ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

傾向

抽象的な意味を持つ語をどう記述するかという問題です。

どの辞書も今ひとつ、という感じです。まずは新明解から。


  1同じような条件(環境)にある物事が、全体にわたってそうなりそうな大勢にあると判断されること。「増加の-にある/頭打ちの-を示す/下降-を見せる」2その人の行動や態度を方向づけるような特定の思想(をいだくこと)。〔狭義では、社会主義的思想傾向を指す。例、「-的・-文学〕   新明解

 

「同じような条件(環境)にある物事」というのがどんなことを意味するのかわかりません。それを具体的に示すのが用例というものだと思うのですが。

例えば、「野菜の輸出は増加の傾向にある」だと、「いろいろな野菜」がそれにあたるのでしょうか。「同じような条件(環境)にある物事」というのは、もう少し違う話なのでしょうか。

また、例えば「業績不振のA社の株価は下降傾向を見せている」という場合、「同じような条件(環境)にある物事が、全体にわたってそうなりそう」という語釈と合いません。

用例が三つもあるのはよいことなので、それぞれ「~が」があればもっとよかったと思います。

また、「そうなりそうな大勢にあると判断される」の「大勢」は、結局「傾向」と同じような意味合いになっているので、いい説明とは言えません。「そうなりそうだと判断される」で十分なのではないでしょうか。

(以下、2の用法は省略します。)

 

次は現代例解を見ます。


  ある方向に向かうこと。一方にかたよること。「どの学校でも中止する傾向にある」「増加の傾向をたどる」  現代例解
   
「ある方向に向かう」というだけでは具体的な移動のことかと思います。あるいは「指向」とか。「一方にかたよる」だと「偏向」でしょうか。

 

  指向  ある目的に対して向かうこと。また、定まった方向に向けること。「指向性アンテナ」  現代例解 

  偏向  かたよって中正を失うこと。また、そのような傾向。「偏向した思想」「教育の偏向を考える」  現代例解

 

「傾向」の語釈として、どうもうまくないと思うのですが、幸いに用例でどういうことなのかわかります。「学校」の例では、「何を」「中止する」のかを示したほうがいいでしょう。

少なくとも、語釈のほうに「~が」が必要です。

 

いくつかの辞書を続けて見ていきます。


  性質や状態がある方向にかたむいていること。また、そのかたむき。「失業率増加の-に歯止めをかける」  明鏡

 

「性質や状態が」「かたむく」という言い方がわかりにくいですが、これも用例でいくらかわかります。しかし、もう少しわかりやすい語釈と用例にしてほしいところです。

新明解の「(全体にわたって)そうなりそう」という表現がよりわかりやすいのでは、と思います。


  物事の性質、状態などが全体としてある方向に傾いていること。物事がある状態に向かって進もうとする動き。[例]人は易きに流れる傾向がある/どういう傾向の音楽が好きですか/地価は上昇の傾向にある。   小学館日本語新

 

「傾向」の「傾」「向」の字に影響されて、「傾く」「向かう」と言いたいのはわかりますが、それでわかりやすい説明になっているかどうかが問題です。

「どういう傾向の音楽」というとき、「ある方向に傾いている」のでしょうか。たんに「ある特徴」を持っているのではないでしょうか。「傾向」は、それが一般的な、主流(?)のものではない、という含みがあるのでしょう。

「地価は上昇の傾向にある」は、確かに「物事がある状態に向かって進もうと」しているのでしょう。

語釈でも、用例でも、「何が」がはっきりしているのでわかりやすくなっています。

 

  ものごとの性質や特徴がある方向にかたよっているようす。また、そのかたよっている度合い。[用例]交通事故は、へる傾向にある。[類]かたむき。[表現]「・・・の傾向がある」「・・・の傾向にある」と同じ意味の言いまわしに、「とかく・・・になりやすい」「・・・しがちだ」「どちらかといえば・・・にかたむく」などがある。    例解新
    

現代例解と同じく「かたよる」で説明しています。「交通事故は減る傾向にある」は「ある方向にかたよっている」のでしょうか。どうもぴったりしません。

[表現] の補足説明はいいのですが、「・・・の傾向がある」と「・・・の傾向にある」という名詞を受ける二つの形をあげながら、用例は動詞を受ける「(する)傾向にある」だけになっています。「がある」と「にある」は同じと考えていいのか、も問題です。

この補足説明のために、さらに用例が必要です。

 

  ものごとの状態や、人の考え・行動について、ある特徴が優勢であること。「輸出はふえる-にある・-をつかむ・出題-」[類]傾き・気味・趨勢・動き・動向・風潮   三省堂現代新

 

「ある特徴が優勢である」として、他の辞書とは違う説明をしようとしています。それはいいのですが、「傾向」が物事の「変化(の方向)」を示唆していることが足りないように思います。

「出題傾向」という用例にはちょっと笑ってしまいました。確かに、高校生にはおなじみのことばですね。「傾向と対策」です。旺文社・新選にも同じ例が出されています。

 

  物事がある方向へ向かっていること。「出題の-」「インフレ-にある」  旺文社

  物事の性質や状態がある一つの方向に進もうとする動き。傾き。「他人に頼る-がある」「出題の-を分析する」  新選 

 

 「出題の傾向」というのは、例えば歴史なら、以前は古代史の問題が多かったが、最近は近代史がよく出されるようになった、というようなことでしょう。「物事がある方向へ進む」わけです。

 

これまで見てきた中で、私には「かたむく」とか「かたよる」とか言うよりも、「全体的にそうなりそう」「物事・状態が一つの方向に進む」などという説明のしかたのほうがわかりやすく感じられました。

これまでにとりあげなかった辞書で、これはちょっとよくないんじゃないか、という説明をしている辞書を並べておきます。

 

  一方に傾くこと。偏り。「増加の-」  集英社

  ある方向へむかうようす。かたむき。  三国

 

これでは何のことかわかりません。三国は短い用例すらありません。

 

  ある方向・態度に傾くこと。傾き。特に、左翼思想に傾くこと。「-文学」  岩波

 

「傾向と対策」の「傾向」はどういう意味なのか、この語釈からわかるでしょうか。

 

集英社も三国も岩波も、それぞれいいところのある辞書だとは思いますが、「傾向」に関してはちょっとあきれるレベルだと思います。