ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

三国第八版:なおかつ・なおさら・おいかける・おいうち

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

前回、用例が増えてよくなった例として「傾向」をとりあげました。

今回は、まず「なおかつ・なおさら」をとりあげます。

次の記事は、岩波の問題点をとりあげたものですが、三国を「もっと悪い例」として引き合いに出しました。

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次のように書きました。

 

  岩波が他の辞書と比べて特に悪いというわけではありません。もっと悪い
  例もあります。

    なおかつ(副)〔文〕なおその上に。
    なおさら(副)ますます。いっそう。  三国第七版

  これで何がわかるのでしょうか。50年以上前の三国初版の頃ならともかく、
  現在の国語辞典がこれでは情けない話です。(「なおかつ」を〔文〕として、
  その文体的な特徴を示したのはよいと思います。)

 

第八版ではずっとよくなりました。


  なおかつ〔文〕1〔一つの条件を満たして〕さらにそれ以外に。「自分にほこりを
    持ち、-他人を尊重する」2それなのに、やっぱり。「挫折をくり返して、
    -挑戦する」

  なおさら 〔ただでさえ大変なのに〕ますます。いっそう。「そんな手紙を出した
    ら、-おこらせるだけだ」   三国第八版

 

こうでなくっちゃ、という「改訂」の例です。これらの語釈・用例でも、まだ改良すべき点はあるだろうと思いますが、とにかく、第七版と比べると格段の改良です。

 

「追いかける」も第七版ではずいぶんかんたんな言い換えだけでした。

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  追いかける あとから追う。おっかける。   三国第七版

  追いかける 〔先に行くものを〕追う。おっかける。「犯人を-・ボールを-・
    アイドル(の公演)を-・英語を聞きながら追いかけて発音する」 第八版

 

第八版で格段に良くなりました。

前回参考にした明鏡の記述を。

 

  1先を行くもの、求めるものなどに追いつこう(追いついてつかまえよう)として、
   後から追う。追っかける。「逃げる犯人[先頭の走者]を━」「ファンが歌手を
   ━」

  2目標や理想とするものに向かって進む。追い求める。また、取り逃がさないよう
   に密着して追う。「流行[理想]を━」「記者が年金問題を━」「一日の動きを
   カメラで━」
  3同じような物事が引き続いて起こる。追っかける。「それを━ようにして次の事件
   が起こった」                                明鏡国語辞典第二版

 

こう比べてみると、まだ明鏡のほうがいいでしょうか。用例も多く、特に用法3を設けているところなど。

ただし、これは明鏡の第二版で、第三版では「記者が年金問題を━」の例が削除されています。改訂で用例を増やすというのはわかるのですが、明鏡の第三版は第二版より用例が少なくなっていることがよくあります。いったいどういう考えなのでしょうか。


次は、用例だけでなく、用法が新しく加えられた例です。
「おいうち」を。

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  おいうち [追い打ち・追い撃ち](名・他サ)追いかけてうつこと。追撃。「-を
    かける」  三国第七版

 

「追いかけてうつ」の「うつ」の意味がはっきりしません。「追い打ち・追い撃ち」という漢字表記を見ると、「打つ」か「撃つ」かと思います。

 

  おいうち [追い討ち・追い打ち(追い撃ち)] 1逃げる者を追いかけて討ち取る
    こと。追撃。「敵に-をかける」2打撃を受けて弱っているところに、さら
    に打撃を与えること。「被災地に感染症の蔓延が-をかけた」  明鏡

 

明鏡は「討ち取る」ことだとしています。

さらに重要なことは、明鏡には2つ目の用法が書かれていることです。現在ではこの使い方が多いのではないでしょうか。

 

この項目は、三国第八版では大きく改訂されて、

 

  おいうち [追い打ち・追い討ち・追い撃ち]1苦しい状態を悪化させるできごと。
    「暑さに-をかける(かの)ようにエアコンが故障」2(名・他サ)〔1の
    由来〕追いかけてうつこと。追撃。「-をかける」   三国第八版

 

