ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

お父さん

前に「お母さん」「ママ」という記事を書いたことがありますが、「お父さん」「パパ」を書いていませんでした。各辞書とも、「お母さん」と同じような書き方をしていて、その短所・長所も同じようなものになります。

 

まずは、いろいろと足りない明鏡から。(明鏡が特に悪いわけではなく、多くの小型国語辞典はこのレベルです。)

 

    父親を親しんで、また、高めて呼ぶ語。⇔お母さん
    [使い方](1)「とうさん」とも。より丁寧な言い方は「おとうさま」。くだけた
  言い方は「(お)とうちゃん」。(2)子供のいる夫婦などで、妻が夫を呼ぶのに
  使うこともある。
  [注意](1)他人に対して、自分の父親を「お父さん」というのは、不適切。
  「×お父さん(→○父)に聞いてみます」(2)「おとおさん」と書くのは誤り。
                               明鏡

 

何が足りないかは、他の、詳しく書いてある辞書と比べてみるとわかります。

まず、新明解を見てみましょう。

 

    〔もと「父」の意の幼児語「とと」に基づく「御(オ)とと様」の変化「御とう様」
  の口語形。口頭語形は、「おとうちゃん・おとっつぁん」〕「父」の尊敬語。
  自分の父親に呼びかける(を指して言う)語。また、相手や話題にしている
  第三者の父親を指して言う。⇔お母さん[表記]→付表「父さん」
  [運用](1)他人に対して自分の父親を言う場合は「ちち」が普通だが、親しい
  間柄では「うちのお父さん」のように言うこともある。(2)子供のある夫婦の
  間で、妻が夫に呼びかけるのにも用いられる。(3)父親の立場にある男性に
  呼びかける(を指して言う)のにも用いられる。例、「会場のお父さんたち」
  〔(1)(2)は「父さん」とも〕                新明解

 

まず、明鏡の語釈の最初のところ、「子が父親を~」のようにはっきり書いたほうがいいでしょう。新明解は「自分の父親に」としています。

また、明鏡には「相手や話題にしている第三者の父親を指して言う」というごく当たり前の使い方がなぜかなく、新明解の[運用](3)の用法も書いてありません。

明鏡の[注意]の(1)、

  他人に対して、自分の父親を「お父さん」というのは、不適切。

ということが一般に言われますが、新明解の[運用](1)、

  親しい間柄では「うちのお父さん」のように言うこともある。

のほうが、実際の使われ方をよく観察していると思います。「不適切」かどうかは、かなりその場面によるでしょう。「他人に対して」だけで済ませるのはおおざっぱです。

岩波もいろいろ足りません。

 

  ①父親に対する普通の言い方。▽もっと丁寧には「お父さま」等。
   他人に対して自分の父親を言う時は「ちち」と言うのが普通。
   「おとうさん」は明治時代に国定教科書を編むに当たっての新造と言われる。
   もとの東京語では「父上」や「おとっつぁん」「とうちゃん」など。
   「ちゃん」はよほど下層でなければ使わなかった。
  ②広く、大人の男性に呼びかける時に使う語。        岩波

 

岩波も、

  他人に対して自分の父親を言う時は「ちち」と言うのが普通。

としていますが、「他人」とはだれか。

 

  他人 ①つながりのない人。㋐親族・親類でない人。「―のそら似」「赤の―」
      ㋑何の関係もない人。「―の出る幕じゃない」
     ②ほかの人。自分以外の人。「―の事ばかり気にする」   岩波

 

例えば、(女子)高校生・大学生が友達と話すとき、「父」というのはどうか。
「友達」は「他人」ではないか。(男子だと、「親父」と言うのでしょうか。)
 
岩波の、東京語では「おとっつぁん」「とうちゃん」だったというのは、それはそれで重要な情報ですが、現在の細かい用法は要らないと考えているのか、それとも、細かい用法を知らないのでしょうか。「父親に対する普通の言い方」というだけでは、まったく不十分です。

明鏡は「高めて呼ぶ語」とし、新明解は「「父」の尊敬語」としています。岩波の「普通の言い方」というのはどういう場合に「普通」なのか。「他人に対して」言うときは「ちち」が「普通」なんですね。また、「もっと丁寧には」という補足のしかたは、「お父さん」自体が「丁寧」であるかのようです。この辺、記述が整理されていません。

