ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

愛唱・愛誦・愛読

愛のことばを。

 

  あいしょう 愛唱(名・他サ)好きで歌うこと。「私の-歌・世界の-歌」

             三省堂国語辞典

 

好きで歌えば「愛唱」なんでしょうか。今ひとつ語釈が「浅い」感じがします。

「愛飲」の項では、「日ごろから好んで飲むこと」と、いい語釈をつけていたのに、ここでそう書かないのはなぜでしょうか。

 

  明鏡  ある歌を日ごろから好んで歌うこと。

  新明解  好きで、折につけて歌うこと。

 

「折につけて」というのはいい表現ですね。

では、もう一つの「愛誦」。

 

  あいしょう 愛誦(名・他サ)〔文〕好きで<くちずさむ/節をつけて声に出す>こと。            三省堂国語辞典

 

この語釈も同じですね。しかも用例がない。何を「くちずさむ」のかわかりません。

 

  明鏡  ある詩歌や文章を、日ごろから好んで口ずさむこと。「漢詩を-」

  新明解   好きで、折につけて声に出して言って見ること。「-する古典」

  現代例解  「啄木の歌を愛誦する」

  学研現代・岩波  「牧水の歌を-する」

  新潮現代  「万葉集中の-歌」 

  大辞林  「昔-した唐詩選や三体詩(荷風)」

  広辞苑  「李白の詩を-する」

 

この用例を比べると、それぞれの編者の好み(?)がわかります。

大漢和辞典の大修館はさすがに「漢詩」です。広辞苑は限定して李白

万葉集唐詩選というのも、日本人の伝統です。

岩波と学研が同じ牧水というのは意外でした。啄木は曲が付いているものもありますね。

「愛読」も見てみましょう。

 

  三国  好きで〔本や雑誌を〕読むこと。「-書・-者」 

  明鏡  特定の書物を好んで読むこと。「冒険小説を-する」「-者」

  新明解 〔その書物や新聞などを〕好きでよく(いつも)読むこと。「-者・-書」

  現代例解・例解新  「漱石の作品を愛読する」「愛読書」

  岩波  「-者」「-書」

  学研現代  「魯迅を-する」「-書」

  三省堂現代  気に入って、くり返し読むこと。「-書・少年時代に-した本」

  大辞林  「推理小説を-する」「-書」

  広辞苑  「-書」「-者」

 

「冒険小説」「推理小説」というのはいいですね。こういうところで気取ってもしかたがない。いや、「漱石魯迅」が好きなのは、それでもちろんいいのですが。

岩波と広辞苑はつまらないですね。三国・新明解も。

皆、同じような例の出し方をしていますが、三省堂現代はちょっと工夫しています。こういう工夫が、国語辞典として大事だと思うのですが。

この「愛読」に関しては、圧倒的に他に差をつけている辞書があります。

 

  新潮現代  「足元には積み重ねた五六冊の-書が」「お目にかかりたかっただけです。僕も先生の-者の」「『つれづれ草』などは未だ嘗て-したことはない」  

 

「愛読書」「愛読者」も文学作品からの実例です。最後の例は芥川の「侏儒の言葉」から。用例の集め方が根本から違います。やはり新潮現代はすごい辞書です。

 

愛煙・愛飲

やっと色の話を離れて、今度は「愛」にまつわる語を。

 

  愛煙(名・他サ)タバコが好きなこと。「-家」  三省堂国語辞典

 

広辞苑、明鏡、新明解は「愛煙」はなく「愛煙家」のみ。つまり、「愛煙」だけで名詞として使うことはない、という判断でしょう。確かに、「愛煙を/が/に」という用法はほとんどありません。「愛煙の」はそれなりにあるようです。「愛煙の銘柄」という言い方は、私にも自然に感じられます。

三国は「愛煙する」という動詞を認めています。これは新しい情報で、ネットで検索すると例が多くあります。

でも、せっかく他の辞書にない、新しい用法だというなら、用例がほしいですね。「この銘柄を-している/する人は多い」とか。

 

  愛飲(名・他サ)〔酒・コーヒーなどを〕日ごろから好んで飲むこと。「-者優待」

          三省堂国語辞典

 

まあ、悪くはないんですが、もう少し限定したほうがいいような。

 

  好んで飲むこと。「辛口の酒を-する」   広辞苑

  特定の飲料をいつも好んで飲むこと。「吟醸酒を-する」   明鏡

 

これらの例のほうがわかりやすいと思いませんか。しかし、なんでお酒ばかりなんでしょう。編集者がおじさんだから?

