ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

さも

ある中学生が「さも」ということばを国語辞典で引いてみたら、使い方がわかるかどうか。

三省堂国語辞典から。

 

  さも 1〔文〕そのように。「-あろう」2いかにも。「-おもしろそうに笑う」 三国

 

それぞれ他の語で置き換えただけで、「1そのように」「2いかにも」だそうです。

1の例文が「さもあろう」で、「そのように」という言い替えを使うと、「そのようにあろう」です。

これで何がわかるのでしょうか。
「そのようにあろう」って、意味がわかりません。

 

中学生向けでわかりやすいはずの例解新国語辞典(第八版)を見ると、

 

  さも 1そうも。そのようにも。[用例]さもありなん。2いかにも。[用例]さも
      苦しそうに口をゆがめる。  例解新

 

「1そうも。そのようにも」「2いかにも」です。三国とほとんど同じです。
1の例文が「さもありなん」では一層わかりにくいですね。

でも、これはしかけがあって、次の項目として「さもありなん」があり、説明があります。こういう形で説明を豊かにするのも一つの工夫ですね。

 

  さもありなん いかにもそうにちがいない。やや古めかしい言いかた。
         [用例]その心中さもありなんと察する。  例解新

 

「いかにもそうにちがいない」ですか。「さもあろう」は、「いかにもそうだろう」でしょうか。(「ありなん」と「あろう」の違いは私にはよくわかりません。同じと言っていい?)

あれ? 「さも」の1の用例の説明に、「さも」の2の語釈「いかにも」が使われていますね。ん?
これは「さも」にあたるのが「いかにもそうに」の部分だということでしょうか。
まあいいのかな?

 

明鏡を見てみます。

 

  さも 1そうなるのが当然だという気持ちを表す。「━あろう」2そう形容するのが
     ふさわしいという気持ちを表す。いかにも。「━気持ちよさそうに寝ている」
                               明鏡

 

1の用例は「さもあろう」で三国と同じですが、語釈は単なる言い替えではなく、説明になっています。ただ、「~のが当然だ」というところまで含んでしまうと、これは「さも」の説明というより「さもあろう」全体の説明になっているのでは?

それにしても、

 

  さも 1〔文〕そのように。「-あろう」

 

の三国よりずっとわかりやすいと思います。

 

さて、2の用法を見てみましょう。「いかにも」です。

 

  さも(いかにも)おもしろそうに笑う  三国

  さも(いかにも)苦しそうに口をゆがめる。 例解新

 

これでなんとなくわかるなら、それでいいのでしょうが、「いかにも」にはもう少し詳しい説明があるのでしょうか。

 

  いかにも 1どうにも。どう考えても。「-困った顔をして・-安い」
   2まったく。「-わかったような口をきく」3なるほど。「-さよう」 三国

 

まず、こういう風に複数の用法がある場合は、「さも」の語釈のところで「いかにも1」とか「いかにも2」とか書いたほうがいいのではないでしょうか。

1の「どうにも。どう考えても」の例の「-困った顔をして」に、「さも困った顔をして」と「さも」を入れても言えますし、2の「まったく」の例に「さもわかったような口をきく」としても言えますね。さて。

この「いかにも」の項も問題がありますが、それは今回は深入りしないことにします。

 

明鏡の「さも」の2は、「そう形容するのがふさわしい」で、例は

  さも気持ちよさそうに寝ている

「気持ちよさそう」が「本当にそのとおりだ」ということでしょう。こちらも、明鏡のほうがわかりやすいと思います。

 

新明解を見てみましょう。用法は一つです。「さもありなん」は別項になっています。

 

  さも 言動や表情・態度などから、その通りに違いないと感じさせる様子。
     「-満足そうにうなずいた」「-迷惑そうな顔をした」「-誠意に
     あふれたという応対ぶり」  新明解

 

「その通りに違いない」ですね。「言動や表情・態度などから」という判断の根拠が示されています。

ここで、省略されていますが、「(ある人物の)言動や表情・態度などが(話し手に)その通りに違いないと感じさせる」ということですね。

「さも満足そうにうなずいた」「さも迷惑そうな顔をした」この二つはいいのですが、「さも誠意にあふれたという対応ぶり」というところで、ちょっと違和感が出てきます。「その通りに違いない」と話し手は感じているのでしょうか。

 

小学館日本語新辞典には、かなり違ったことが書かれています。

 

