ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

広辞苑と形容動詞:再び・第一版の「国文法概要」

以前、「2022-08-29 広辞苑と形容動詞(1)」という記事を書いた時に、第五版の「日本文法概説」を紹介し、(第六版もほとんど同じ。もっと前の版も見てみたいのですが、それはまたいつか。)
と書きました。

先日、大学の図書館へ行って『広辞苑 第一版』(1955)の「国文法概要」を見ることができましたので、紹介します。なお、見たのは「第26刷(1967)」です。

 

  国文法概要

   本書で単語を分類しまたその性質を示すにあたって採った方針の大体を述べ、
  本書を用いるのに役立つように日本文法の大要を説明する。
  (略:「文」と品詞の概略)

 

「第一版」のp.2300からp.2307まで、ほんの8ページの短いものですが、昭和三十年の段階でこのような文法解説を付けたことは、国語辞典として重要なことだったと思います。(『大辞林』はとてもいい辞書だと思いますが、文法解説はありません。)

 

  名詞
   名詞とは、思想の主題となる事物・概念を指示し、それに名づける名目である。
  例えば、「机」「草」「酒」「赤」「厚み」「悲しさ」「勉強」「こころ」「政府」
  などである。国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化
  および格語尾変化は無く、格の相違は助詞によって表示される。ヨーロッパ文典
  にならって普通名詞・集合名詞・物質名詞などの別を立て、また、いわゆる数詞
  を別の品詞として立てる説もあるが、日本語では特にその区別が必要・有用である
  という根拠は見出されない。従って本書では、それらの区別を一切記さなかった。
  また、本書には多数のヨーロッパ語を取り入れたが、それらは原語の品詞の如何を
  問わずすべて名詞として取扱った。本書は国語辞書であり、それらの単語は国語と
  しては文法的にはすべて名詞としてはたらくからである。例えば、ヒット、スチ
  ール、ゴチック、ロマネスク、シャン、アベックなど。
   名詞の中で問題になるのは世にいう形容動詞の語幹である。
    (1)静か のどか 明らか さわやか 綺麗 厳重 急 突然など
    (2)堂々 駸々 洋々 泰然 端然 断乎 確乎 縹渺など
  右の(1)は、「なり」「に」「な」「で」「だ」などを従えていわゆる「ナリ活用
  の形容動詞」を形づくり、(2)は「たり「たる」「と」「として」などを従えて
  「タリ活用の形容動詞」を形づくる。この形容動詞という一品詞を認めるか否か
  は、現代の学界に両説がある。形容動詞を認める説の根拠は、その語幹が文中で
  独立して用いられること無く、「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格
  に立つことが無く、連体修飾語を承けることが無いという点にある。一方、形容
  動詞を認めない説があるが、その論拠は次の通りである。まず、その語幹が独立
  して用いられることが全然無いとは言えず、例えば、「静」(しずか)という名前、
  「確か」という副詞、「ここもにぎやか、あそこもにぎやか」のような用法がある。
  また、われわれはその語幹を独立して思い浮かべることも出来る。元来、この語幹
  は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではそのような抽象的な
  属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していないために、それら
  が「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つことが無いに過ぎない。
  また、形容動詞語幹は連体修飾語を承けることが無いというが、世に名詞と信じ
  られているものも必ずしもすべて連体修飾語を承けるとはかぎらない。例えば、
  東・西・南・北・前・後などは連体修飾語を承けず、連用修飾語「少し」「やや」
  などを承ける。これら東・西・前・後などの語は、形容動詞語幹「静か」「のど
  か」「堂々」「突然」などと性質が同じである。このように考えればいわゆる形容
  動詞というものは、それらの属性概念を表す名詞に、指定の助動詞「なり」「たり」
  が付着して成立したものであると見られる。つまり、形容動詞の語幹は、意義と
  して用言的な属性概念をもつものではあるが、品詞としては名詞とも見られるもの
  である。それ故特別に形容動詞としう一品詞を立てる理由はない。本書は後者の
  見解に従い、形容動詞なる品詞を立てず、その語幹をすべて名詞として取扱った。
                        『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2300-2301

 

初めの段落の、

   国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化および
   格語尾変化は無く

というところ、いかに西洋の言語の文法に頭が支配されているかがわかって面白いですね。「文法」のモデルは「ヨーロッパ文典」なのです。

 日本語を「他の言語」と比較して考えることは重要ですが、そこで中国語や朝鮮語インドネシア語が浮かぶことはない。タイ語ヒンディー語について何らかの知識のある「国文法学者」はほとんどいなかったでしょうし、今でもごく少数でしょう。(などと偉そうに書いている私も…)

外来語(「多数のヨーロッパ語」)は「すべて名詞として取扱った」というところに関しては、「2022-09-08 広辞苑の名詞:外来語」で疑問を述べました。「アーメン・グッバイ」などはどうなのか、という問題です。

 

さて、「名詞」の節で大きな分量を占める形容動詞に関する議論で、

  元来、この語幹は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではその
  ような抽象的な属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していな
  いために、それらが「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つこと
  が無いに過ぎない。

というところはどう考えても無理があります。「主格・目的格に立つこと」がないのだったら、それはつまり名詞ではないということだと考えるべきです。名詞の最も中心的な文法的役割は、述語に対して「格」になることなのですから。

さらに「連体修飾語を承ける」かどうかという話で、「東・前」などは連体修飾語を承けないと書いていますが、「その建物の東」や「建物の前」などは連体修飾語を承けているのではないという言い訳が必要です。