となりました。

第七版の用法は、第八版では用法2とされ、1のほうに現代的な用法が置かれています。これでいいと思います。表記も「追い討ち」が追加されました。


以上のように、今回とりあげた項目は第八版で大きく改良されています。

それはいいのですが、逆に言えば、どうして第七版まで、あのような、手抜きと言われてもしかたがないような記述が見過ごされてきたのか、と思います。(特に、「なおかつ・なおさら」)

まったく、辞書を作るというのは大変なことですが、それをさらに数年ごとに改訂するなどというのもまた、終わりのない、大変な作業なのだなあと思います。

 

三国第八版:傾向

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

用例が増えてよくなった例を。

まず、「傾向」です。抽象的な語をどう的確に説明するか。
  

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  傾向 1ある方向へむかうようす。かたむき。2(略)  三国第七版
 
これでは何のことかわかりません。短い用例すらありません。

「ある方向へむかう」だけでは移動を表すのかと思います。それで「かたむき」です。
「傾向」の意味がわからなくてこの辞書を見た人は、途方に暮れるでしょう。
「かたむき」を見てもなんだかわかりません。

 

  傾き 1かたむく<こと/程度>。2傾向。「…する-がある」  三国第七版

 

第八版。

 

  1ある性質を強める方向に向かうこと。かたむき。「肥満の-がある・言葉を軽視
   する-が強い」2(略)  三国第八版

 

語釈も改良されましたが、何と言っても、用例が二つもつけられたのが大きな進歩です。
この語釈・用例で十分なのかどうかはまだ議論がありうるところだと思いますが、まずは第七版の何が何だかわからない状態から脱したことはよいことだと思います。

 

参考までに、前回も引用した他の辞書の記述を。新明解の2の用法は、他の辞書では省略しました。(さらにほかの辞書については、前回の記事をご覧ください。)

 

  1同じような条件(環境)にある物事が、全体にわたってそうなりそうな大勢に
  あると判断されること。「増加の-にある/頭打ちの-を示す/下降-を見せる」
  2その人の行動や態度を方向づけるような特定の思想(をいだくこと)。〔狭義
  では、社会主義的思想傾向を指す。例、「-的・-文学〕   新明解

 

  物事の性質、状態などが全体としてある方向に傾いていること。物事がある状態
  に向かって進もうとする動き。[例]人は易きに流れる傾向がある/どういう傾向
  の音楽が好きですか/地価は上昇の傾向にある。   小学館日本語新

 

  ものごとの性質や特徴がある方向にかたよっているようす。また、そのかたよって
  いる度合い。[用例]交通事故は、へる傾向にある。[類]かたむき。[表現]「・・・の
  傾向がある」「・・・の傾向にある」と同じ意味の言いまわしに、「とかく・・・になり
  やすい」「・・・しがちだ」「どちらかといえば・・・にかたむく」などがある。 例解新
    

三国の語釈の「向かう」だと、意志的な働きを感じさせますが、「肥満の傾向がある」はそういうことではないでしょう。語釈で「[何が]向かう」のかが示されていないことに問題があるのではないでしょうか。

上の3つの辞書は、語釈に「なにが」が明記されています。また、小学館新・例解新の用例に「なにが」が示されていることも重要なことだと思います。 

 

また、例解新は「・・・の傾向がある」「・・・の傾向にある」という「がある」「にある」の二つの文型の存在を示していますが、その説明はありません。同じ意味だとみなしているのでしょうか。

三国の用例は「がある」です。新明解の用例には「にある」が、小学館の用例には「がある」「にある」が出されています。

 

この二つの文型をとりうるということも含めて、「傾向」はより詳しい記述が必要な語だと思いますが、それを(小型)国語辞典としてどのように的確に記述すればいいのか。
辞書編集者の皆さんには、じっくり悩んでいただきたいところです。(とまあ、無責任な言いようで…。)

 

三国第八版:-たち

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

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元の記事は新明解第八版の問題点を書いたものですが、三国の第七版も同じ問題を持っていました。

 

  -たち(接尾)〔人間・動物などの〕複数をしめすことば。「あなた-・少年-
    ・母-・白鳥-」   三国第七版

 

「母たち」というのは「母」の複数でしょうか? 小学校の授業参観みたいな?
では、「山田さんたち」は? 「山田さん」の「複数」ではありませんよね。

第八版では、次のように第二の用法が加えられています。

 

