ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

国語辞典の「自動詞・他動詞」(30):自他表示と「構文の型」表示

三省堂国語辞典第八版が動詞の自他の基準をそれまでとは大きく変え、

   ・「〇〇を」の形を受ける動詞は他動詞〔(他)と表示〕
   ・「〇〇を」の形を受けない動詞は自動詞〔(自)と表示〕  三国八版 p.1693

としたことを前々回に書きました。

これと、第七版までとの違いは本当に大きくて、その処理の漏れ(と思われるもの)が前回の「ヲ自動詞」のリストになりました。

 

さて、三国の新しい基準はどういう意味があるのでしょうか。もう一度、ゆっくり考えてみます。

これまでの、移動動詞の「通過点」や「離点」など、辞書編集者によってその判断に幅がある(それもけっこう大きな)ものをすべて次の引用にあるように「動作に直接必要な要素」と認めて、その動詞を「他動詞」としてしまおう、ということです。

 

   文法書の中には、「歩く」「行く」「出る」「離れる」など移動を表す動詞を自動
  詞に含めるものも多くあります。「道を掘る」の「道を」は掘る対象なので目的語、
  「道を歩く」の「道を」は歩く対象ではないので目的語でないというわけです。
   しかし、どちらの「道を」も、動作に直接必要な要素を表すことでは共通します。
  「道を歩く」の「道を」は、その上を直接歩くことを表しています。「北に歩く」の
  「北に」が歩く動作に直接かかわらないのとはあきらかに違います。
   この辞書では、「〇〇を」の部分を、動作・作用などが成り立つのに直接必要な
  要素を表すものととらえ、この形を受ける動詞を「他動詞」、この形を受けない
  動詞を「自動詞」とします。(他)とあれば、「『〇〇を』を受けることができる」
  という意味です。   三国第八版 p.1693-4

 

これは、非常にわかりやすい考え方です。最後の、

  (他)とあれば、「『〇〇を』を受けることができる」という意味です。

というのは、非常にすっきりしています。(これまでの、「国語辞典の「自動詞・他動詞」」の長い議論がいっぺんに片付いてしまいます。)

 

これまでの「他動詞」は意味的には「影響を他に及ぼすもの」という説明がなされ、その「他」を「対象」と呼び、文法的には「直接の受身」にできるものが多い、とか、「~てある」がつけられる、などという(すべてではありませんが)共通性が示されてきました。

学研新の「現代日本語の文法」は、文法的な「自他動詞の弁別」の手段を紹介し、しかし「有効な手段とはならない」として「対象のヲ」という考え方を主張しています。

 

 学研現代新国語辞典 第六版「現代日本語の文法」より(p.1579)

  自動詞・他動詞は、「結果が残っている」ことを言い表すときの違いによって区別
  することもできる。「戸が開いている」「戸が開けてある」のように、「ている」の
  ついたものが自動詞、「てある」のついたものが他動詞であるが、この方法はすべ
  ての動詞に適用できないという弱点がある。
  また、「犬が人をかむ→人が犬にかまれる」のように、直接的な受け身を作るかど
  うかも自他動詞の弁別のために使われるが、「犬が人にかみつく」のように「~に」
  をとるものも直接的な受け身を作ったり(人が犬にかみつかれる)、「私は右手を骨
  折した」などでは純然たる他動詞でありながら受け身を作らなかったりするので、
  これも自他動詞弁別の有効な手段とはならない。あくまで、<対象>の「を」を
  とるかどうかで他動詞と自動詞の区別がつけられることに注意したい。

 

しかし、この「対象のヲ」なるもの、人(辞書編集者)によって非常にとらえ方が違うことは、これまで長く書いてきたことで明らかだと思います。

結局、意味的な基準でもうまく分けられず、文法的な手段では例外が多すぎる。いちばんはっきりしているのは、動詞によって「を」をとるかどうかが決まっている、という違いだけです。三国は、それを自他の区別の新しい基準にしようとした。

しかし、これは結局、「ヲをとる動詞」「ヲをとらない動詞」に「他動詞・自動詞」という呼び名をつけた、ということを裏返しにしたにすぎません。

では、「ヲをとる動詞」だけを別にした時、その意味的・文法的共通性とは何なのか。(「対象のヲ」だけでなく、です。)
上にも述べたように、三国の説明は「動作・作用などが成り立つのに直接必要な要素」としての「~を」をとる、ということのようです。

しかし、「動作・作用などが成り立つのに直接必要な要素」というのは、「を」だけでなく、「に」で示されることがあります。これまでに繰り返し例としてあげてきた「かみつく」その他の動詞です。
「その犬は噛んだ」というだけでは「何を?」が足りないように、「その犬は噛みついた」では「何に?(誰に?)」が必要です。
「着く」も、「一行は着いた」では「どこに?」と聞きたくなります。「一行はホテルに着いた」のように「に」が必要です。
また、「彼らは向かった」では何のことかわからず、「彼らは京へ向かった」と言うと安定するわけです。
これらも「動作・作用などが成り立つのに直接必要な要素」と言えるでしょう。