そもそも、そのようなごく少数の「例外」と同じだから、形容動詞の語幹も名詞と見ることができるのだ、というのは、論理に大きな無理があります。

昭和三十年ごろは、この程度の議論で形容動詞否定論が成り立ったのでしょうか。

この第一版では、上に引用した「名詞」のところで形容動詞が扱われるだけで、「形容動詞」という小見出しの節はありません。それが、第五版になると「名詞」では少し触れられるだけで、「形容動詞」という節が立てられ、その中で議論され、結局否定されます。そして第七版では「名詞」のところでは形容動詞には触れず、「形容動詞」という節の中に「形容動詞否定論」という子見出しが立てられるのですが、はっきりしない議論の末に、形容動詞は名詞と同じように扱う、という結論がなぜか述べられます。
この「2022-08-31 広辞苑と形容動詞(3)」で引用した第七版の煮え切らない議論を見ると、上の第一版のほうがかえって否定論として筋が一貫していて読みやすく感じます。だから、反論しやすい。

第五版や第七版の「解説」は、形容動詞を否定する辞書本文は変えることができないので、その言い訳をなんとかしようとしている、という感じさえ受けます。

 

以上の形容動詞の話のすぐ後に、擬声語・擬態語の話が続きます。それも引用しておきます。

 

   なお、名詞として扱うべきものに象徴詞がある。「ちゅうちゅう」「ざわざわ」
  「ぴしゃぴしゃ」「こっそり」「ちゃっかり」「がたがた」「どろどろ」などの
  擬声語・擬態語は、物の音、動物の鳴き声、事態、感覚などを、人間の音韻によって
  擬する語で、国語には極めて多く行われる。これらは副詞としても用いられるが、
  堂々、断乎、突然などと同じく「と」「として」「な」「に」「で」「だ」などを
  従えていわゆる形容動詞の語幹の位置に立つことが少なくない。従って、それらの
  語と同じく、象徴詞は名詞の一類と認めるべきである。国語の名詞のうち、属性概念
  を示す語や、時・程度を示す語は、そのまま副詞として用いられるから、意味上、
  当然名詞と副詞とに両用される語は名詞・副詞と並記することを省いた。
                         『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2301

  (以上で、「名詞」の解説の全部です。)

 

この部分は、「2022-09-09 広辞苑の名詞:擬声語・擬態語」でとりあげた第五版とほとんど同じです。そこで詳しく批判しました。はっきり言って、まったく箸にも棒にもかからないような「論」だと思いますが、いったいどうしてこのようなことが広辞苑の文法として書かれているのでしょうか。(第七版ではこの部分は削除されていますが、辞典本文の方針はこのままです。)

 

「痛める」:再び

このブログを始めたころ、「痛める」という動詞について書いたことがあります。「痛める」というのはどういう意味かはっきりしない、という話でした。(2013-03-14「痛める」/2013-03-24 「痛める」続き)

例えば、ナイフで手を切って「手を痛めた」と言うか、木登りで落っこちて足を折ったら「足を痛めた」と言うか。どうも言わないんじゃないか、と。

   どうも、「痛める」というのは、筋肉か関節か、つまりははっきり外から見え
   ない部分を「痛くした」場合じゃないか。それも、骨折ほどひどくはなく。

というのがぼんやりした結論でした。

(「痛く[した]」というのは、何もしないのに腕が痛くなってきたら「痛くした」とは言わない。何かそれとわかるような原因(ぶつけたとか、ひねったとか)があって、その後「痛くなった」場合に、「痛くした」と言うだろうから、ということです。「痛める」も同じ。この事は、前の時は書きませんでした。)

 

辞書を引いてみると、例えば、

 

   痛める 1〔事故などで〕痛くする。「ひじをー」(以下略)   三国七版

 

これじゃ何だかわかりません。どういう事故で、どういうけがなのか。

 

   痛める 1体のある部分に損傷や故障を起こす。悪くする。「転倒して腰をー」
     「歌いすぎて喉をー」[表現]「自分のおなかをー・めた子」のように、肉
     体的苦痛をいう言い方もあるが、多くは体の損傷や故障をいう。  明鏡

 

「損傷や故障」だと言っています。「転倒して」「歌いすぎて」とその原因を書いていて、三国よりは詳しいけれど、私の疑問にはぜんぜん答えていません。

 

最近、小学館日本語新に次のような記述があることを知りました。

 

   痛める 1体に痛みや故障を起こす。[例]自分のお腹を痛めた子/腰を痛めて
      休む。(以下略)
   [類語]「いためる」「傷つける」の異同
    (略)この二語は、体の一部を悪い状態にしてしまう意を表す点で共通する。
     「いためる」は、体のある部分を痛くする、あるいは悪くする意だが、外
     からはわかりにくい状態で、しかも意図的でない場合にいう。(略)
     ねんざ、骨のひびなど、外見上の傷でない場合は、「いためる」を用いる
     のが自然。    小学館日本語新

 

やはり辞書はあれこれ調べてみないといけませんね。前の記事の時は、小学館日本語新までは調べていませんでした。
「外からはわかりにくい状態」というのは、私の直感と一致します。信頼している辞書にこう書いてあると安心します。また、意図的でない。なるほど。

 

十冊くらいの辞書を見た中で、私がちょっと考えて気付く程度のことが書いてあったのが一冊だけというのは、まったく寂しい現状だと思います。

 

びっくり

これも広辞苑の副詞を調べていた時に、辞書によって品詞が違うことに気付いた語です。

まず、広辞苑から。(語釈などを省略します。)

 

  びっくり(名)「地震に-する」「-するほど広い」  広辞苑

 