  たち[接尾]1〔人間・動物などの〕複数をあらわす。「たくさんの子ども-・
    白鳥-がいっせいに飛ぶ」(略)2〔人間・動物などが〕そのほかにもいる
    ことをあらわす。「田島さん-も加わった」   三国第八版

 

でも、「そのほかにもいる」というのはどういう人たちでしょうか。

たとえば、

  切符売り場の前で、田島さんたちが列に並んでいたので声をかけた。

という場合、「田島さん」と「そのほかにも」人がいる、というだけの意味でしょうか。

まず思い浮かぶのは、「田島さん」と「そのほかの私(または田島さん)の知り合い」が、他の知らない人たちの間にいる、という状況じゃないでしょうか。

上の三国の用例「田島さんたちも加わった」の場合も、「田島さん」とそのほかの関係のない人が数人、ではなくて、「田島さんとその知り合いの人(たち)」でしょう。

 

明鏡第二版は次のように書いています。


   人・動物の複数を表す。また、~を代表とする一団の意を表す。
   「ぼく━・きみ━・若者━・小鳥━」「伯母━が遊びに来ている」  明鏡第二版

 

この「伯母たち」は、「伯母とその家族」というような意味でしょう。

「~を代表とする一団」というのは、ちょっとこなれていない感じがしますが、言いたいことはよくわかります。たんに、「そのほかにもいる」のではないのです。

そう考えると、「ぼくたち」というのも、「ぼく」の「複数」というよりも、「ぼく」と「そのグループ」と考えたほうがいい場合もあるのではないでしょうか。
数の子どもが一緒に「僕たち」という意識を持つ場合は「僕」の複数と言えます。「我々」と同じような意識ですね。

「君たち」にも、二つの解釈があり得ます。目の前にいる「きみ」と「君のグループと考えられる人たち」を合わせた場合と、目の前にいる一人一人を「きみ」として全体に呼びかける場合(つまり「きみ」の「複数」)と。こちらは、「諸君」に当たるでしょうか。

もともと複数でもあり得る名詞「おとな・若者・子供・鳥」などは「-たち」が「複数」を表すと考えていいのでしょう。(ただし、英語などで言う「複数形」とはずいぶん使い方が異なります。「おとなは~」と「おとなたちは~」はどのように使い分けるのか、を考えようとすると、さて、かなり難しい問題だと思います。)

また、「牧場にいる牛たち」というとき、牛だけが複数いる場合と、牛を代表とする他の動物もいる場合があり得るでしょう。

 

その辺のことまで考えて、さて、いかに短く、的確な語釈を施すか、が問題となるのだと思いますが、そもそも、単に「複数を表す」でいいと思っているのではどうしようもありません。

 

  たち 《人・生物を指す語に付けて》複数を表す語。▽連濁で「だち」ともなる。
   「友―」。人・生物以外に使うこともある。「思い出をさそう古い机―」。古語
   では、「ら」「ども」に対し、尊敬の気持を含む。「神―」「公―きんだち」
                            岩波 第八版

 

古語のことまで書いてあるのはいいんですが、現代語の用法をもう少し考えてくれたほうが…。「古い机たち」は必ずしも「複数を表す」のではないでしょう。

 

なお、明鏡の第三版は大いに問題があります。 

 

   人・動物の複数を表す。また、~を代表とする一団の意を表す。
   「ぼく━・きみ━・若者━・小鳥━」   明鏡第三版

 

「伯母たち」の例が削られています! 
これでは「~を代表とする一団」という説明が浮いてしまいます。

こういうのを「改訂」と言うのでしょうか。

 

追記:

「ぼくたち」の話のところで、言語学で言う "inclusive we" の場合を忘れていました。

「僕と君」を「ぼくたち」ということもあるのですね。「僕たち、一緒に頑張ろうね。」のように。

聞き手を「ぼくのグループ」に入れてしまう、と言うと変な感じがしますが。

こういう「-たち」はどう言ったらいいんでしょうか。

 

三国第八版:ディープ

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

「ディープ」という項目で、「深い。濃い。」という語釈では「新宿の-なゾーン」という用例がどういうことを表すのかわからないだろう、ということを次の記事でごちゃごちゃと書きました。

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  ディープ(形動ダ)〔deep〕深い。濃い。「新宿の-なゾーン」  三国第七版

