ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

広辞苑と「自動詞・他動詞」

前に、「国語辞典の「自動詞・他動詞」」という題の記事を長く書きました。
(「2021-12-05 国語辞典の「自動詞・他動詞」(1)」~「2022-01-29 国語辞典の「自動詞・他動詞」(33):いろいろな意見」)

多くの動詞について、十種の国語辞典が自動詞とするか他動詞とするかを調査して一覧表にし、その判定の根拠、問題点などを考えたものです。

その時は広辞苑をとりあげていなかったので、今回、調べてみることにしました。

以前の記事をまとめた表(「2022-01-04 国語辞典の「自動詞・他動詞」(26):自他比較表一覧」)に広辞苑を加えたものを作り、広辞苑の判定についての疑問点などを述べていきます。

十種の辞典の比較とその問題点については前の記事を参照してください。(三国は第七版のままです。新選も第九版。)

 

初めに、広辞苑が「自動詞・他動詞」をどうとらえているのかを見ていきましょう。まず、辞書本文の項目から。「自動詞」「他動詞」をどう説明しているか。

 

  自動詞 他人や物に作用を及ぼさない行為・変化・状態を表す動詞。目的語が
    なくても意味が完結する。「走る」や「咲く」の類。⇔自動詞  広辞苑

  他動詞 他の人や物に作用を及ぼす行為を表す動詞。これを述語に含む文は
    通常目的語がないと意味が完結しない。日本語では、目的語として多く
    助詞「を」を添えて表す。「本を読む」の「読む」の類。⇔自動詞  広辞苑

 

「自動詞」とは「他人や物に作用を及ぼさない行為・変化・状態を表す動詞」です。ここで「作用を及ぼさない」とはどういうことか。また、「目的語がなくても意味が完結する」とありますが、「目的語」とは何か。「意味が完結する」とは。

「他動詞」は自動詞と反対で、「他の人や物に作用を及ぼす行為を表す動詞」です。「変化・状態」はありません。「行為を表す動詞」です。「これを述語に含む文は通常目的語がないと意味が完結しない」とありますが、「意味が完結しない」とはどういうことか。

 

「目的語」「作用を及ぼす/及ぼさない」「意味が完結する/しない」、これらがキーワードです。

まず、「目的語」とは。

 

  目的語〔言〕(object)文の成分の一つ。動詞が表す動作の対象を表す名詞(句)。
   動作の直接的な対象を表す直接目的語と、動作の利益や間接的な影響を受ける
   ものを表す間接目的語とに分れる。国文法では連用修飾語と見なし、目的語と
   いわないこともある。客辞。客語。   広辞苑

 

「動詞が表す動作の対象を表す名詞(句)」です。ここで問題なのは、「動作の対象」です。

上の例「本を読む」でいえば、「読む」という動作の「(直接的な)対象」が「本」だということでしょう。(「対象」とは何か、と言い出すと大変なので、ここはわかったことにします。)

「走る」や「咲く」には、そういう「対象」となるものは関係しない、ということです。

しかし、「直接目的語」と「間接目的語」というのは何でしょうか。英語の文法の中で聞くことばで、日本語の文法ではあまり使われない言い方です。ここは言語一般について言っているのでしょうか。

日本語に「直接目的語」と「間接目的語」があるなら、それらはどのように表され、区別されるのか。

上の「目的語」の説明はちょっと中途半端です。「他動詞」のほうの説明(「日本語では、目的語として多く助詞「を」を添えて表す」)とうまくかみ合っていません。
編集者は、「他動詞」と「目的語」の項目を比べて内容の整合性を検討したのでしょうか。

最後の「国文法では連用修飾語と見なし、目的語といわないこともある。」というのは、まあいいとします。これは、「国文法」のほうが大ざっぱすぎるのです。

 

「作用を及ぼす」という言い方、他動詞の意味をどう特徴づけるかについては、後で触れます。

 

「意味が完結する」について。
自動詞のほうで、「目的語がなくても意味が完結する」とあるのは、「自動詞の意味が完結する」ということでしょうか。

しかし、他動詞のほうでは、「これを述語に含む文は通常目的語がないと意味が完結しない」とあって、「意味が完結しない」のは「(これを述語に含む)文の意味」です。
これは、自動詞のほうの書き方が不注意なのでしょう。