名詞と言いながら、用例は「~する」をつけた動詞の形だけです。

広辞苑は何でも名詞にしてしまうので、「びっくり」が名詞だと言われても、まあ、そうなんだな、と思ったのですが、岩波も名詞としています。

 

   〘名・ス自〙「いきなり来たので―した」「―仰天する」 岩波

 

名詞と言いながら、名詞の用例(「~が/を」)はありません。

広辞苑の付録「日本文法概説」によると、

 

   名詞は物や事に命名したもので、自立語で、活用しない。「山」「石」「川」
  「上」「下」「遊び「悲しみ」などである。単独で、あるいは助詞の助けを
  借りて、文中で主語・目的語などの諸機能を果たす。
                    広辞苑「日本文法概説」(第七版)「名詞」p.196

 

「文中で主語・目的語などの諸機能を果たす」つまり「~が」の形で「主語」になれるはずですが、「びっくりが~」という文はごく普通の文としてあるのでしょうか。

岩波の解説は、

 

   名詞は事物を表すのに使う呼び名であって、活用しないことが文法上の特色
  である。「山」「女」「インク」「会社」などの物や、「家事」「試合」
  「労働」「納税」などの事柄を始め、「紫」「甘さ」「重み」「混乱」「悲哀」
  「結論」「東」「関係」「三つ」など、それについて述べることができる対象
  の呼び名は、すべて名詞である。それゆえ多くの名詞は主語として使える。
   しかし中には、「迎接にいとまがない」の「迎接」、「すりひざで進む」の
  「すりひざ」のように、主語では使うことのないものもある。そういう単語も、
  呼び名として使い、また格助詞がつく点でも他の名詞と同様な性質を持つ。
  そういうものは、この辞典では名詞と認めた。
          岩波国語辞典「語類概説 名詞・代名詞」(第八版p. 1700)

 

「多くの名詞は主語として使える」「しかし中には、(略)主語では使うことのないものもある。」

では、「びっくり」はどういう根拠で名詞なのでしょうか。そもそも「事物の呼び名」と言っていいのかどうか。

他の辞書を調べてみると、岩波と同じように考える辞書が多いことに、私はびっくりしました。

 

  名・自サ   三国 「-こく〔=びっくりする〕」 ・ぎょうてん ・-ばこ
            ・「-マーク」 ・「-みず」
  名・自サ   新選 「-箱」  別項 びっくり仰天 
  名・自サ   学研新 「大きな音に-した」「-仰天」「-箱」
  名・自サ   三現新 「値段を聞いて-する」
            別項 びっくり仰天 びっくり箱
  名・自スル  旺文社 「急な話に-する」 -ぎょうてん -ばこ(子見出し)
  名・する   例解新   別項 びっくり仰天 びっくり箱  

 

これらの辞書で、名詞であるとはどういう用法を持つことなのか。「びっくり仰天」「びっくり箱」などの複合語の例は、名詞としての例になるでしょうか。いかにも名詞であるという用例は出されていません。

私は、「びくびく・びくっと」などと同じように副詞であり、「~する」の形で動詞である、となんとなく考えていました。
ただ、改めて考えると、「びくびく(と)怯える」のように動詞を修飾する用法、つまり副詞としての用法がなさそうで、そうすると確かに副詞とは言いにくいなあ、と思います。

 

副詞とする辞書もあります。

 

  (副) 「━して目を覚ます」「━仰天(=非常におどろくこと)」 明鏡
  (副)-と-する「-仰天(する)〔=ひどく驚く(こと)〕/-箱(バコ)」 新明解

  副<する>  現代例解
  副<する> 「彼の会社が倒産したとは本当にびっくりだ」  小学館日本語新

 

新明解は「-と」としていますが、どういう用例になるのでしょうか。「びっくり(と)驚く」?

小学館日本語新の「びっくりだ」は、「副詞+だ」と考えるのでしょう。

さて、名詞か副詞か。

 

もう一つ、ちょっとびっくりした辞書があります。

 

  びっくり(造語) ▽一般に「-する」の形で用いる。  集英社

 

なんと、造語成分だというのです。

「-する」「-仰天」「-箱」などがその使い方であるのなら、つまり「びっくり」だけで使われることがないのなら、それは造語成分だと言えます。

しかし、上の例のような「(~とは)びっくりだ/です」という言い方があるので、「造語成分」とするのはちょっと無理なんじゃないかと思います。

 

コーパスで用例を探してみました。(NINJAL-LWP for TWC)

 ・吃驚を通り越して人間不信になりそうである。
 ・店員もビックリを通り越してあきれ顔でドル箱を整理してくれている。
 ・びっくりを超えて感動しました。

なるほど。「ビックリを通り越して」というのは一つの慣用的な言い方ですね。これは名詞だ。

「びっくりが~」という形の例もありますが、どうもまだこなれていない感じです。

 ・長崎にはいろんなびっくりがあります。
 ・今回のツアー中は、何回もビックリがありました。
 ・食材やその使い方など、嬉しいビックリがたくさんありました。
 ・ビーツを練り込んだ真っ赤なパスタにビックリしましたが、食後にもまた、
  ビックリがありました。
 ・上記の2番目のビックリには「できるはずの無いことができた」という確率レベル
  でのビックリに加えて、「イヌにも左右の概念が理解できるのか」という理論レベル
  でのビックリがあるが、ここでは深く追求しない。
 ・じゃあ、武田双雲はこれからも何をやるか分からない、どんなびっくりが出てくる
  か楽しみだって思われるかもしれませんよね。