さらに、岩波の

  ②広く、大人の男性に呼びかける時に使う語。

というよくわからない説明(いつ、どういう場面で「呼びかける」?)と、新明解の

  (3)父親の立場にある男性に呼びかける(を指して言う)のにも用いられる。

   例、「会場のお父さんたち」

という説明、用例とを比べてみてください。岩波の記述は、どうにも手抜きの感があります。

 

新明解よりもさらに細かい情報がある三国。

 

  1自分の父を、敬意と親しみをこめて呼ぶことば。〔家族が子どもの父を、また、
   父が自分自身をさしても言う。義父のことも言う〕「ー(になついた)子」
   [区別]改まった場で自分の父を人に言うときは、「お父さん」は子どもっぽく、
   「父」が礼儀正しい。改まりすぎるのをきらって「父親」と言う人もいるが、
   他人のような呼び方でもある。(男性は)親しい人の前では「おやじ」とも。
   [表記]義父は「お義父さん」とも。
  2<相手/他人>の父を尊敬して言うことば。「ーによろしく」
  3子どものいる男性をさすことば。「最近のーたち」
  4動物の父。「ーネコ」
  ▽とうさん。(お)とうちゃん〔俗〕。〔「(お)とうさま」は、より敬意の高い
   言い方〕(⇔お母さん)                      三国  

 

最初の、〔家族が子どもの父を、また、父が自分自身をさしても言う。義父のことも言う〕というところですね。
おばあちゃんが孫に、「お父さんに聞いてごらん」などと言う場合や、「お父さんが教えてあげる」などと父親自身が言う場合があるのです。「義父」のことまで配慮しています。
また、「父」との使い分けに関しては、

  改まった場で自分の父を人に言うときは、「お父さん」は子どもっぽく、「父」が
  礼儀正しい。

「改まった場」と限定していて、新明解の「親しい間柄では」と対応しています。

 

次は、用例の詳しい辞書2つ。

 

 {明治末期以後、「お母さん」とともに国定教科書にとりあげられ、一般化した語}
  子供が自分の父親を敬い親しんで、それに呼びかけるとき、また指示するときに
  用いる語。〔子供以外の人が父親の立場にある人を敬い親しんで、それに呼びかけ
  るとき、また指示するときにも使うことができる。また、父親が子供に対して
  自らをさしていうこともある〕
  [参]口語では、父親の意を表す類語の中で、最も標準的な言い方とされる。自分の
  父親を指して、対外的に用いるときは、「父」がより標準的な言い方とされる。
  「(子が父親に)ー、お願いがあります」「(子が)私はーが大好きよ」「(子の
  友達が)彼女のーはとっても優しい人よ」「(妻が夫に、母がその息子に)ー、
  お食事ですよ」「(父が子に)ーの若いころはもっと勉強したものだ」 
  [類]お父さま。父さん。父ちゃん。おとっつぁん。パパ。父。父上。おやじ(さん)。
  [対]お母さん。                      学研大

 

  (明治末期以後、国定教科書により、それまでの「おとっさん」などに代わって
  広く一般に用いられるようになった語。⇔お母さん)
  1ア 子が自分の父親を敬い親しんで、呼びかけるときに用いる語。[例]お父さん、
   遊んで。イ 子が家族内で話すとき、父親をさしていう語。[例]お母さん、
   お父さんは? ◆子が他人に対し自分の父親をさしていうときは、敬称を
   除いて「ちち(父)」というのが礼儀とされたが、現在は子供の言い方では、
   「お父さん」ということも多い。ウ 子のいる家庭で、子以外の者が、父親の
   役割にある人を敬い親しんで呼びかけたり、その人をさしていったりする語。
   [例]お父さん、先に寝ますよ/お父さんはおまえが心配なのよ。エ 父自身が
   子に対して、自らをさしていう語。[例]お父さんに貸してごらん。
  2相手や他人の父親を敬い親しんでいう語。[例]お父さんによろしく。/A君の
   お父さんはプロ野球の選手です。
  ◆改まった言い方で、「お父さま」が用いられることもある。 →「父」の<類語>
                             小学館日本語新 
  
適切な例文をよくあげてあります。

学研大の「(妻が夫に、母がその息子に)ー、お食事ですよ」という例は、ちょっと時代の違いを感じてしまうのですが、これは私の家庭がそういう家庭ではなかったということでしょうか。