 

第八版では次のように書き換えてあります。

 

  ディープ(ダナ)〔deep〕1深い。濃い。「-なファン」2一般的にあまり
    知られず、独特であるようす。「新宿の-なゾーン」  三国第八版

 

「新宿のディープなゾーン」というのが「深い。濃い。」では なんだかわからない、と前回の記事で書いたのですが、八版では用法2の「一般的にあまり知られず、独特であるようす。」という語釈の例になっています。「独特」が適切な説明だろうか、とも思うのですが、まあ、いいとしましょう。

しかし、用法1の「深い。濃い。」の用例が、今度は「-なファン」になっています。
なんということか。

「深い/濃い ファン」と言ってわかるのでしょうか。

「ディープなファン」という表現をどこかで見て、あるいは聞いて、どういう意味合いだろう、と思った人が三国を引き、「深い。濃い。」という単なる語の置き換えを見て、「ああ、そういう意味か。なるほど。」と思うのでしょうか。

「深いファン」?「濃いファン」? 何ですか、それは。

その意味がわかる人は、「ディープなファン」の意味がもともとわかっている人でしょう。

 

同じ出版社の辞書が「ディープなファン」は「深い/濃い」ではない、と言っています。

 

  ディープ 1深い。濃い。2[俗語]一般的な程度や常識をこえるようす。「-なファン」  三省堂現代

 

「深い。濃い。」は用法の1で、「ディープなファン」は用法の2.別の用法です。その語釈も、わかりやすいと思います。

 

ただ、用法1の「深い。濃い。」に用例がないのはよくないと思います。これでは、どういう場合に「深い。濃い。」の意味で「ディープ」が使われるのか、肝心なことがわかりません。

だいたい、「深い」と「濃い」ではずいぶん意味が違うわけで、それが一つの語で表せるというのはどういうことなのか。そこをわかるように記述しないといけません。

例えば、次の大辞泉のような。

 

  ディープ[形動]1 奥行きなどの深いさま。また、色の濃いさま。「ディープな
   ブルー」「ディープディッシュ」2 入れこんでいるさま。深くはまりこんでいる   さま。「ディープなファン」   大辞泉

 

この1のほうはわかりやすく書けていると思います。(なぜか語釈と用例の順が逆ですが。)

そして、用法の2で、「ディープなファン」という例を、三省堂現代と同様に「深い/濃い」という語釈とは別の用法の例としています。(大辞泉の語釈はあまりうまくないと思いますが。)

 

三国の編集者は、第八版の改訂の際にこれらの辞書を見ていないのでしょうか。

どう見ても、この項に関しては(も?)、三国の「改訂」はうまくいっていません。

 

三国第八版:おとな・こども(2)

前回の続きです。

 

  おとな 1からだがじゅうぶんに成長した人。成人。(以下略) 
  こども 1おとなになる前の人。〔動物にも言う〕(以下略)  三国第八版

 

この記述では不十分だ、というのが前回の話でした。

「おとな」を「からだがじゅうぶんに成長した人」というだけでは、中学生や高校生にも言えてしまうでしょう。それで「こども」が「おとなになる前の人」というのではどうにもなりません。

中学生が、「こども・おとな」って、国語辞典ではどう説明しているんだろう、と思って上の記述を見たらがっかりするでしょう。
この記述で、なるほど、さすが国語辞典はしっかりした説明が書いてあるなあ、と思うとは、まあ、思えません。

 

それに、「ヤングアダルト」の項には、「おとなと子どもの間の若者」とあり、

  こども - ヤングアダルト - おとな

という区分があるように読めます。これは、一般的な考え方とは違うでしょう。
また、「こども」の「おとなになる前の人」という説明ともずれています。
どうも、三国の編集者がこれらの語について十分に考えたとは思えません。

さて、どう考えたらいいでしょうか。

 

前に「おとな」について書いたとき(「2019-04-04 おとな」)には、新明解の記述が比較的いいんじゃないかと思いました。

 

  おとな 一人前に成人した人。〔自分の置かれている立場の自覚や自活能力を
    持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う〕

  一人前 子供が成長し、社会人としての権利・義務を持つ段階に達した状態。

  成人 〔法律上の権利・義務などの観点から見て〕社会の一員とされるおとな
    (となること)。    新明解

 