「びっくりの~」という例。こちらはずっと自然な言い方です。

 ・ビックリの美味しさ!
 ・仕出屋さんもびっくりの美味しい料理を作ってくれる。
 ・その一段も幅60cmでびっくりの狭さ。
 ・声も出ないほどびっくりの連続です。
 ・ホントあわただしくって、毎日ビックリの連続ですよ。
 ・さて、宴会がはじまってみると、またビックリの連続である。
 ・お客様もビックリの結果になりますよ!
 ・意外な事実に、芸人たちもビックリの様子でした。
 ・漫才師もビックリの内容でした!
 ・アドバイスした私もびっくりの成果でした。

 

こういう例を見ると、名詞とするのがいいのかなあ、とも思います。

ただ、「~もびっくりの~」という形は、「[~もびっくり(だ)]の~」とでも表したくなるような感じを受けます。うまく説明できませんが。

さて、どう考えたらいいでしょうか。

よく使われる、ごく普通の語なのですが、意外に難しいところがあります。

 

「大きな・小さな」「おかしな」

前回の「めった(な)」に関連した話です。

「めったな」という形はいかにも形容動詞風ですが、「×めっただ」という形(終止形)がないことを考えると、形容動詞とは言い難いものです。そこで、「連体詞」とする考え方があるということを前回書きました。

同じような例として知られているのが「大きな・小さな」「おかしな」という三語です。この三語は「連体詞」とされることが多いのですが、形容動詞とする辞書もあるので少し紹介します。(品詞に関するところだけ引用します)

 

  おかしな(連体)  明鏡
  おかしな(連体)  新明解
  おかしな(連体)[形容動詞とする説もある]   三国 三現新

 

これらの辞書は「おおきな・ちいさな」も同じ扱いです。

岩波は「おかしな」と「大きな・小さな」の扱いが違います。

 

  おかしい(形) ▽連体形相当の「おかしな」の形もある。
  大きな〘連体〙大きい①②。⇔小さな。
  小さな〘連体〙小さい。⇔大きな                      岩波

 

「おかしな」は形容詞の「おかしい」の「連体形相当」扱いですが、「大きな・小さな」は(「大きい・小さい」とは別の)連体詞とします。

 

広辞苑も「大きな・小さな」は連体詞とします。
「おかしな」という独立した項目はなく、びっくりしたのですが、

   おかし(形容詞語幹)

という項目があり、その子見出しとして「おかしな(連体)」がありました。つまりは明鏡/新明解などと同じです。

 

旺文社と新選は、もう少し詳しい注釈をつけます。同じ事実に基づいて、違う判断をするところが面白いです。これらの語を、旺文社は「連体詞」、新選は「形容動詞」とするのですが、

 

  おかしな(連体) [参考]「態度のおかしな人」のように、上の言葉を受ける
    はたらきのあるところから、連体形だけが使われる形容動詞とする説もある。  

  おおきな(連体) [参考]「体の大きな子」のように、上の言葉を受けるはたらき
    のあるところから、連体形だけが使われる形容動詞とする説もある。
                                    旺文社

  おかしな(形動) [参考]連体形だけが使われる。連体詞とする説もあるが、
    「服装のおかしな人」のように、上にくることばを受けるはたらきのある
    ところが、ふつうの連体詞とちがう。   

  おおきな(形動) [参考]連体形だけが使われる。連体詞とする説もあるが、
    「頭の大きな人」のように、上にくることばを受けるはたらきのある
    ところが、ふつうの連体詞とちがう。               新選

 

同じことを反対側から述べています。

ただ、この「上の/上に来る 言葉」だけでは説明が足りないように思います。

この「の」は、「が」でも言える、いわば主格を表す「の」です。(「態度/服装 がおかしな人」「体/頭 が大きな 子/人」)

そう考えると、新選が言うように「ふつうの連体詞とちがう」のは確かです。しかし、「連体形だけが使われる形容動詞」というのは、どうでしょうか。あるいは、岩波の「おかしい」の項の「連体形相当の「おかしな」の形もある」という説明も、なんだか。

 

明鏡は、「大きな」の用例には「が」、「小さな」の用例には「の」を使っています。これは不統一なのか、意識的に変えたのか。「おかしな」にはこの注記はありません。

 

  大きな(連体)[使い方](1)「体[肝っ玉]が-人」のような、形容動詞の名残を
    とどめた述語用法もある。   

  小さな(連体)[使い方](1)「背[気]の-人」のような、形容動詞の名残をとど
    めた述語用法もある。     明鏡

 

「形容動詞の名残をとどめた述語用法」ですか。連体詞だけど、述語用法がある。
ふーむ。

 

大辞林は新選と同じく形容動詞説です。

 

  大きな(形動)〔「大きな」を連体詞とする説もあるが、この語は「耳の大きな
    人」などのように、述語としてのはたらきをもっている点が、一般の連体詞
    とは異なっている〕

  小さな(形動)〔「大きな」を連体詞とする説もあるが、この語は「手の小さな
    人」などのように、述語としてのはたらきをもっている点が、一般の連体詞
    とは異なっている〕
  おかしな(形動)〔「おかしな」を〕連体詞とする説もあるが、この語は「大き
    な」「小さな」と同様、述語としての働きを持つことが、一般の連体詞とは
    異なっている〕       大辞林

 

この辺りの問題は、どちらが「正しい」かというより、その辞書の編集者の考え方の違い、と言っていいのでしょう。

結論はともかく、言語事実に基づいたいろいろと細かい記述を見つけると、国語辞典が少しずつ進歩しているようでうれしく思います。

(それにしても、三省堂の辞書は、現代語の小型辞書三冊は連体詞とし、中型辞書である大辞林が形容動詞とする、というのはどうなんでしょうか。辞書編集部の人たちはどう思っているのか。語釈が多少違うのは辞書の個性ですが、品詞判定が違うのはちょっと。岩波書店広辞苑と岩波国語辞典も違っているわけですが。)