 

  飲み物のほか、たばこやサプリメントなどについて言うこともある

             三省堂現代新

 

こういう説明を付ける辞書もあります。

 

青写真

しつこく、また「青」に関する語を。

 

  青写真  ①青い地に白で、設計図や文字などをあらわした写真。青図。  

          三省堂国語辞典

  設計図などを青地に白く焼き付けた写真。青焼き。ブループリント。
            明鏡国語辞典

 

他の辞書もだいたい似たようなものですが、広辞苑だけ、ちょっと違うことが書いてあります。

 

  青写真①(略)青地に白線あるいは白地に青線の印画が得られる   広辞苑

 

私の学生時代(1970年代です!)、明鏡の言う「青焼き」あるいは「ブループリント」と言えば、「白地に青線」が普通でした。それで、レジュメや論文のコピーなどを作りました。(「青地に白線」では、論文など長いものを読むのは辛いでしょう。)

現在のコピー(当時は「ゼロックス」と言いました。)と同じものはとても料金が高かったのです。(今でも覚えていますが、1枚40円でした。バイトの時給が160円くらいの時です)

大辞泉にも、こういう記述があります。

 

  青焼き  青写真。特に、オフセットグラビアの印刷で、校正に用いる淡青色の地に濃青色の印画。藍(あい)焼き。 

             デジタル大辞泉

 

「印刷の校正」で使う、ということで、私の知っているものとは違うのかもしれませんが、「淡青色の地に濃青色の印画」というのは、つまり薄いところに濃い青で、ということでしょう。

「青焼き」は「白地に青」のものもあったのです。それも「青写真」と呼んでいいかどうかは、私にはわかりません。

 

赤ちゃんと赤ん坊

飯間浩明(敬称略)がツィッターで、「赤ちゃん」と「赤ん坊」について書いていますが、次のような見方はないのかと。(私は飯間のツィッターを時々のぞいています)

  うちの赤ん坊  あなたの赤ちゃん

「赤ん坊」を自分では使わないという人が増えているのかもしれませんが、それはともかくとして、両方使う人(私もそうです)の場合、上に書いたような使い分けはないのだろうかと。

人が抱いている乳児を見て、「赤ん坊、かわいいですね」とは、私は言いにくいです。ここは「赤ちゃん」と言います。それに対して、

  妹のところの赤ん坊を見てきたよ。妹に似て、気が強そうだったな。

という感じで「赤ん坊」を使います。もちろん、ここで「赤ちゃん」も使えます。

ネットで、「「赤ちゃん」と「赤ん坊」はどう違いますか」という質問に対して、こう答えている人がいました。

 

  mfuji 

  The difference between 赤ちゃん and 赤ん坊 is same to お母さん and 母.
  赤ん坊 is used when you are talking about your baby.

    ex. うちの赤ん坊の写真を見ますか?
  赤ちゃん is used when you are talking about someone's baby.
    ex. あなたの赤ちゃんを見せて下さい。
  If you call your baby, you should use 赤ちゃん.
    ex. 赤ちゃん、お休み。

 

私と同じような感じ方をしている人がいるんだな、と少し安心しました。

ただし、私は「お母さん:母」ほどのはっきりした使い分けはないと思います。敬語のような「丁寧さ」の違いがあるわけではなく、「赤ん坊」が単に「乳児」に対応する日常語であるのに対して、「赤ちゃん」はより親しみのこもった話しことばである、ということだろうと思います。そして、「赤ちゃん」を使う人が増え、「赤ん坊」はだんだん使われなくなってきた、と。

最初に話に出した飯間のツィッターでは、次のようなアンケートをし、その結果を紹介しています。

 

  【問1】あなたの知り合いに子が生まれました。それを人に話すとき、次の2つから選ぶとすれば、どちらの表現を使いますか。

       赤ん坊が生まれたんです  6% 
    赤ちゃんが生まれたんです  94% 

 

この文脈だと、私も「赤ちゃん」派です。しかし、「ソト」と「ウチ」の違いというのを考慮して、「ウチ」の文脈でアンケートをとり、「どちらも言う」という選択肢を用意したら、また違った結果になるんじゃないでしょうか。

 昔はやった歌で「こんにちは、赤ちゃん(・・初めまして、私がママよ)」という歌がありましたが、これは、自分の子どもでも「赤ん坊」は言いにくいですね。

  おい、あかんぼ、お前のオヤジだぞ、これからよろしくな。

と言えないこともない?

