ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

愛人・情夫・情婦

変なタイトルですが、用法が変わった語と、辞書によって意味が違ってくる語です。
まずは語釈があいまいで、結局はっきりしない岩波から。

 

  愛人  1恋愛の相手。こいびと。▽第二次大戦後、新聞等で「情婦」「情夫」を避けてこの語を使い、「恋人でなく-だ」のような表現も生じた。2だれかれにかたよらず人を愛すること。「敬天-」      岩波

 

2の用法は別として、まず「恋人」だそうです。現在、「彼(彼女)には愛人がいる」と言って、恋人の意味にとる人がどれだけいるのでしょうか。(古い用法から、というなら、2のほうが先のはずです。)

「第二次大戦後」うんぬんの説明も、編集者の感覚の古さと説明の不充分さを示すだけです。

「「情婦」「情夫」を避けて」ということはつまり「恋人でなく-だ」とは「恋人でなく情婦(情夫)だ」ということのようです。では、「情婦・情夫」とはどういう意味なのかと言うと。

 

  情婦 (みだらな関係として見た場合の)愛人である女。いろ女。
  情夫 (みだらな関係として見た場合の)愛人である男。いろ男。  岩波

 

「みだらな関係として見た」とは何をもって「みだら」と言っているのか。

この語釈の中の「愛人」は、上の1の「こいびと」でしょう。「みだらな関係としてみた場合のこいびと(恋愛の相手)」とは何を言いたいのか。

 

  みだら  性に関して、乱れてしまりがないさま。「-な話」  岩波

 

「恋愛の相手」と「性に関して、乱れてしまりがない」だなどと人のことを言ってはいけません。
None of your business ! ですね。「ほっとけ!」です。

 

岩波の誤りは、「愛人」の(新しい)意味を、辞典の利用者は当然知っている、ということを前提に説明をしている、ということでしょう。そして、その意味をはっきり示さない。だから、その説明をきまじめにそのまま解釈しようとすると、何を言っているのかわからない。国語辞典として失格の項目でしょう。

 

もう少し、具体的にわかりやすく言うと、次のようなことでしょうか。

 

  愛人  愛している異性。情人。▽現在では、情婦、情夫の語を避けて、多く不倫の関係や金銭の授受を伴う男女関係の相手をいい、「恋人」とは区別して用いる。  現代例解

 

▽の後の補足の部分くらい、はっきり、身も蓋もなく書けばわかりやすくなります。「金銭の授受」と書いたのは、私の見た中ではこの現代例解だけです。これで辞めた総理大臣もいましたね。

では、現代例解の「情婦・情夫」とは。

 

  情婦  妻以外の愛人。いろおんな。いろ。⇔情夫
  情夫  夫以外の愛人。いろおとこ。いろ。⇔情婦   現代例解

 

これは「不倫の関係」ですね。「金銭の授受」があるかどうかは場合によるのでしょう。

ただ、現代例解も「愛人」の基本的な意味を「愛している異性」、つまりは「恋人」と同じとしています。(なぜ「情人」などという古めかしい語が出ているのでしょうか。)

初めに書いたように、現在のテレビドラマなどで「愛人」と言ったら「恋人」の意味にとる人はほとんどいないでしょう。昔の小説などを読んでいて、そこに出てきた「愛人」ということばを、おや、どうやら「恋人」の意味で使っているんだな、などと思うことはあるでしょうが。

 

  愛人  1情婦・情夫など、特別な関係にある異性を遠回しに言う語。2〔古い言い方で〕恋人。  明鏡

 

明鏡のように、「恋人」は2番目の用法とし、「古い言い方」だとはっきり書くのがいいと思います。

さらに言えば、「情婦・情夫」のほうも、すでに古いと感じます。今の高校生あたりは「情婦」などということばを知っているのでしょうか。

 

  情夫 〔やや古風な言い方で〕夫以外の愛人。また、内縁関係にある男性。
  情婦 〔やや古風な言い方で〕妻以外の愛人。また、内縁関係にある女性。  明鏡

 

「やや古風」という感覚が、すでに「古風」なのではないでしょうか。

 

  愛人  1世間ではみとめられないような(ひそかな)恋愛の相手。[類]情夫・情婦       2恋人[古い言い方]   三省堂現代新

 

こちらも、「恋人」は「古い言い方」としています。

三省堂現代新は「わけても、高校生の教科学習と言語能力の向上に資することに重きを置き」(「まえがき」から)だそうですので、「情夫・情婦」を語釈に使うと高校生にはわかりにくいと考えたのでしょうか、参考に類語として示しています。

それにしても、「世間ではみとめられないような(ひそかな)恋愛の相手」では何だかわかりませんね。類語の「情夫・情婦」を見ると、

 

  情夫  夫のある女の人の愛人。[類]間夫・間男・色 [対]情婦
  情婦  妻のある男の人の愛人。[類]色 [対]情夫      三省堂現代新

 

これを見ると、「不倫の関係」だとわかります。「愛人」の項でこの説明を書けばいいのではないでしょうか。

こちらにも [類] がいろいろありますね。「間夫」なんて私はこの数十年見たことがないような語です。勉強になります。

「情夫」の類語が多い割に、「情婦」のほうは少ないですね。「妾」はもう死語に近いでしょうか。

 

  めかけ【妾】生活のめんどうをみている、妻以外の女性。[類] 二号・囲い者 [対] 本妻   三省堂現代新

 

