新明解国語辞典の「まるで」の項の記述を検討します。
まるで (副)〔「丸で」の意〕すべての観点から見て そう言ってさしつかえないと思われる様子。「-夢のようだ/-子供だ/-分かっていない/昔とは-違う」 新明解
この項目だけ見ていても、その良し悪しはわからないので、まず、他の辞書と比べてみます。
明鏡国語辞典を見ます。
1《多く下に「ようだ」「みたいだ」などの比況表現を伴って》ほとんど同じようであるさま。あたかも。さながら。「━夢のようだ」「━死んだみたいに黙り込む」「あのはしゃぎようは━子供だ」
2《下に否定的表現を伴って》まるっきり。全然。「予想とは━違う」
<品格>あたかも「-知っているような態度」さながら「本番-の臨場感」同然「家族も-の間柄」 明鏡
後についている「品格」という欄は、明鏡第三版の特色の一つということで、
新しく「品格」欄を設け、改まった場面で使えることばを用例を添えて列挙した。この欄は語彙力増強に役立つことが期待される。(編者のことば) 明鏡第三版
だそうです。
次に、岩波国語辞典。
全く。「背負ってみて驚いたが、―軽かった」。すっかり。「―見違えたわ」「暑いも暑い。―夏だ」。特に、㋐《あとに打消しを伴って》全面的な否定を表す。全然。「―相手にしない」「市街地に緑が―無い」㋑《あとに「(かの)ようだ」「みたい」「同様」などの表現を伴って》(全体的に言って)ちょうど。「―無人の廃屋のように見える」「―夜逃げ同然だ」 岩波
明鏡と岩波で、それぞれ書き方は違いますが、「~ようだ」「~みたいだ」などを伴う場合と、否定的表現を伴う場合とに分けて記述しています。
新明解はこの二つを区別せず、一つの語釈でどちらも解釈できるとしています。
よく言えば、二つの用法に共通する、より基本的な意味をとらえていると言えるかもしれませんし、批判的に言えば、用法の違いを明らかにしていないと言えるのかもしれません。
新明解で、「まるで」に近い意味を持つ語を見てみます。「まったく」と「まるきり」です。
まったく (副)〔文語「まったし」の連用形から〕1すべての面にわたってそうとしかいいようがない様子。「-すばらしい出来だ/-つらい(おかしな)話だ/-の幸運だった」2〔否定表現と呼応して〕全面的に否定する様子。「-知らなかった/-お話にならない」
[運用]1は、感動詞的に、怒り・いらだちの気持を表わすのに用いられることがある。例、「『彼には困ったものだね』『まったく』/こんなに散らかして、まったく」 (アクセント注記略) 新明解
まるきり (副)1否定的な状態が全面的に認められる様子。「おだてないでくれ。おれには、そんな才能は-ない/売上げは-〔=さっぱりだめ〕だ」2どの観点から見てもそのとおりでしかないととらえられる様子。「それじゃ-鳶(トンビ)に油揚げ(子供の使い)だ/あいつの話は-のでたらめだ」〔強調形は、「まるっきり」〕 新明解
これら3語の語釈を並べてみます。
A すべての観点から見てそう言ってさしつかえないと思われる様子。(まるで)
すべての面にわたってそうとしかいいようがない様子。(まったく1)
どの観点から見てもそのとおりでしかないととらえられる様子。(まるきり2)
B〔否定表現と呼応して〕全面的に否定する様子。(まったく2)
否定的な状態が全面的に認められる様子。(まるきり1)
Aのほうはどれも同じと言っていいのではないでしょうか。これらの語釈によれば、ほとんど同じような意味の語である、と。(「~観点から見る」と「~面にわたって」の違いは何か、という問題がありますが。)
しかし、「まったく」の用例に「まるで/まるきり」を入れると、どうも不自然になるものがあります。
まるですばらしい出来だ まるきりすばらしい出来だ
まるでつらい(おかしな)話だ まるきりつらい(おかしな)話だ
「まったく」は少し用法が違うようです。(「~観点から見る」と「~面にわたって」の違い、ということでしょうか。その言い方で、上の例の不自然さが説明できるとは思いませんが。)
次に、上のBを見ると、「まるで」では「否定表現との呼応」は触れられていません。
明鏡・岩波を見てもわかるように、そういう例があるのは明らかですから、「まったく」「まるきり」で立てたように「まるで」にも「否定表現との呼応」について書いたほうがいいでしょう。
「NINJAL-LWP for TWC」という書きことばコーパスで実際の例を調べてみます。