  さも (多く、「…そう」「…よう」やそれに類する語をあとに伴って)
    人の態度や行動、生物の動きなどについて、事実はそうでない、または
    不明であるという場合に用いる語。[例]父はさも満足そうだった/犬は
    さも歓迎するかのように尾を振った。  小学館日本語新
 

「事実はそうでない、または不明である」というのは、新明解の「その通りに違いない」とは正反対ですね。

しかし、「父はさも満足そうだった」というのは、「事実はそうでない」んでしょうか。また、「犬」が尾を振っていれば、それは「歓迎していない」ということはないんじゃないか。そういう「ふり」ができる犬というのは…。ちょっとコワい。

 

実例を見てみましょう。書きことばコーパス「NINJAL-LWP for TWC」から。

「さも+動詞」を見ると、「わかる」がいちばん多いので、そこから。

 

  ・叱られたら、さも分かったように、反省して見せる。
  ・さも解ったように書いてますが、自分で体験していないことも多々あります。
  ・さもわかった風な顔して別れたが実はちんぷんかんぷんで、えらい苦労した。
  はっきり分からないことを,さも分かったように話すことは絶対にしてはならない。
  ・わかりもしないことを、さもわかったような顔をして、そこに自縛することありません。
  ・僕は、相変わらずほとんど要領を得ない答えに、さも分かったようにうなずくしかなかった。
  ・環境の屁理屈をさも分かったように、並べ立てますが、科学や技術の裏付けが少ない情緒的な欺瞞理論がほとんどです。
  ・「砲術計算というソフトが死命を制する(p72)(p75)」云々などと、さも判ったようなことを滔々と書いている。
  ・「物語」を作り上げ、さもわかったように論じるのは、メディアの常套手段であるが、その轍を踏みかねない危険性を孕んでいるからだ。
  ・中国キラーさん私の、わかってもいないのに、さもわかったかのようなコメントにまで、いろいろおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

確かに、「事実はそうでない」例ばかりですね。

次は、「知る」の例を。

 

  ・「知らない」と言うことはプライドが許さないらしく、さも知ってるように教えてくれる。
  ・1件だけ読んで「この人の回答は云々」とさも知ってるかのように評価するのはいかがなものかと。
  ・漫画家というか、創作人に大事なのは、知りもしないことをさも知ってるかのように言う…ハッタリも大きいと思いますので。
  ・他人と話していて知らない単語や知識が出てきても、さも知っている風に装い泰然と構え、後になって必死に意味を調べたりするでしょう。

 

形容詞で「正しい」の例。

 

  ・さも正しい言葉であると言わんばかりに堂々と間違えないでください。
  ・「売れる家」ばかりを考え、間違った理論を、さも正しいように、本にまで書いて売ろうとしているやからもいます。
  ・ここであえて分からないと言っておくことで、その後の誤った認識に基づく誤った結論をさも正しいことのように見せようとしているのだ。

 

これも、「事実はそうでない」例です。

小学館日本語新の説明はこれらの例に当てはまります。

 

では、三国から新明解の例はどうなったのでしょうか。「うれしい」などの例を。

 

  ・と仰いますと、継母はこれを聞いて、脇を向いて、さも嬉しげな様子で笑いました。
  ・「うん、なかなかいゝね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしさうにさう云つた。
  ・つい先刻までは悲しみと疲れとにやつれ果てていた老母の顔が、さも嬉しそうに、今まで見たことのないほど嬉しそうにかがやいて見えるのであった。
  ・「やぁ、みんな登ってくる、登ってくる」天狗はさも楽しそうにそのようすを見ていました。
  ・それを見ると娘はさもさも可笑しいという様に、顏を掩うて笑い出した。

 

こういう感情形容詞の例だと、「そう形容するのがふさわしい」「その通りに違いない」と考えてもよさそうです。もちろん、文脈によっては、「そういうふりをしているだけ」の場合もあるでしょうが。

 

「さも~そうに/ように」という形は、「そう形容するのがふさわしい」ということを表すとしても、それが正しい場合と、そう見せているだけだと話し手は思っている場合がある、ということを両方書いておく必要があるのだと思います。

それが修飾する述語の種類によって、そのどちらかに偏るという傾向がありそうですが、そこは私にははっきり言えません。誰かしっかり調べて、論文にでも書いてほしいものだと思います。

 

初めに戻って、三国の「さも」の記述ですが、三国の副詞の項目はどうもうまく書けていないことが多いなあ、と思います。

単に他の語で置き換えて、それで「語釈」の代わりにする、ということはやめてほしいと思います。

用例も、それを見て、ああ、こういう風に使われるのか、ということがわかるような例にしていただきたいですね。