ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

「うむ」と「親」

新明解国語辞典第八版の項目を検討します。

今回は「生む(産む)」と「親」との関係について。記述の誤り、とかいうわけではありません。

前々回、「親」をとりあげた時、ちょっと引っかかったところです。

 

   親 その人を生んだ(と変わらぬ情愛を持って養い育ててくれた)一組の男女。 新明解

     子を産んだり育てたりするもの。父と母。[表現]人間のほか、広く動物についてもいう。       明鏡

     子または卵を生んだ(育てた)もの。父母。  三省堂現代

 

「親」とは、「~生んだ男女/もの(父母)」というわけですが、「生む」を見ると、

 

   生む 母体が子や卵を体外に排出し、新たな個体としての生命活動を始めさせる。 新明解 (「産む」とも書く、という注記があります)

   生む 母親・雌が子を作る。「子どもは三人生みたい」  三国
   産む 赤んぼうやたまごを、からだの外へ出す。出産する。「たまごを-」 三国

 

三国は漢字表記によって項目を分けているのですが、それはともかくとして、「うむ」のは、当たり前の話ですが「母親」ですよね。(人の場合)父親は、母親が「うむ」時に、そこにいなくてもいい。もしかしたら、子供が生まれる前に死んでしまっているかもしれない。その場合でも、母親だけで「うむ」ことができるわけです。(魚のこととか考えだすと話が混乱してくるので、「人」に限って話を進めます。)

それと、「親」を「男女」あるいは「父母」とすることとの整合性、というか、説明はどうなっているのか。

もちろん、「うむ」だけではなくて、その後の「(養い)育てる」のが「親」であるわけですが、ここでも、子供が生まれる前に父親が死んでしまう、という場合だけでなく、いろいろな事情により「シングルマザー」になることもあるわけです。つまり、父親が「育てる」ことにも関係しない場合はけっこうありうる。

それでは、父親が「親」であることはどう保証されるのか。(母親は、育てなくても、「生んだ」ことで「親」であることは保証されるわけです。)

なんか変なことを言っているようですが、やはり「父親」というのは「生む」あるいは「育てる」ことに直接的にかかわるというよりは、まず「妊娠する」ことに関わっているのだということですね。
(あるいは、「うむ」ということばの中に「妊娠する」が含まれている、というか)

そうすると、「母親」は「その人(子)を生んだ女性」ですが、「父親」は、さて、どう言ったらいいでしょうか。
「その女性を妊娠させた男」なんでしょうが、そんな言い方を辞書でするのはどうも。

というわけで、上の「子または卵を生んだ(育てた)もの。父母。」(三省堂現代)という記述でいいとは思うのですが、考えだすと難しいなあ、とも思うのです。  

 

明鏡は、この「生む」に関して、面白い記述をしています。

まず、基本的な意味としては他の辞書と同じように書いています。

 

   動物が子や卵を母体から外に出す。人が出産する。  明鏡

 

他の辞書もそうなのですが、「母体から外に出す」という言い方は何とも。
ここは「新たな個体としての生命活動を始めさせる」を付け加えた新明解の書き方がいいですね。

で、明鏡は次のような説明を補足します。

 

   [語法]男女のペアまたは男性が主語になることもある。「私を━・んでくれた両親に感謝しています」「〔父親が息子に〕わしはお前をそんな親不孝者に━・んだ覚えはない」  明鏡

 

生物学的な事実としての男性の関わりには触れず、「男女のペアまたは男性が主語になることもある」と、文法の話として書いているところが面白いです。

「私を生んでくれた両親」という用例は、自然でいいですね。

ただ、次の用例の父親のセリフのほうは、「生んだ覚えはない」より「育てた覚えはない」のほうがいいと思うのですが。「わし」というのも、いかにも「役割語」っぽいですね。このことばを使う「父親」は今どのくらいいるのでしょうか。