」というのは、これぐらいいろいろ書かないと、その意味合いが伝わらないような副詞なのです。(明鏡や新明解を見ても、これで「あえて」の使い方が十分にわかった、とは言えないと思います。)

 

三国の②。

  ②わざわざ。特に。「朝聞く曲には、-クラシックを選ぶ」

この例は何なのでしょうか。それに、単なる言い換えの語釈。

 

  わざわざ ①〔そのことのためだけに〕特別にするようす。「-おいでいただきまして」②する必要のないことを、ほねをおってするようす。「-遠回りをする・-来てやったのに」

  とくに ①ほかと区別して。わざわざ。「私が-指名を受けた・日本固有のことばを-和語と言う」(②以下略)

                       (三国)

「あえて」の語釈の「わざわざ」というのは、この①の用法のつもりなのでしょうが、「そのことのためだけに、特別に」クラシックを選ぶ、というのはどういう意味なのか。「他と区別して」クラシックを選ぶ? まあ、「選ぶ」というのは、そもそもそういうことでしょうが、この説明で「あえて」の意味はわかるのか。

だいたい、「朝聞く曲には、-クラシックを選ぶ」って、何が言いたいのでしょうか。「クラシック」といってもいろいろあるのですが、「朝聞く」には、「あえて」選ばなきゃいけないようなものなのか。(もう、めちゃくちゃです。)

昔、「朝のバロック音楽」という番組がFMでありましたが、あれも「あえて」やっていたのでしょうか。(今もやっているのかしら?)

この例文は第六版にはありませんでした。「改訂」でかえってわかりにくくなった例です。

なお、三国の3つの用法の分け方は、明鏡の、数は同じ3つの分け方とはかなり違いますが、そこの細かいところは私にはどう考えたらいいのかわかりません。新明解は一つにまとめているし。

 

  明鏡 ②《主に不必要の意を持つ表現を伴って》とりたてて~する価値が無い。別に。特別に。ことさらに。「-泣くことはない」「-断るまでもない」③《下に打消しを伴って》全く。少しも。また、必ずしも。「壊滅と言うも-誇張ではない。▽古い言い方。

 

 三国の語釈・例は、きちんとした説明を諦めているように感じます。三国の「売り」である、「要するにどういうことか」がぜんぜんわかりません。「あえて」は、「要する」ことができない語なのです。もっとしっかり説明してもらわないと。

 

[追記] クラシック

三省堂国語辞典の「クラシック」を見てみました。

 

  クラシック ④西洋の古典音楽。クラシック音楽。例、ベートーベンの曲。

 

三国の編者の一人である飯間浩明は、『辞書を編む』の中で「リズムアンドブルース」の語釈について書いています。苦心の結果、4行に渡る語釈が施されているのですが、この「クラシック」はあっさりしています。

「西洋の古典音楽」以上の説明をしようとすると、かんたんにはすまない、ということはよくわかります。そこで「例」をつけたのでしょうが、ふむ、ベートーベンですか。

これが、「あえて」の「朝聞く曲には、-クラシックを選ぶ」という例文につながっているのでしょうか。重い、堅い曲が多いベートーベンは、朝聴くには「あえて」選ぶものである、と。(それとも、三国の編者たちはクラシック一般をそもそもあまり聴かないのか、、、)

「クラシック」の説明としては、明鏡のほうが多少いいかな、と思います。

 

  ジャズ・ポピュラー音楽などに対して、西洋の伝統的な作曲技法・演奏法による純音楽。古典音楽。「クラシック音楽」の略。[明鏡国語辞典 第二版] 

 

これでも、詳しい人に言わせれば、いろいろと不満なところはあると思いますが。