 

赤潮・青潮

赤と青の両方を。三省堂国語辞典から。

 

  赤潮 〔地〕プランクトンがふえたために赤茶色となった海水。漁業に損害をあたえる。

  青潮  酸素がほとんどふくまれていない海水。青白く変色して見える。

  

赤潮は〔地〕がついているのに、青潮はそうでないんですね。なぜでしょう。(〔地〕というのは、この辞書で「地名・地理・地質」の分野の専門用語である、ということを表します。つまり、「青潮」は日常語?)

それはともかく、酸素がないとなぜ青白く見えるんでしょうね。そもそも、なぜ酸素がほとんど含まれていないのか。その原因を一言でも書いてほしいところです。

他の辞書の「青潮」を見てみましょう。

 

  新明解  海底の有機物が腐敗して酸素をほとんど奪われた状態の水塊が、海面に上昇し、青白く見える現象。

 

腐敗によって酸素が奪われるのですか。それが海面にあがってくる。でも、酸素がないとなぜ青白く見えるのか。酸素って、特に色はありませんよね。

 

  岩波  沿岸部の海水中の硫化水素が紫外線に反応して青白い帯状にわき上がり漂うもの。水中の酸素が欠乏し、魚や貝を害する。

 

え? 硫化水素が紫外線に反応して? ずいぶん難しくなってきましたね。青白いのは硫化水素ですか。「有機物の腐敗」はどうなったのか。

 

  明鏡  硫化物やプランクトンの色素により海水が青色になる現象。酸素の欠乏で魚類の大量死を招く。

 

今度はプランクトンの色素ですか? それで「海水が青色になる」?

そもそも海水の色って、どう言えばいいんでしょうか。青色じゃない? 三国・新明解・岩波の「青白い」というのは、ふつうは色がない水が「青白く」なる、という意味でしょうか。それとも、全体が青い中で、そこだけ青「白く」なるということでしょうか。

 

  広辞苑  海底の有機物の分解によって生じた硫化水素を含む水塊が浮上し、青白い帯状に漂う現象

 

新明解が言うところの「海底の有機物が腐敗して」分解すると、岩波が言う硫化水素が発生して、それが海面にあがってきて、青白く見える、ということ。 これで「有機物の腐敗」と「硫化水素」が関係づけられました。

岩波の「紫外線」はどう関係するんでしょうか。

 

  大辞林  海底の有機物が腐敗するときに酸素を奪われた水塊が、潮流によって海面に上昇し、硫化水素を発生させる現象

 

え? ちょっとまってください。海底で有機物が腐敗するとき、酸素が奪われるだけですか? 硫化水素は、それが海面に上昇してから発生する?

 広辞苑の説明と、はっきり対立するんじゃありません?

 

  デジタル大自泉  赤潮のうち、比較的緑色に見えるもの。また、有機物の分解に酸素が消費され、酸素の乏しくなった海水が水面に上昇し、青白く見えるもの。水生生物に被害を与える

 

え?え?え? 青潮って、赤潮の一種だったんですか! しかも、「緑色」ですか。「青白い」んじゃない。でも、なんで色が違うのかを説明してくれないと。こっちは硫化水素の話はなし。

 

青潮」の化学現象自体に違いがあるわけでなし、その過程は明らかになっているんだろうと思いますが、辞書によってかなり違いますね。何が何だかわからなくなってきます。

結局、原因など詳しいことを言わない三国が素人にはいちばんわかりやすい?

 

参考までに、wikipedia の解説を。ちょっと長いですが。(岩波の「紫外線」は出てきませんね。)

 

海水に含まれる硫黄コロイド化し、海水が白濁する現象である。これが発生している海は薄い青色に見えるので、赤潮と対比して青潮と呼ばれているが、実際に青い色をしているわけではない。夏~秋に東京湾で多く発生することが知られている。赤潮と同様に魚介類の大量死を引き起こす事がある。