また、明鏡の「成年」の項。

 

  成年 心身が十分に発達し、一人前の能力をもつ大人として認められる年齢。
                      明鏡第三版

 

これらを合わせて考えると、

  心身が十分に発達し、社会の一員として認められるような(自活)能力があり、
  社会人としての権利・義務を持つ人

ぐらいのところかな、と思います。(新明解の「社会の裏表」云々は要らないでしょう。)

「からだ」と「こころ(精神)」と、「社会的存在」としての「おとな」です。

これを、法律(民法)では満二十歳以上、としていたのです。(昨日から(!)十八歳に引き下げるということになりました。)

ただし、学生などは二十歳を越えても十分「おとな」であるとはみなされないことがあって、それはやはり「自活」していないと考えられるからでしょう。(もちろん、「自活」している学生もいますが、一般的な話として。)

鳥やけものなどで言えば、「自分でエサをとってこられるようになる」ということです。

 

以前、「おとな」の話に続けて、動物のことを書きました。

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人が「成人」になるなら、動物、例えば魚は「成魚」になるわけです。
で、「成魚」とは、と辞書を引くと、(きちんと書いてある辞書では)

 

  成魚 生殖が営めるまでに十分に成長したさかな。     岩波
     稚魚・幼魚から成熟して生殖機能をもつようになった魚。 学研現代
 
となります。
動物が「成熟する」ということは、次の世代を産み出せるようになる、ということです。

魚だと、卵を産みっぱなしにして後は運命に任せることが多く、だから大量の卵を産むわけですが、鳥や哺乳動物になると産んだ後も面倒を見なければなりません。「産み育てる」わけです。

 

人間も、「おとな」になるということは、次の世代を生み育て(られるようにな)るということが一つの要件でしょう。身体的成熟と、社会的自立と。

なぜか、国語辞典ではこのことは触れられていないようです。

 

少し別の観点から考えてみます。

小さな子どもにとって、「おとな」の代表はまず自分の親たちでしょう。そして、近所の、自分の親に似たような人たち。おばさんやおじさんたち。

もう少し若そうな、しかし体の大きさは十分ある高校生や二十歳前後の人たちを、幼稚園児・小学生は「おとな」だと思うのか。
近所の「おにいさん・おねえさん」たち?

子ども自身は、自分がどうなったら「おとな」になるのだと思っているのでしょうか。

「おとな」ということばを、大人自身と、子どもたちがどう使っているのか、そして「こども」とは。

 

三国第八版:おとな・こども

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

「おとな」の項について。

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三国第七版の説明は循環しています。

                                         
  おとな 一人前に大きくなった人。成人。
  一人前 (りっぱな)ひとりのおとな。   三国第七版(用例その他省略)

 

これはひどいですね。

 

  成人 1おとな。「-教育」2成年になった人。   
  成年 人の、知識・からだがじゅうぶんに発達したとされる年齢。〔民法では
     満二十歳〕「-者」 (⇔未成年)    三国第七版

 

「成年」まで行くと、いくらか説明のある語釈にたどり着きます。
つまり、少なくとも次のように書けばずっといいのじゃないかと思うのですが。

  おとな 知識・からだがじゅうぶんに発達したとされる人。成人。

(しかし、「成人」の用法1と2の関係は? 「おとな」と「成年になった人」は別の用法なのです。)

 

第八版ではどう「改訂」されたでしょうか。

 

  おとな 1からだがじゅうぶんに成長した人。成人。(以下略)  三国第八版

 

おやおや、「知識」がおっこっちゃいましたね。知識は不要と考える?
知識が「充分に発達」しなくても「おとな」にはなってしまう、ということでしょうか。
いろいろ考えた末に、あえて「知識」を書かなかったのか。

それと、「からだ」だけを言うと、今の中高生あたりは十分「おとな」に含まれてしまわないでしょうか。

中高生は「おとな」とは言えないと考えるのが一般的でしょう。
つまり、やはり「からだ」だけで「おとな」と認めるには無理があるのでは?