 

めった・めったな・めったに

広辞苑の副詞を検討したときに出てきた語です。

辞書によって扱いが大きく違うので、いろいろ見てみます。

 

まず、広辞苑から。(例文の一部を省略します)

 

  めった 1分別のないさま。むやみやたらなさま。「-な口はきけない」
    2(下に打消の語を伴って)容易に。なかなか。       広辞苑
  
まず、「めった」は名詞扱いです。広辞苑は「形容動詞」という品詞をを認めないので、「-な」の形で名詞を修飾する「名詞」とします。
そして、名詞とは別に「めったに」という形の副詞を認めます。

 

  めったに〔副〕1むやみやたらに。むちゃくちゃに。
    2(下に打消の語を伴って)ほとんど。まれにしか。「-見られない代物」
                                広辞苑

 

次に、新明解国語辞典


  めった【滅多】-な〔無分別を意味する中世語「めた」の変化〕どんな結果になる
    かを考えもせずに、やりたいほうだいのことをする様子だ。「-な事を言う
    ものではない/-打ちにする」[表記]「滅多」は、借字。[文法]「めったな+
    体言」の形は、一般にあとに否定表現を伴う。

  めったに(副)〔もと、「普通以上に」の意〕〔否定表現と呼応して〕特別の場合
    でない限りそうはしない様子を表わす。「あの人が休むなんて-無いこと
    だ/-気が許せない/-出掛けない」            新明解

 

新明解も形容動詞という品詞を認めません。

「めった」は名詞ですが、「-な」の形で名詞を修飾するので、それを表示し、「形容動詞としての用法を併せ有する」ものとします。

そして「めったに」は別の副詞。

 

岩波国語辞典。

 

  めった【滅多】〘ダナ・副〙やたら。
    ㋐分別のないこと。めちゃくちゃ。「―切り」「―なことは言えない」。
     節度なく。むやみ。「そんなことを―に言おうものなら」
    ㋑《「―に」「―と」の後に打消しや反語を伴って》そうざらに。「―には
     無い偶然のめぐり合わせ」「―に行くものか」「―と無い事」
    ▽「滅多」は当て字。       岩波

 

岩波によれば「めった」は「ダナ」つまり形容動詞です。名詞ではありません。
そして《「―に」「―と」の後に打消しや反語を伴って》副詞としても働く。

 

三省堂国語辞典

 

  めった(ダナ)1①よく考えないでするようす。むやみ。やたら。「-なことを
     言うものではない」
    ②〔多く、後ろに否定が来る〕よくあるようす。かんたん「-なことでは近
     寄らない」 
        2[造]めちゃくちゃにするようす。「-切り・-突き」(略)
   ・めったに(副)〔後ろに否定が来る〕①機会がほとんどないようす。「-客が
     来ない」(略)   三国

 

まず、「ダナ」つまり形容動詞です。それから「造語成分」。例語は「滅多切り・滅多突き」。

岩波と同じく、名詞の用法を認めません。

そして、「めったに」の形で副詞。

 

明鏡国語辞典は、ちょっと独特です。

 

  めった【滅多】(造)むやみやたらである意を表す。「━打ち・━負け」
   ▽「めた(=むやみやたら)」の転。[表記]「滅多」は当て字。かな書きも多い。

  めった‐な【滅多な】(連体)
    1 思慮のないような。軽率な。むやみな。「━ことを言うな」「━返事は
     できない」
    2 ごくふつうである。当たり前の。「━ことじゃ驚かない」 [書き方]→滅多
    [使い方]下に打ち消しや禁止の表現を伴って使う。もと、打ち消しを伴わない
    言い方もあった。「滅多に」も同様。「滅多な抗議を申し込むと又気色を悪く
    させる危険がある〈漱石〉」

  めった‐に【滅多に】副《下に打ち消しを伴って》まれにしかないさま。ほとんど
    起こらないさま。「病院には━行かない」「こんなチャンスは━ない」
    [書き方]→滅多 [使い方]→滅多な               明鏡

 

まず、「めった」は名詞ではなく、「造語成分」とします。これは三国と同じ。例は「めった打ち・めった負け」。

また、「めったな」という形を「連体詞」と見なします。これが以上の辞書と違うところです。

おそらく、「めっただ」という述語になる形がないから、ということでしょう。

そして、「めったに」は副詞です。

 

以上の品詞表示をまとめると次のようになります。

        めった   めったに    めったな

  広辞苑    名詞    副詞    名詞の一用法
  岩波     形動    副詞     (形動) 
  新明解   名(形動)  副詞    形動の用法を持つ
  三国    形動・造語  副詞     (形動)
  明鏡     造語    副詞      連体詞

 

さらに他の国語辞典を見ると、様々であることがわかります。

  旺文社    形動    副詞     (形動)
  集英社    形動    副詞     (形動)
  学研新    形動    副詞     (形動)
  新選(9)    形動  形動(「めったに」の形で) (形動)
  現代例解   形動  形動(「めったに」の形で) (形動)
  三現新   形動・接頭  副詞     (形動)
  例解新(9)   なし    副詞      連体詞  

「めったに」を「めった(な)」とは別に副詞と認める辞書がほとんどですが、新選と現代例解は形容動詞の連用形「めったに」の一つの用法としています。

広辞苑と新明解は「めった」を名詞としていますが、多くの辞書はそうしません。
名詞とはどういうものか。大辞林の説明が過不足ないものだと思います。

 