では、「文の意味が完結する」とはどういうことか。

自動詞の場合、例えば「汽車が走る。」「花が咲く。」と言えば、それだけで一つの事柄を表す、と言えます。どこで、とか、どんな汽車・花なのか、などは言わなくていい。一つのイメージ、「絵」が心の中に浮かぶわけです。(文には「イメージ」で表せないものも当然ありますが、その話はひとまずおいて。)

しかし、他動詞の場合、「母が読む。」だけではどうも落ち着かない。「何を?」と言いたくなる。「母が食べる。」でも同じです。何を食べるのか、が足りない感じがする。(もちろん、「文脈」から推測できる場合は別です。)
「文の意味が完結する」ためには、「読む」の「目的語」が要る。それは「~を」で表される。

 

だいたいこのような話だろうと思うのですが、「文の意味が完結する」という場合、上の例でも補っておいたように、いわゆる「主語」の存在が前提となっています。
「本を読む」だけで「文の意味が完結する」わけではない。

「目的語」は「文の成分の一つ」です。「文の成分」でまず必須なのは「主語」と「述語」(動詞など)です。その二つだけで成り立つのが「自動詞」の場合で、「他動詞」は「目的語」が要る。

 

  文〔言〕(sentence)形の上で完結した、一つの事態を表す言語表現の一単位。
     通常、一組の主語と述語とを含む。     広辞苑

 

わからないところはいろいろありますが、とりあえず、「他動詞」と「目的語」の関係の話は以上でだいたいいいでしょうか。

こういう典型的な例だけなら、ここまでの話はわかりやすいものですが、実際に多くの動詞を見ていくと、そんなにかんたんな話でないことがすぐにわかります。

 

もう一つ、「他動詞」の「日本語では、目的語として多く助詞「を」を添えて表す」の「多く」がちょっと気になります。「~を」でない目的語があることを示唆しているのか?

先ほどの「間接目的語」の話と、ここの「~を」でない目的語の話とがつながっているのかどうか、その辺りが問題なのですが、上に引用した内容だけでは何もわかりません。

 

以上のように、辞書本文の項目「自動詞」「他動詞」を調べてみても、非常に基本的な話のみで、実際の動詞の自他判定にはあまり役立ちそうもありません。

 

次に、広辞苑の「日本語文法概説」の「動詞」から、自動詞と他動詞の説明をした部分を引用します。

辞書本文の項目とは違った、より詳しい説明があるはずです。

第五版・第六版・第七版でそれぞれ書き方が違います。一つずつ見ていきます。

まず、第五版から。

 

 広辞苑 第五版(1998) 付録p.2891
   動詞は、他動詞・自動詞と二種類に分けることができる。日本語では、
  「立てる」「立つ」「割る」「割れる」のような、語根は同じで、活用
  の違う語がある。「立てる」「割る」は、何かがその事態の起る因をなし
  たという意味があり、「立つ」「割れる」は、自然とその事態が生じた
  という意味があって、前者を他動詞、後者を自動詞と区別することが
  できる。ヨーロッパ語などでは、目的語を取る他動詞、取らない自動詞
  という区別をする。ヨーロッパ語では、他動詞・自動詞の間には、前者
  は受け身の形となるが、後者はならないといった違いもあるなど、有効な
  区別といえるが、日本語では「会議を終える」「会議を終わる」のように
  自動詞・他動詞の区別が文の上に明確に現れず、「先に行かれた」のよう
  に自動詞も受け身になるなど、自動詞・他動詞の区別が言葉の形式の上に
  現れるとは限らない。このような点から、日本語において他動詞・自動詞
  を区別することに意味がないとする考えもあるが、「立てる」「立つ」など
  の違いを認識する点を考慮し、本書では、動詞の自他の別を付すこととした。

 

まず、動詞は自動詞・他動詞に分けられる。(これは言語一般の話のようです。)

「日本語では」と限定して、「語根は同じで、活用の違う語」の対があることをまず述べます。
その片方が「何かがその事態の起る因をなしたという意味があり」、もう片方が「自然とその事態が生じたという意味」があるとします。(ここまでの説明は「形態」と「意味」の話です。)