そう考えると、「を」が他の格助詞と違う点は特にないことになってしまいます。それを「他動詞」と呼ぶ必然性も。

「を」をとる動詞、というだけなら「ヲ動詞」あるいは「ヲ格動詞」とでもしたほうがわかりやすくなります。それに対するのは「ニ動詞」あるいは「ニ格動詞」などです。

自動詞でも、「に」を必要とする動詞と、そうでない動詞がありますからその区別をしたほうがいいと思われます。「を」のほうだけ重視するのはバランスが悪いでしょう。

そうすると、「ガ動詞」と「ガ・ニ動詞」、「ガ・ヲ動詞」、さらには「ガ・ニ・ヲ動詞」などという分類をしていくことがいちばんわかりやすい分類になります。 

さらに考えを推し進めると、新明解と小学館新がやっているような「動詞文型」を示すのがいちばんいいのではないか、ということになります。「だれガ なにヲ」あるいは「人ガ 人ニ ものヲ」のような形でその動詞がとりうる文型を示すのです。

三国は、上に引用した部分の後に、次のように続けます。

 

   実際に文を作る上で、その動詞が「を」を受けるかどうかは大きな問題です。
  「アイデアがひらめく」か、「アイデアをひらめく」か。「内容に熟知する」か、
  「内容を熟知する」か。(他)の有無によって「を」の使用・不使用を示すこと
  は実用上も役に立ちます。   三国第八版 p.1694

 

ここで例として出されている「ひらめく」は新明解では次のように「構文の型」が示されています。

 

  ひらめく(自五) 1((どこニ)-)一瞬、鋭く光る。「いなずまが-」
    2((なにニ)-)〔よい考えなどが〕瞬間的に思い浮かぶ。「名案が-」
    3〔旗などが〕風に吹かれて、波打つように動く。  新明解 

 

このように動詞のとる格助詞の型を示していけば、「自動詞」「他動詞」という必要はなくなります。

「(他)の有無によって「を」の使用・不使用を示す」よりも、たんに「を」が使えるかどうかをそのまま示す。

逆に、上の新明解の(自)という表示は、(どこニ)(なにニ)という文型の指示があれば、それがつまり自動詞であることを示しているので、特に必要なものではないはずです。

この「基本構文の型」を、新明解は第五版(1997)から載せています。国語辞典としては画期的な試みです。(ただし、新明解が「重要語」とする約三千五百語の中の動詞に限られます。なお、形容詞にも同じような型が示されます。形容動詞にはありません。)

 

では、新明解のようにすれば問題は解決かと言うと、そうも言えません。

岩波の編者の一人である丸山直子が次のような興味ぶかいことを書いています。

 

  『岩波国語辞典』第7版作成に当たって、当初、『新明解国語辞典』のような
  格パターンを記述しようと試みたが、すべての格パターンを記述すると極めて
  煩雑になり、語釈が見にくくなる等の弊害があるため、掲載するには非常に
  荒っぽいものにせざるを得ず、それでは格パターン情報を載せることにあまり
  意味はなかろうという結論に至り、格パターンを記述する代わりに、なるべく
  例文に反映させる方針をとることになった。「用例をして語らしめる」(倉島
  2008、p.226)方法である。必要があれば、語釈にも変更を加えることとした。
     丸山直子「動詞の格情報-国語辞書の記述とコーパス-」(2011、p.228)

 

詳しく記述すると「極めて煩雑に」なり、「非常に荒っぽいもの」では掲載する意味があまりない、ということで格パターンの記述を見送った、という話です。
これはよくわかる話で、新明解の試みは画期的なものではありますが、詳しく見ていくといろいろと不満の出るものでもあります。
(しかし、岩波が「格パターン」を表示したりしていたら、面白かったのですがねえ。)

ただ、上の引用で岩波は「用例をして語らしめる」のだと(丸山は)言っていますが、実際に岩波の動詞項目を見ると、その方針が十分貫かれているとは言えません。そのことは、これまでの「国語辞典の「自動詞・他動詞」」で何度も指摘してきました。圧倒的に、用例が少なすぎます。

用例が比較的多い(小型)国語辞典というと、私がまず思い浮かべるのは現代例解です。他と大きく違うというほどではありませんが、用法の一つ一つに用例をあげていこうという方針があるように感じます。

しかし、現代例解は動詞の自他を表示していません。「とじる」のような自他両用の場合だけ、それぞれの用法に自他を示しています。(他は自ずからわかるだろう、ということでしょうか。そうでもないんですが。)

これは、私などには物足りないのですが、これまでに見てきたような国語辞典の現状から考えると、一つの賢いやり方と言えるのかもしれません。要は用例で格助詞の使われ方を示せばいいのです。自他の判定で悩むことはありません。

現代例解を詳しく調べたことはないので、実際にどの程度その動詞がとりうる格助詞が示されているのかはわかりませんが、おそらく、十分と言えるほどではまだないのだろうとおもいます。

 

さて、動詞の自他の用法という、複雑で記述が難しいものをどう扱うか。各国語辞典がそれぞれ苦労しているわけですが、三省堂国語辞典が国語辞典としてはおそらく初めて、自他の認定に関する画期的な(?)判断を選択しました。これが他の辞書の編集者にどう受け止められるのか、どういう影響を及ぼすのか、興味深いところです。(と、他人事みたいに言ってちゃいけないんだ、というのはいつものことです。)