富栄養化により大量発生したプランクトンが死滅して海底に沈殿し、バクテリアによって分解される過程で海中の酸素が大量に消費される。その結果、溶存酸素の極端に少ない貧酸素水塊が形成される。通常、この水塊は潮流の撹乱により周囲の海水と混合されて分散するが、内湾ではこの力が弱い。また、東京湾などでは浚渫工事に伴う土砂の採集跡が海底に窪地として残されており、ここに溜まった水塊は貧酸素環境が特に保たれる。貧酸素水塊中では嫌気性細菌が優占する。嫌気性細菌の一種である緑色硫黄細菌などの光合成細菌の一部は大量の硫化水素を発生させる。この硫化水素を大量に含んだ水塊が湧昇すると、水中の酸素によって硫化水素が酸化され、硫黄或いは硫黄酸化物の微粒子が生成される。微粒子はコロイドとして海水中に漂い、太陽光を反射して海水を乳青色や乳白色に変色させる。多くの場合、青潮は未酸化硫化水素による独特の腐卵臭を伴う。

 

難しくてよくわかりませんが、色の変化の原因は「硫化水素が酸化され」たことによる生成物がコロイド化し、それが太陽光を反射することによる、ようです。

この説明が正しいのだとして、では、国語辞典の中でどれがいちばん正確にまとめているのか。 

  

青虫

赤から青に色を変えて、軽い話を。

また、三省堂国語辞典から。

 

  青虫  小型で緑色のイモムシ。例、モンシロチョウの幼虫。 

 

青虫とは小型で緑色のイモムシである。では、イモムシとは。

 

  芋虫  毛虫の形をしているが、毛の目立たない虫。成長すればチョウやガになる。

 

なるほど。毛虫の形をしているが、毛の目立たない虫、だそうです。では、毛虫とは。

 

  毛虫  木の葉などを食いあらす虫。ガの幼虫で、体の上側に黒・茶色などの毛があり、人をさすものもある。「-のようにきらわれる」

 

ふむふむ。あれ? イモムシのところで、「毛虫の形」とありましたが、毛虫の項ではその形について述べていません。さて、毛虫とはどんな形なのか。

いくつかの国語辞書を見てみましたが、毛虫の形を書いているものはなかなかありません。みんな知っているから、わざわざ書かなくてもいいだろう、では、辞書として失格なのでは?

ふだんは見ない辞書まで見たら、ありました。

 

  旺文社国語辞典 「体は円筒状で」

 

辞書をいろいろ持っているのはいいことです。毛虫の形は「円筒状」とわかりました。

いや、軽すぎる話ですみません。

 

赤帽

「赤」つながりでこの語を。

 

  赤帽 ①赤い色の帽子。②駅で旅客の手荷物を運ぶ職業の人。ポーター。〔赤い帽子をかぶる〕

             三省堂国語辞典

 

「赤帽」は「赤い色の帽子」か。

確かに、「赤帽」は「赤い色の帽子」かもしれませんが、これは、辞書の語釈としては問題があります。

「なるほど。赤帽は赤い色の帽子のことをいうんだな。じゃあ、あの女性は赤帽をかぶっている、って言っていいのかな」と考える人が出かねないからです。

「AはBである(AならばB)」とき、「BはAである(BならばA)」とは限らない、ということはよく知られていることだと思いますが、辞書の語釈も同じように考えていいか。

「Aとはなになにのことである」と辞書にあれば、「なになにのことをAと言う」ということと解釈されます。つまり、「辞書による定義」と見なされるのです。

「赤帽」とは「赤い色の帽子」である、と辞書が書けば、「赤い色の帽子」のことを「赤帽」と呼ぶのだ、という定義になってしまいます。

しかし、すべての赤い帽子が「赤帽」ではありません。「赤帽」とは、

 

  新明解 〔運動会などの時かぶる〕赤い色の帽子。

 

などのことを特別にそう言うわけです。「小学校の」をつけたほうがよりわかりやすいかもしれませんが、こういう限定をつけないと、すべての赤い帽子になってしまいます。

 

次に、三国の②の語釈、「ポーター」について。

別の辞書では次のように書かれています。

 

  新明解 ②〔駅で〕手荷物を運んだ職業の人。

  明鏡 ②~のを職業とした人

  学研 ②~を運搬した人。現在はない。

 

学研の「現在はない」という情報を、新明解の「運んだ」、明鏡の「職業とした」も表しているのでしょう。三国も、何らかの形で同じ情報を示すべきです。

ということで、三省堂国語辞典の「赤帽」の項は、改訂すべき項目です。