そして、「前者を他動詞、後者を自動詞と区別することができる」というのですが、ここでは「他動詞・自動詞」というもの、そのものの説明がまだないのですね。ですから、なぜ「前者を他動詞」とするのか、「後者を自動詞」とするのかということはわからないはずです。でも、「区別することができる」と言ってしまいます。

すぐ次に「ヨーロッパ語などでは、目的語を取る他動詞、取らない自動詞という区別をする」と述べるのですが、この「目的語を取る・取らない」ということと、上の「何かがその事態の起る因をなした/自然とその事態が生じた」との関係というか、質の違いについてどう考えたらいいのでしょうか。
「目的語」の話は文法、より限定していえば構文論の話です。

その後の話は、結局日本語の構文論的な議論では「自動詞・他動詞の区別が言葉の形式の上に現れるとは限らない」ということになってしまい、しかし、「「立てる」「立つ」などの違いを認識する点を考慮し」という意味的な観点から「本書では、動詞の自他の別を付すこととした」という結論になります。

自動詞・他動詞の区別は、日本語では文法的なものでなく意味的な違いに基づくものだということのようです。しかも、自他の対のある動詞が基準になっています。
どうもすっきりしません。

 

意味の観点からの説明というのは、どうしてもきっちりした説明になりにくいところがあります。

上の「自然とその事態が生じた」という自動詞の説明は、例えば「立つ」の例として「人が立つ」を考えると、当てはまりません。それは意志的な行為です。「並ぶ・並べる」でもそうでしょう。自動詞の例、「校庭に生徒が並ぶ」のは、「自然とその事態が生じた」わけではありません。さらに言えば、意志的でない場合でも、「教室に机が並んでいる」のは「自然とその事態が生じた」ということはないでしょう。他動詞の「教室に机を並べた」は、「何かがその事態の起る因をなした」という説明が当てはまるでしょうが。

以上の自他の区別の基準で、「ある」「いる」「要る」「わかる」「行く」などの自他の判定はどのようになされるのでしょうか。

 

次に、第六版の説明を見てみましょう。

 

 第六版(2008) 別冊付録p.198
   動詞は自動詞・他動詞の二類に分けられる。本来は、この分類は西欧語に
  あったもので、自動詞は目的語を必要とせず、受け身にもならない、他動詞は
  目的語が必要であり、受け身にもなると説明される。しかし、日本語では、「本
  を読む」「字を書く」などでは、「を」の前の語が目的語であり、それがすべて
  の場合に当てはまるように見えるが、必ずしもそうとはいえない。「空を飛ぶ」
  「弾の下を逃げる」などは、「を」は移動する場所を示す語で、「飛ぶ」「逃
  げる」は自動詞である。つまり、「を」は目的語を示すとは限らない。また、
  自動詞が受け身になることもある(「ペットに逃げられた」など)。目的語が
  はっきりせず、必然的に動詞の自他を区別することも難しい。ただ、日本語
  では「割る」「割れる」、「壊す」「壊れる」、「集める」「集まる」など、
  対になって、活用の違いで意味の変わる(前者は誰かの故意の行為、後者は
  自然の成り行き)組み合わせの動詞があるので、それに自他を当てはめ、
  「割る」以下、前者を他動詞、後者を自動詞とする。なお、学校文法では、
  目的語という名称を使わず、修飾語の中に入れて説明されることが多い。 

 

まず、動詞は自動詞・他動詞に分けられる。ここは第五版と同じですが、次に「本来は」西欧語の分類で、日本語では「動詞の自他を区別することも難しい」と続きます。

しかし、その後で「ただ、日本語では」と続け、「対になって、活用の違いで意味の変わる(前者は誰かの故意の行為、後者は自然の成り行き)組み合わせの動詞があるので、それに自他を当てはめ、「割る」以下、前者を他動詞、後者を自動詞とする。」とします。第五版と同じ考え方です。

ただ、この第六版では、その「対」の意味の違いを「(前者は誰かの故意の行為、後者は自然の成り行き)」と言っています。
第五版の「何かがその事態の起る因をなした/自然とその事態が生じた」とは微妙に違います。