  名詞 品詞の一。事物の名を表し、またそれを指し示す自立語。活用がなく、単独
    で主語となりえるもの。また、「の」「な」「を」「に」などの助詞を伴って
    連体修飾語、連用修飾語になり、「だ」などを伴って述語にもなる。(以下略)
                              大辞林
 
「×めったが/めったを/めったの」などの形がないということを考えると、名詞とは言えない、というのが筋の通った判断でしょう。(「×めっただ」という形もないし。そもそも「事物の名」でもない。「めった」という「もの/こと」を考えることができない。)

 

多数派は「めった」を形容動詞としますが、これも「×めった だ/で」という形が無いことを考えると、適切ではありません。

形容動詞については三省堂国語辞典の解説がいいと思います。

 

  形容動詞 品詞の一つ。性質・状態をしめす活用語。①口語の場合。a「静かだ」
    「静かな」のように終止形・連体形が「だ」「な」で終わるもの。〔この辞書
    では「ダナ活用」と言う。学校文法で口語の形容動詞と言えば、この活用を
    指す〕 (以下略。「トタル活用」と文語の場合)   三国

 

形容動詞には「だ」の形の終止形があるということは、あまりに基本的なことなので忘れてしまいそうですが、「めった」の場合、「×めっただ」という形が使われないことに気付けば、形容動詞とは言えないはずです。

明鏡と例解新は「めったな」という形を「連体詞」と見なします。その理由は、「×めっただ」という述語になる形がないから、ということでしょう。

これは、「大きな/小さな」「おかしな」という語が「×大きだ/小さだ」「×おかしだ」という形を持たないため、連体詞とされることが多いのと同じです。

「めったな」は連体詞とすると、では、「めった」という形をどう考えるか、ですが、明鏡は「造語成分」とします。「めった打ち」などの複合語を作ります。

「造語成分」という用法を認めることでは三国も同じですが、三国は形容動詞も認めています。それは、上の(三国自身の)「形容動詞」という項目の内容に反しています。終止形「めっただ」という形があると認めることになるからです。

三省堂現代新は三国に近く、「形動」と「接頭語」であるとしています。「造語成分」と「接頭語(接辞)」との考え方の違いは、私にはよくわかりません。

例解新は「めった」という項目がありません。名詞ではない、という考えでしょう。「めった打ち」「めった刺し」という語は独立した項目としてあります。「めった」は何か、と問われれば「造語成分」だと答えるのでしょう。ただ、それを項目とはしない。


以上見てきた中で、私は明鏡のとらえ方がいいのかなと思うのですが、似たような語をもっと調べてみる必要があるでしょう。

こうやって多くの辞書を見てくると、それぞれの考えがあるように思いますが、あらためて広辞苑は(現代語の文法に関しては)大ざっぱだなあ、と感じます。

 

勝つ・負ける:もう一つの用法

「勝つ・負ける」については、前に「2020-12-08 勝つ・負ける」という記事を書きました。新明解の語釈が偏っていること、明鏡・岩波の語釈は循環していること、三国があっさりまとめていていいけれども、それ以外の場合もあることなどを書きました。

このところ広辞苑を見ているので、広辞苑の語釈もちょっと見ておきましょう。

 

  勝つ 1戦って相手を負かす。勝利条件を満たす。「試合に-つ」「裁判に-つ」
  負かす 相手を負けさせる。
  負ける 力量や主張などがかなわない。勝利条件を満たせない。やぶれる。  
  かなう 3匹敵する。及ぶ。「彼にはとても-わない」
  匹敵 1ちょうど同じくらいであること。つりあうこと。「実力は彼に-する」
  及ぶ 6(多く打ち消しの語を伴う)肩を並べる。匹敵する。「足もとにも-ばない」
  勝利 1戦いに勝つこと。「-を収める」
                              広辞苑

 

「勝つ」とは「戦って相手を負かす」ことで、つまり「負けさせる」こと。「かなわない・匹敵しない・同じくらいでない・及ばない」ということにさせる? ぐるぐる引き回されてしまいます。
(「匹敵する」の語釈は「何が」がないのではっきりしません。用例の「実力」に限られるわけもないし。「及ぶ」も同じ。何についてか、ということが必要です。)

結局、「試合に勝つ」とはどういうことか。「力量が同じくらいでない・つり合わない」ということにさせること? なんとなく、わかったようなわからないような…。

一つの問題点は、「かなう・匹敵する」などが表すのは、ある「状態」であるのに対して、「勝つ・負ける」が表すのは多くの場合個別の出来事である、というずれです。

 

もう一つの「勝利条件」はもっとわかりません。「勝利」とは「勝つ」ことですから、「勝つ条件」を満たすことが「勝つ」こと? 満たせないことが「負ける」こと? そしてその「条件」については何の情報もありません。何が何だか。(もちろん、「勝利条件」という項目は広辞苑にはありません。)

「権威ある国語辞典」も、実態はこんなものです。

「勝つ」なんて意味が基本的すぎて、どう説明すればいいかわからない、という執筆者・編集者のぼやきが聞こえてくるようです。(と言ったら言い過ぎでしょうか。)

 

三省堂国語辞典のあっさりした説明を。(前の記事では、ここからもう少し考えています。)

   勝つ 相手と争って、自分のほうが強いという結果にする。
   負ける 相手と争って、自分のほうが弱いという結果になる。  三国

 