「二号」ということばも、もう聞くことがありません。「囲い者」はもっと古いでしょうか。三省堂現代新は高校生の語彙を増やすのに有力な国語辞典です。

ちょっと横道にそれました。「愛人」に戻って。
「古い言い方」の「恋人」の意味を載せない辞典があります。現在は使われない用法だ、ということでしょう。

 

  愛人  世間ではみとめられないようなひそかな恋愛の相手。[用例]夫に愛人がいる。  例解新

 

「世間ではみとめられないようなひそかな恋愛の相手」は三省堂現代新と同じで、ちょっとはっきりしませんが、用例が効いていますね。「夫に愛人がいる」。テレビドラマの愛憎劇の始まりです。

例解新は中学生を対象としているようで、わかりやすい説明が特徴です。(この「愛人」の語釈は明瞭とは言えませんが。)

 

いつもなら最初にとりあげる三省堂国語辞典をまだ見ていませんでした。三国も「恋人」という意味を書いていないのです。

 

  愛人  夫や妻以外で恋愛関係にある相手。情婦。情夫。「-を作る」
  情夫 〔古風〕世間に知らせられない関係にある、男性の愛人。いろおとこ。(⇔情婦)
  情婦 〔古風〕世間に知らせられない関係にある、女性の愛人。いろおんな。(⇔情夫)  三国

 

現代での使われ方に重きを置き、「情夫」などは〔古風〕としています。それでいいと思います。

以上で「愛人」の記述についての話はいちおう終わりますが、「情夫・情婦」のほうはまだ問題が残っています。

 

上の、明鏡の記述の中に「内縁関係にある」という説明があったのに気づいたでしょうか。これは、「不倫の関係」とは別の話です。

明鏡は、「愛人」つまり「情夫・情婦」に二つの場合があるとしています。「不倫」と「内縁」です。

この「内縁関係」のほうだけを、「情夫・情婦」の意味としている辞書があります。新明解です。やはり独自路線で、他の辞書と違います。

 

  愛人  1愛する人。2「情婦・情夫」の婉曲な表現。 
  情夫 〔芸者・ホステスなどと〕内縁関係にある男性。
  情婦 〔正業についているとは思われない人と〕内縁関係にある女性。  新明解

 

「内縁関係」というのは、けっして「不倫」ではありません。

 

  内縁  婚姻届を出していないために、法律上の夫婦とは認められない男女関係。「-の妻/-関係」   新明解

 

「法律上の夫婦」になろうと思えばなれるはずの関係で、つまり双方とも独身のはずです。「事実婚」ですね。そういう状態である理由は、それこそ「世間に知らせられない関係」だったりするのでしょうか。

それにしても、「情夫・情婦」の〔 〕の中の説明が具体的ですね。「芸者・ホステスなど」ですか。それでは、「OLが上司の部長の愛人に」などというのはどうなるのでしょうか。

そもそも、「夫に愛人がいる」の場合はどうなるのでしょう。夫は「正業」についていないのでしょうか。そして「愛人と内縁関係」? 妻の立場はどうなるのでしょう?

それとも、「夫の愛人」は「愛人」の1の用法、「愛する人」と考えればいいのでしょうか。それでも、「不倫」の関係になることをはっきり書いたほうがいいでしょう。

 

  正業 〔非合法な手段によるものではなく〕まともな手段によって収入の得られる職業。かたぎの仕事。「-につく」   新明解(第七版)

 

「情婦」と内縁関係にあるのは「非合法な手段」によって収入を得ている人のようです。第五版だともっとはっきり書いてあります。

 

  正業 〔どろぼう・すり・やくざなどと違って〕まじめ(まとも)な職業。かたぎの仕事。「-につく」   新明解(第五版)

 

確かに、「やくざの情婦」というのはよくありそうな言い方ですね。

なかなか、新明解は面白い辞書です。

 

問題をまとめると、「情夫・情婦」は、「不倫関係」の相手を指すことばで、現在は「愛人」にその座を譲ったのか、あるいは、「内縁関係」にある、多少特色ある人々を指すことばなのか。

それとも、明鏡の言うように両方の意味があり、場合によってどちらかである、のか。

一冊の国語辞典だけを見て、それを信じられるならいいのですが、いろいろな国語辞典を調べていくと、いったいどれが正しいのかわからなくなってしまいます。

以上見てきた中では、「愛人」については現代例解がいいようですが、「情夫・情婦」のほうに「内縁関係」の場合を認めるかどうかが問題です。認めたほうがいいんじゃないか(明鏡説)と思いますが、では「愛人」にも「内縁関係」を認めるのか。それはないとすると、「愛人」と「情夫・情婦」はその点でずれる、ということですね。

 

最初に、岩波の語釈では結局「愛人」の意味がはっきりしないからダメだ、ということを書きましたが、同じような辞書があります。集英社です。

 

  愛人  1恋愛をしている相手。恋人。▽やや古い用法。2情人。▽「情婦」「情夫」に代わる語で、ふつう、「恋人」と区別して用いる。3《造語》人を愛すること。「敬天-」 

  情夫  愛人である男。色男。
  情婦  愛人である女。色女。
  情人じょうじん《文章》→じょうにん(情人)
  情人じょうにん 情を通じている相手。浅からぬ仲の人。愛人。色。じょうじん。     集英社

 

これらの語釈をつなぎ合わせて考えても、結局「愛人」の意味はわかりません。「恋人」と区別して用いる、とありますが、どう違うのか。「情を通じている」とか「浅からぬ仲の人」とか言われても、「恋人」もそうなんじゃないでしょうか。

集英社は、強い個性はないけれど、安定して一応の信頼が置ける辞書だと思っていました。これを見て、どうもそうでもなさそうだと思い始めました。