「まるで+動詞」というコロケーションのところを見ると、いちばん多いのは「違う」で、二番目は「わかる」、四番目以下は「異なる」「生きる」「知る」「変わる」と続きますが、その実例を見ると、「まるで」という副詞の特徴がよくわかります。
まず、「違う」は「まるで違う」という形で使われます。それに対して、「わかる」は「まるでわからない/わかっていない」という例がほとんどです。つまり「否定」ですね。「異なる」は「違う」と同じで「まるで異なる」です。
「生きる」はまた違います。「まるで生きているようだ」という例が多くなります。「~ようだ」を伴う、という明鏡と岩波の記述の例です。
「知る」は「まるで知らない」という否定が主ですが、「変わる」は「まるで変わる/変わってくる/変わってしまう」などの肯定と、「まるで変わらない」という否定とに分かれます。
これらの動詞による用法の偏りは、新明解の「すべての観点から見てそう言ってさしつかえないと思われる様子」という語釈からはまったく(まるで/まるっきり)予想できません。
明鏡はどうでしょうか。再掲します。
1《多く下に「ようだ」「みたいだ」などの比況表現を伴って》ほとんど同じようであるさま。あたかも。さながら。「━夢のようだ」「━死んだみたいに黙り込む」「あのはしゃぎようは━子供だ」
2《下に否定的表現を伴って》まるっきり。全然。「予想とは━違う」 明鏡
例えば、「まるで変わってしまった」という例で考えると、「ほとんど同じようである」ではありませんし、「否定的表現」とも言いにくいでしょう。
この「否定的表現を伴う」という言い方は、例えば「だめだ」など、形式的には「否定」でないものを含むのに便利なのですが、どこまで含められるかが問題です。
「まるで」の「違う」はどうでしょうか。明鏡は用例に「違う」があります。「否定的表現」と見なしているわけです。
では、「まるで変わってくる」はどうでしょうか。これも「否定的表現」と考えるのか。
岩波は、基本的な意味として「全く」と「すっかり」をあげ、「特に」として「打ち消し」と「~ようだ」に分けています。岩波の「まるで」を再掲します。
全く。「背負ってみて驚いたが、―軽かった」。すっかり。「―見違えたわ」「暑いも暑い。―夏だ」。特に、㋐《あとに打消しを伴って》全面的な否定を表す。全然。「―相手にしない」「市街地に緑が―無い」㋑《あとに「(かの)ようだ」「みたい」「同様」などの表現を伴って》(全体的に言って)ちょうど。「―無人の廃屋のように見える」「―夜逃げ同然だ」 岩波
こうすると、「違う」「変わる」などは初めの「全く」「すっかり」の例に入って、うまくいきそうです。(この「全く」と「すっかり」の用法の違いもまた考えなければなりませんが。)
私は、最近岩波に対して否定的なことを書くことが多くなっていますが、この「まるで」については、今のところ岩波がいいのではないかと思っています。
いつも比較している三省堂国語辞典を忘れていました。
1〔あとに打ち消しや「ちがう・べつだ」などのことばが続いて〕まったく。てんで。「-あてにならない・-異質だ」2何か(の動きや状態)に似ているようす。ちょうど。さながら。「-絵のようだ・-生きているようだ」 三国
1の、打消しの外に「違う・別だ・異質だ」などが続く、というのはいいのですが、かんじんの意味の説明は「まったく。てんで。」という言い替えだけです。
2のほうは、どちらの例も「ようだ」が続いているのですが、それは語釈で触れられていません。
「(これは)まるで生きている」だけでは何か足りないような気がします。やはり後に続く要素のことを書いたほうがいいのではないでしょうか。
さて、いろいろ見、考えた後で初めの新明解に戻ると、やはりあれだけの解説ではどうにも不十分だと言わざるを得ません。
追記:
「書きことばコーパス」の話の中で、「まるで+動詞」の「三番目の動詞」が抜けていたのにお気づきだったでしょうか。
「まるで囲む」だったのです。これは「丸で(○で)囲む」で「名詞+で」、つまり副詞の「まるで」ではないのです。
コーパスの作成は機械的に行われるので、「まるで」という読み方だけで用例が集められ、「まるで囲む」も当然拾われてしまうわけで、「ちがう」「わかる」の次、「異なる」「生きる」よりは多く、この位置に来ていました。
このようなことも、ことばを考えていく作業の中で面白いことの一つです。