ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

う(助動詞)

助動詞の「う」の説明を。三省堂国語辞典から。

 

  う(助動・特殊型) 主として意志・推量をあらわす助動詞。〔五段活用の動詞につく〕「さあ、行こ-」⇒:よう。

 

これだけです。「よう」を見ると、

 

  よう(助動・特殊型) ⇒う(助動)〔五段活用以外につく〕「乗せ-・見られ-」

 

「う」は、「意志・推量を表す」というのですが、用例は意志の例だけです。多くの用法を持つ重要な助動詞を2行余りですませています。

「よう」に詳しい記述があるのかと思って見ても、動詞の接続形の例があげられているだけです。その例の「見られよう」という形がどういう意味になるのかという、一番大切なことが説明されていません。

他の辞書はこんな扱いをしていません。新明解33行、明鏡54行、岩波71行と、それぞれ多くの紙幅を割いて詳述しています。岩波のように詳しいと、逆に読む人はあまりいないんじゃないかと心配するほどです。
同じ三省堂で、しかも三国の編集者である飯間浩明も編集に加わっている三省堂現代新でも8行余りを使っています。
三国に近いのは旺文社で、語釈は2行半しかなく、その後に5行の活用などの説明があります。
また、三国は助動詞を軽く扱うのだ、というわけでもなさそうで、「う」の否定に当たる「まい」は12行を使って解説しています。また、(連語)とされる「だろう」にも9行を使っています。「れる」は14行。
 なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

以下は勝手な推測です。

「う・よう」の項を書いた執筆者は、おそらく古いタイプの執筆者で、助動詞の用法などは文法書で扱う事柄で、国語辞典で詳述するものではない、という考え方なのでしょう。しかし、その原稿を受け取った編集者が同じ考え方ではいけません。というより、他の助動詞の項を見れば、そう考えてはいないのだろうと思われます。では、なぜこの項だけがこのままの形で何度もの改訂をくぐり抜けてきてしまったのでしょうか。他の助動詞の項と見比べてみれば、「う・よう」だけがきちんと説明されていないことにすぐ気付いたでしょう。

改訂の際によく言われる「すべての項目を見直して」というのがただの宣伝文句にすぎないと疑わせる一つの証拠がここにあります。