他動詞の意味を「故意の行為」と規定してしまうのは、明らかに行きすぎです。例えば、「月が照る:月が夜道を照らす」という動詞の対を考えると、どう見ても他動詞でも「故意の行為」ではありません。自然現象が他動詞で表されることもよくあるのです。「風が木を倒す/花を散らす」「雨が頬をぬらす」など。
ここは、第五版の「何かがその事態の起る因をなした」のほうがよいでしょう。

特に問題となるのは、その後の「それに自他を当てはめ」というところでしょう。単に、対となる動詞に「自他を当てはめ」たのでしょうか。ここはもう少し丁寧な説明が必要です。

これでは、「対」となっていない他の多くの動詞、「いる・行く・来る・遊ぶ・働く・勤める・読む・書く・食べる・飲む・笑う・悲しむ・死ぬ・殺す」など、いわゆるごくふつうに「自動詞/他動詞」と言われる動詞をどう考えるのか、という点が落ちています。

やはり、基本的には「目的語」の有無ということがあり、動詞とその「目的語」との関係をもう少し詳しく考えてみる必要があるでしょう。「移動の場所」その他の「例外」をきちんと検証していくことなども。

 

第五版と第六版は、多少の違いはあっても基本的な考え方は共通です。

現在の第七版の「日本文法概説」は、全体としては分量が大きく増えたのですが、動詞の自他の問題は逆にあっさりと書かれています。

 

 第七版(2018) 別冊付録p.201
   動詞は目的語を必要としない自動詞と、目的語を必要とする他動詞とに
  分けられる。他動詞の「切る」では、「木を切る」のように、動作の影響
  が及ぶ「木」を目的語として表現する。自動詞では、動作の影響が及ぶ
  対象がなく、たとえば「走る」では対象を示す必要がない。ただし、「街
  を走る」「試合に負ける」「人と会う」のように、動作に関連するものが
  「を」「に」「と」などの助詞で示されることも多い。「街を走る」の
  「街を」は、走る場所を「を」で示しているだけで目的語ではない。

 

西欧の言語の話はなし。受身の話もなし。第五版・第六版で自他を区別する中心的な根拠だった「対になる動詞」の話もなくなってしまい、単に「目的語を必要とする」かどうかの話になりました。

その目的語は、「動作の影響が及ぶ」語(対象)であるかどうか、によります。「たとえば「走る」では対象を示す必要がない」と考えられます。「街を走る」の「を」は、「動作に関連するもの」(走る場所)を示しているだけで、目的語ではないとされます。(「走る場所」という個別の動詞の話になってしまい、より一般的な「移動の場所」ではなくなっています。)

ただ、この「動作の影響が及ぶ」という説明ではおよそうまくいかない、ということは前の多くの記事で見てきたところです。(「2021-12-05 国語辞典の「自動詞・他動詞」(1)」~)

例えば、「望遠鏡でアンドロメダ星雲を見た」という例で、「望遠鏡で見た」という「動作の影響」が、どのように「アンドロメダ星雲」に「及ぶ」というのでしょうか。あるいは、「愛犬の死を悲しむ」と「愛犬の死」にどのような影響が及ぶのでしょうか。

このような「説明」ですませられたのは、昭和の前半ぐらいまでではないでしょうか。これが、平成の最後の年に出た第七版の説明だということ(そして、それ以外に何の詳しい説明もないということ)に、ちょっとがっかりします。

 

今回の記事の初めのほうで、辞書本文の項目「自動詞」「他動詞」を引用した時、「作用を及ぼす・及ぼさない」という説明があったのを覚えているでしょうか。それについては「後で触れる」と書いたことも。

こちらの表現のほうが、「影響を及ぼす」よりまだいいのではないかと思います。例えば「望遠鏡でアンドロメダ星雲を見た」という例でも、「見る」という行為は「アンドロメダ星雲」まで「及んでいる」と言えるでしょう。「影響」は及んでいませんが。
一言で言って、第七版の説明は第五版・第六版より後退しています。

 

以上、広辞苑の辞書本文の項目と付録の「日本語文法概説」で、「自動詞」「他動詞」の区別についてみてきましたが、結局、「目的語」を要するかどうかと、「動作の影響/作用が及ぶ」ということと、「走る場所」を示す「を」は別、というごくありふれた説明のみでした。

以上の説明で、辞書本文中のある動詞の品詞表示の根拠がわかるものかどうか、一つ一つ見ていきたいと思います。

この続きはまた次回に。