さて、本題に入ります。広辞苑も含めて、国語辞典の語釈はすべて、結果的な勝ち負けについてのものでした。

しかし、前回の記事で「勝ち越す・負け越す」について考えていた時に、「勝つ・負ける」にはもう一つ別の用法があることに気付きました。

  「野球の試合、どうなった?」「今、ヤクルトが1点勝ってるよ」

この「勝つ」は、勝敗ではなく、試合の途中で、「リードしている(点数が多い)」ことを表しています。

過去や未来は表せるか。「明日の試合は1点勝つだろう」とか、「次の回に1点勝つだろう」と言うのはどうも変です。「リードする」の意味にもとれません。(後者は、「次の回に1点勝ち越すだろう」とは言えます。)

また、試合が終わった後に「今日の試合は1点勝った」というのもしっくりしません。
「1点差で勝つ/勝った」というのがいいでしょう。

この用法の「勝つ」は、基本的に「-ている」の形で使われ、「(試合の途中で)優勢である、(点数で)リードしている」という意味を表す、とまとめられます。

また、「負けている」にも同様の用法があります。

  「さっきまで2点〔差で〕負けていたんだけど、逆転して、今は勝っているよ」

この用法は、私の見た限り、辞書にはまだのせられていません。ずーっと使われてきた用法なのですが。

意外に、まだ気づかれていないこういう用法が他の語にもあるだろうと思われます。

 

「勝ち越す・負け越す」:広辞苑など

広辞苑のはっきりしたミスを見つけました。大したことではありませんが。
「勝ち越す・勝ち越し」「負け越す・負け越し」の項目を。

 

  勝ち越す(自五)負けた数より勝った数が多くなる。相手より多く勝つ。「一点
    -・す」
  勝ち越し 勝ち越すこと。「横綱の-が決まった」

  負け越す 負けた回数が勝った回数をうわまわる。         
  負け越し 負け越すこと。「今季の-が決まった」   広辞苑第七版     

 

「負け越す」に動詞であることを示す(自五)がありません。これは(動)という品詞表示の代わりでもあるものです。(品詞表示が何もなければ、名詞か連語ということになってしまいます。)

第五版でも同じです。これは、改訂の際に誤って抜け落ちるというものでもないでしょうから、この項目は最初から(初版?)品詞(活用)表示が抜け落ちていたのでしょう。

ただ、これは利用者にとっては格別問題のないことなので、付け足せるときに直せばいいことでしょう。

 

私から見て、それ以上に問題なのは「勝ち越す」で語釈と用例がずれていることです。こちらは、単なるケアレスミスではなくて、きちんと考えていないということでしょう。

語釈は「負けた数より勝った数が多くなる」ということですが、その用例「一点勝ち越す」の「一点」とは何でしょうか。「勝った数」ではないでしょう。

例えば野球で一点負けていたのが、「ツーランホームラン」で「一点勝ち越した」というような場面で使われる言い方です。

「勝った数」ではなくて、この場合は「得点」です。「勝つ」のではなくて、「リードする」のです。

この用例を書いた執筆者、それを点検したはずの編集者はこの語釈と用例のずれに気づかなかったのでしょうか。

 

岩波を見てみましょう。

 

  勝ち越す〘五自〙勝った数や得点がうわまわる。⇔負け越す。「一点-」    

  負け越す〘五自〙負けた回数が勝った回数をうわまわる。⇔勝ち越す   岩波

 

「得点がうわまわる」のですね。で、「一点勝ち越す」という用例が理解できます。
「負け越す」には「得点」は関係ありません。「負けた回数」だけです。

 

新明解も広辞苑と同じで、「勝った数」だけです。ただ、用例はありません。

 

  勝ち越す(自五)勝った数が相手(負けた数)より多くなる。⇔負け越す
    [名]勝ち越し

  負け越す(自五)負けた数が相手(勝った数)より多くなる。⇔勝ち越す
    [名]負け越し        新明解    

 

「語釈と合わない用例」でもあったほうがいいでしょうか?

 

明鏡は、第二版と第三版で違います。

 

  勝ち越す(自五)勝負で勝った数が、負けた数よりも多くなる。「八勝七敗で━」
    ⇔負け越す [名]勝ち越し
  勝ち越し 勝ち越すこと。「千秋楽で━を決める」⇔負け越し 

  負け越す(自五)勝負・試合などで、負けた回数が勝った回数より多くなる。
    ⇔勝ち越す [名]負け越し
  負け越し 負け越すこと。「七勝八敗の━になる」⇔勝ち越し  明鏡第二版

 

第二版では「勝った数」だけです。新明解より用例が多くあります。

第三版。きちんと改訂されています。

 

  勝ち越す(自五)勝負で勝った数が、負けた数よりも多くなる。獲得した点が
    奪われた点よりも多くなる。「〔大相撲で〕八勝七敗で-」「八回裏に二対一
    と-した」⇔負け越す [名]勝ち越し
  勝ち越し 勝ち越すこと。「千秋楽で-を決める」⇔負け越し
  (「負け-」は二版と同じ)                 明鏡第三版

 

「点」のことが書き加えられ、用例が相撲と野球の二つになりました。
(なぜ「〔野球で〕」と注記しないのでしょうか。)

明鏡の「改訂」では、第三版の用例が第二版より減らされていることが多く、かえって悪くなっている例をこれまで多く見てきたので、困ったものだなあと思っていたのですが、この「勝ち越す」に関してはよくなっています。こうあってほしいものだと思います。

 

三国も改訂によってよくなりました。まず第七版。

 