第七版の「一人前」が意味するところは「からだ」だけではなかったはずです。(その語釈は非常に不十分だったとしても)
その分、改訂で後退したとも言えます。

 

では、「おとな」の反対語である「こども」とは。どのあたりまでを言うのでしょうか。そして、その根拠は。

ヤングアダルト」ということばをとりあげた時に、「こども」についても考えました。

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  こども 1〔からだが〕一人前になる前の人間・動物。「-あつかい・おなかの-
    〔=胎児〕」(⇔おとな)   三国第七版

 

「一人前になる」とはつまり「おとなになる」ことですね。八版ではそう書いています。

 

  こども 1おとなになる前の人。〔動物にも言う〕(以下略) 第八版

 

しかし、「ヤングアダルト」の項には次のように書いてあります。

 

  ヤングアダルト おとなと子どもの間の若者。特に、中学上級生から高校生を言う。    YA。「-小説」  三国第七版・八版

 

「おとなと子どもの間の若者」です。この項の執筆者によれば、子供と大人は続いていないんですね。

「中学上級生から高校生」は「おとな」ではありませんが、「こども」とも言いにくい部分があるのは、確かにそうです。

さて、どう考えたらいいのでしょうか。

三国の編集者は、第八版への改訂の際にこの辺のことを十分考えなかったようです。

 

三国第八版:う(得)・う(助動詞)・ヴ

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

今回はかなり大きく変わった項目を。

まず、「う(得)」から。

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  う [得] (他下二)〔文〕⇒え(得)る。  三国第七版

 

七版ではこれだけで、「える」を見ても、「う」についての情報はありませんでした。そこから「うる」の項目へ行っても、「う」がどういう場合にどのように使われる形なのかはわかりませんでした。

第八版。

 

  う [得] (他下二)〔文〕「え(得)る」の文語形。⇒ありうべき・うべかりし・
     うべき。   第八版
        
「得る」の「文語形」であること。これは新明解と同じですね。(〔文〕という記号は「文章語」の意味です。)

そして、「う」自体がそれだけで使われることはないので、実際に使われる複合した形が参照項目としてあげられています。非常にわかりやすくなったと思います。

また、前回の記事で「うる(得る)」の活用形について「折衷的なもの」と(不正確に)書きましたが、第八版では「うる」の項に、

 

  うる(略)[!]文語下二段「う」が口語下一段「える」に変化する途中の形。 第八版

 

という注釈が付け加えられました。([!]という記号の意味は、表紙見返しの「記号・略号表」によれば「豆知識」だそうです。)


次に助動詞の「う」について。

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  う(助動・特殊型) 主として意志・推量をあらわす助動詞。〔五段活用の動詞に
    つく〕「さあ、行こ-」⇒:よう。  三国第七版

 

これは、参照項目の「よう」も含めて、説明が不十分な項目でした。

第八版の「う」は12行の詳しい解説が施されています。「よう」も7行になりました。
まあ、これでも他の辞書、新明解・明鏡・岩波などと比べるとずいぶん短い解説なのですが、文法書ではないのですから、このくらいで十分だと言っていいのでしょう。


もう一つ。ちょっと変わった項目ですが、第七版には次のような項目がありました。

 

  ヴ ⇒ブ 例、サーヴ⇒サーブ。  三国第七版

 

言わんとすることはよくわかり、誤解のおそれはないと思うのですが、辞書の項目の書き方としてこれでいいのだろうか、ということをごちゃごちゃと書きました。

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第八版では8行の解説がついています。

 

  ヴ ◇外国語の音の「v」「vu」などを特に表すときに使うカタカナ。多くの場合は
   「ブ」と書き、この辞書の見出しでも「ブ」で示す。(以下略) 第八版

 

「ヴァ」「ヴィ」「ヴェ」「ヴォ」の項も少し変わりました。

 

  ヴァ ⇒バ 例、ヴァイオリン⇒バイオリン。  第七版

  ヴァ ◇この辞書の見出しでは「バ」。例、ヴァイオリン⇒バイオリン。→ヴ。
                        第八版

 

この「◇」という記号の説明は、「記号・略号表」の「品詞など」に「右以外(特定の活用形など)」とあります。この「右」とは品詞名の略記号や「造」「連」(連語)などです。
この◇は、普通の「語」の項目ではないということを示しています。これも、ささいなことですが、項目の書き方として必要なことでしょう。