ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

あなた

日本語で、非常に使い方の難しい語の一つです。

三省堂現代新国語辞典から。

 

  あなた 相手をさす、軽い尊敬語。[用法]もっとも標準的な言い方であるが、目上の人には使えない。⇒ 君・おまえ ⇒ ことばの世界「あなた」  三省堂現代新

 

この「あなた」の項と同じページの「ことばの世界」というコラムに「あなた」の言い換えの語がたくさん並んでいます。

その中に「尊敬した言い方」として、

 

  男女共通 あなた様・おたく様・<古い言い方>そなた様・おまえ(前)様・<同輩や目下に>御身   三省堂現代新

 

という語が並んでいます。最後の「御身おんみ」を見て笑ってしまったのですが、これはどういうつもりなのでしょう。「<古い言い方>」という注意書きが、後の三語全部にかかると考えればいいのでしょうが、そういう書き方になっていません。

同じく「尊敬した言い方」として、

 

  男性 《同輩や目下の人に・古い言い方》貴公 《学問上の先輩に・文章語》学兄 (以下略)   三省堂現代新

     

などが並んでいます。こちらにも、日常に使える語はありません。

つまり、この「尊敬した言い方」の欄には、「あなた」の項で「目上の人には使えない」とされた「あなた」の代わりに使えそうな「尊敬した言い方」はありません。(「あなた様」はかなり限定された状況でしか使えないでしょう。)

日本語で、目上の人を指すことばとして何を使えばいいのか、を教えてほしいと辞典の利用者は思うのですが、その答えはこの「尊敬した言い方」にはないと言わざるをえません。

このコラムの最後に、

 

  このほか、「社長・大将・先生」のように、相手をさすのに地位や職業の名称を使うこともある。   三省堂現代新

 

という短い付け足しがあります。「相手をさすのに地位や職業の名称を使う」のです。「~こともある」なので、これが一般的な言い方なのではないということでしょうが、重要な情報です。

ただし、この三語を見ると、どうも変です。「社長・先生」はいいとしても、「大将」というのは例として適切でしょうか。

 

    大将 1軍隊で、将官の最高の位。中将の上。  三省堂現代新

 

この例が、一般の人にとって「相手の地位の名称を使う」例として適当だと考えたのでしょうか。軍隊の用語を出したかったら、「軍曹」とか「中尉」とかのほうがテレビや映画でもよく使われる語で、例として適当なのではないでしょうか。(そもそも、「大将」に対して、「大将」と呼びかけていいものでしょうか。)

さて、ここから先は、さすがの私も(いつもひねくれた見方をしている私でも)、もしかしたら「邪推」というものだろうかとも思うのですが、この「社長・大将・先生」の三語に共通する点があります。それは、本当にその文字通りの地位・職業にない人に対しても使える、そういう用法のある語だ、という点です。

 

  大将 4[俗語]人をからかったり、親しい気持ちで呼ぶことば。「-は元気かい」

  先生 2医師・作家・弁護士・代議士などに対する尊敬語。  三省堂現代新

  社長 3〔俗〕中高年の男性に呼びかけることば。  三国

 

この三語を用例として選んだ執筆者が、これらの用法を知らないはずはありません。何らかの意図があってこの三語を選んだはずが、単なる「地位や職業の名称を使う」例になってしまったのではないか、と私は考えてしまいました。やっぱり邪推でしょうか。

 

話を元に戻して、「目上の人を指すことばとして何を使えばいいのか」という問題にかえります。

他の辞書も、「あなた」は使いにくい、ということは指摘するのですが、ではどうすればいいか、ということの答えは書いてくれません。

 

  あなた 〔口頭語形は「あんた」〕自分と同等程度の相手を軽い敬意をもって指す言葉。-様 ・ -方(ガタ)男性では「{貴男}」、女性では「{貴女}」とも書く。
    古くは高い敬意を表わした。現在では敬意が下落し、同等以下の相手にも用いられる。特に男性が、目上の人や初対面の人に用いると、見下したような印象を与えやすい。また、友人どうしでも相手と一定の距離を置いて接する場合に用いられることもある。夫婦間では、妻から夫への呼称として用いられる。   新明解
                  
  あなた  二人称の人代名詞同等以下の相手を指し示す語。軽い敬語として、同等以下の相手に使うほか、妻が夫を親しんでいう場合や名前・身分などの分からない相手に使う傾向が強い。また、公用文で「貴下・貴殿」に代わることばとして使う。「━はそう言うけど、実際はどうかな」「〔アンケートなどで〕━はどう思いますか」「〔公用文で〕━から証人として証言を求めることになりました」
    かな書きが一般的だが、手紙などでは漢字書きも好まれる。「貴方」は男女ともに、「貴男」は男性に、「貴女」は女性に使う。漢字で書く場合、表記に支えられて相応の敬意がこもるが、上位者には避けたい。本来対等または目上の相手への敬語として使ったが、現在ではよそよそしい語感が嫌われ、対等の相手には避けられる傾向がある。   明鏡

 

  [補説] 現代語では敬意の程度は低く、学生が先生に、また若者が年配者に対して用いるのは好ましくない。   デジタル大辞泉

 

「見下したような印象を与えやすい」「現在ではよそよそしい語感が嫌われ」とさんざんです。

なお、「夫婦間では、妻から夫への呼称として用いられる」(下の岩波の引用参照)「妻が夫を親しんでいう場合や名前・身分などの分からない相手に使う傾向が強い」などは有益な情報だと思います。三省堂現代新にはこれらの情報が欠けています。

 

ではどう言えばいいか、という問いに対する答えの一つ。

 

  親しくない相手に対して非常にへりくだるときには「あなた様」という。相手が複数の場合、「あなたたち」となり、それに敬意が加わると、「あなたがた」になる。」  講談社類語大

 

「あなた様」という表現は、私はたぶん使ったことがないだろうと思います。使うとしたら、「慇懃無礼」な態度をとりたいと思ったときでしょう。

また、「あなたがた」は、相手と距離をおきたい場合に、突き放した言い方として使うように思います。「あなた方はそれでいいかもしれませんが、私たちはそれでは不満です。」のように。「敬意を表す表現」ではありません。

 

  ▽近ごろ敬意が低くなり、「あなた様」も口頭ではほとんど使わない。夫婦間で妻が夫を「あなた」と呼び、夫が妻を「おまえ」と呼ぶ言い方は減っている。  岩波

 

いやまったく、日本語の二人称で適当なことばはないのです。

私が見た中で、いちばんよいと思ったのは次の説明です。

 

  話し言葉において二人称代名詞を使う相手は、話し手と同等またはそれ以下の場合が多く、明らかな目上の人に対しては、その人の名前に「さま」「さん」をつけるか、役職名(社長・市長)・職業名(先生)など、または自分との関係を表す語(おじさん・おばあさん)などを用いる。従って、「あなた」を目上の相手に対して用いるのは、最近では失礼になる場合が多い。   小学館日本語新

 

これと同じような内容が、すべての国語辞書に書かれるといいと思います。(ただ、ここの「従って」という接続詞の使い方には違和感があります。そういう論理的関係なのだろうか、と思います。)