  勝ち越す(自五)勝った数が<相手を追いこす/負けた数より多くなる>。
    (⇔負け越す)[名]勝ち越し。「一打-」  

  負け越す(自五)負けた数が、勝った数より多くなる。(⇔勝ち越す)
    [名]負け越し。                      三国第七版

 

これは広辞苑と同じです。「勝った数」と「一打勝ち越し」の違いに気づいていません。(まさか、「この一打で勝ち数が相手を追い越す」という意味ではないでしょう。そういう場合もあるかもしれませんが。)

「一打勝ち越し」という用例の出し方は、(いつも三国について繰り返し述べていることですが)「わかる人にはわかる」用例でしかありません。「一打勝ち越し」という表現が使えるのは非常に特殊な場面です。それがわかっている人にしか、この用例は意味を持ちません。
せめて「ヒットが出れば一打勝ち越しの チャンス/場面」ぐらいにしたらどうでしょうか。もちろん、語釈に「点のリード」の意味を書き加えて。

第八版でずっとよくなりました。

 

  勝ち越す1(自五)勝った数が<相手を追いこす/負けた数より多くなる>。
    (⇔負け越す)
    2(自他五)〔試合で〕得点が相手を上回る。「ソロホームランで一点を-」
     [名]勝ち越し。「一打-」
  負け越す (七版と同じ)

 

これが改訂というものです。

「負け越す」は「勝ち越す」の2の用法には対応しないことがはっきりわかります。また、2の用法で(自他)となっているのも細かいです。いい用例が加わりました。

 

三省堂現代新も、用法を分けています。

 

  勝ち越す 1勝った数が負けた数より多くなる。[対]負け越す。2相手より 
    多い得点を取る。[可能]勝ち越せる。
  勝ち越し 勝ち越すこと。「〔相撲で〕今場所の-が決まる・〔野球で〕逆転の
    -ホームラン」[対]負け越し

 

用例の〔相撲で〕〔野球で〕と場合を分けているのもいいと思います。ただ、「負け越し」が野球の得点に関しても反対語として言えるかどうか、疑問です。

 

さて、まだ問題が残っています。

「勝った数が多い/多くなる」ということについて。
明鏡の用例で「〔大相撲で〕八勝七敗で勝ち越す」というのがありましたが、「勝った数」が多いというだけなら、「(11日目に)六勝五敗で勝ち越している」と言えるのでしょうか。また、その後2連敗したら「六勝七敗で負け越している」と言うのでしょうか。

私はあまり相撲を見ないので自信はないのですが、たぶん、そう言わないのでしょう。一場所15日の中で、「勝った数」が多いこと、ではないでしょうか。つまり、八勝すると「勝ち越す」。

七連戦、七番勝負の戦いなら、4勝すれば「勝ち越し」あるいは、その戦いの「勝者」になるのです。

「勝ち越す」と言うためには、全体の試合数が決まっていて、その半分を越えた時に言うのが基本じゃないか。
野球のシーズン途中で、50勝40敗ぐらいの時に、「勝ち越している」と言えるのでしょうか。
特定のチームどうしの話だと、シーズン途中でも「阪神はここまで巨人に勝ち越している」と言えるのか。なんか言えそうですね。私は野球もあまり見ないので、この辺の言い方にはまったく自信がありませんが、どうでしょうか。

 

学研国語大辞典に興味深い記述があります。

 

  勝ち越す 1〔何回か行う勝負で〕勝った数が負けた数より多くなる。
    2競技で、相手より多い得点をとる。[対]1・2 負け越す。
  勝ち越し かちこすこと。「全勝を続ける横綱は八日目の取組で早々と
    -を決めた」[対]負け越し。   学研大

 

この「〔何回か行う勝負で〕」というのは、「〔何回か[決まった回数]行う勝負で〕」ということではないでしょうか。そうだとすると、すぐ上で述べた内容に対応しています。

私はこの学研大という辞書はいい辞書だったと思うのですが、残念ながら第二版が出た後、改訂されないままになっています。紙版が無理であるなら、デジタル版の形だけでも改訂がなされないものでしょうか。(元の版のデジタル版はすでにありました。)

 

さて、さらに話は続きます。

今度は「得点」のほうの話です。

三国第八版の「〔試合で〕得点が相手を上回る。」というだけのことなら、例えば試合が終わった後で、「今日の試合は5対3で勝ち越した」と言えるかというと、そうは言わないでしょう。それは単に「5対3で勝った」のでしょう。

例解新と現代例解の注意深い記述を。

 

  勝ち越す 1 勝った回数が負けた回数をうわまわる。[対]負け越す。
     2 試合の中で、相手より得点が多くなる。
          例解新第九版(すみません。十版はまだ買っていません。)

  勝ち越す 1 勝負で、勝った数が負けた数より多くなる。⇔負け越す。
    「八勝七敗で勝ち越す」2 試合の途中で、相手よりも多く得点している。
    「二点勝ち越す」[名]勝ち越し「勝ち越しのホームラン」    現代例解

 

「試合の中で」「試合の途中で」と書いています。この辺が細かいです。
(なお、現代例解の「多く得点している」よりも、例解新の「多くなる」のほうがいいと思います。「勝ち越す」というのは、そうなった時に言うのでしょう。6回表に「5対3と勝ち越し」ても、7回裏に「5対7と逆に勝ち越され」たりするのですから。)

得点の話は「負け越す」には言いません。相手を「越す」わけですから、勝つほうにしか言えないということでしょう。

 

「勝ち越す」というのはなかなか難しいことばです。

広辞苑は、(現代語に関しては)おおざっぱな辞書であるなあ、というのが、最近、色々調べてみての感想です。