小学館日本語新には、「「父」の<類語>」という一覧表があり、多くの言い方が整理されています。こういう、日本語のもっとも基本的な語をしっかり解説しようという態度が表れているのだと思います。

 

親類・親戚

久しぶりに。

「親類」と「親戚」は、その指すもの、つまり意味は同じだと言っていいと思いますが、文体的にどう違うのか。国語辞典によって意見が分かれます。

 

[1]意味は同じだと言う辞典。

  親類  1親戚しんせき。
      2よく似たもの。同類のもの。「カレイとヒラメは━だ」 

  親戚 血縁関係や婚姻関係によってつながっている人々。親類。   明鏡 

  親類 おじ・おば、いとこなどの、血のつながった<人/人々>。親族。親戚。
     みより。 

  親戚 1親類。2同類。「ポトフはおでんの-」       三国

  親類 1血縁や婚姻などによる、つながりの関係がある人。身内。血族・姻族の
      総称。「あの人はぼくの-筋に当たる」
     2比喩的に、同類と見たもの。「梅の-の桜」

  親戚 親類。みうち。               岩波

 

どの辞書も「親類」は「親戚」で、「親戚」は「親類」だとしています。

それでも、多少の違いはあります。

まず、比喩的な「同類」のものも言えるのは「親類」だとする明鏡に対して、三国は「親戚」のほうに「同類」の意味があるとします。岩波は、はっきりしませんが、両方言えるということでしょうか。

私も、両方言えるんじゃないかと思います。

そして、その「同類」の範囲ですが、動植物(系統樹上、確かに親類と言えるでしょう)を例にしている明鏡と岩波に対して、三国は「ポトフとおでん」という意外な組み合わせを出しています。似たようなものだ、というのはそうだとしても、親戚というより他人の空似のようにも思えますが。まあ、いいんでしょうか。

 

[2](文体的に)違いがあるとする辞典。

 2-a 「親戚」は「親類」の「改まった・硬い」表現だとする辞典。

  親類 1おじ・おばや いとこや おい・めいなどの血縁関係や婚姻関係でつながりが
      ある人で、別の世帯に属する人。親戚(シンセキ)。「遠くの-より近くの
      他人/-縁者」 
     2〔生物の世界で〕同類だと見なされるもの。「ネコはトラ(カキツバタ
      アヤメ)の-だ」
  親戚 「親類」のやや改まった表現。       新明解

(以下、違いに関する部分だけ引用します。)

  親戚  「親類」のやや改まった言い方。     講談社類語

  「親類」「親戚」は大差ないが、「親戚」のほうがやや硬い言い方。
                              小学館日本語新

 

新明解の「別の世帯に属する人」という指摘は重要です。「血縁関係」があるというだけなら、例えば兄弟も含まれてしまいます。「家族」は別にしないといけません。こういうところ、新明解は注意深いです。

以上の辞書の、「親類」のほうが一般的な言葉だというのは、私の感覚と同じです。私はずっとそう思ってきました。

 

2-b いや、「親類」のほうが「やや古い・硬い」言い方だとする辞典。

  親類 「親戚」のやや古い感じの言い方。  例解新九版  

        「親戚」のやや硬い表現。      新明解類語

 

これは意外でした。これはこの編集者たちの感覚なのか、何らかの資料に基づいているのか。(私の感覚も、何の根拠もないのですが。)

同じ「新明解」の名前を付けていても、国語辞典と類語辞典で違うというのは問題ですね。よくあることですが。

 

梅雨・夏・初夏

暖かくなってきました。春です。岩波国語辞典で「春」を見ると、

 

  春 冬の次の季節。立春から立夏の前日まで。日本では普通三・四・五の三か月。
    (以下略)   岩波

 

春は「日本では普通三・四・五の三か月」ということになっていて、その後の夏が「六・七・八」の三か月。

 

  夏 春の次の季節。立夏から立秋の前日まで。日本では普通六・七・八の三か月。
    (以下略)   岩波

 

以下、秋・冬も同様で、それぞれだいたい3か月。とまあ、そう思って何十年生きてきたのですが、ふと、では「梅雨(つゆ/ばいう)」はどうなるんだろうな、と思いました。あれは一つの「季節」なんだろうか、と。

 

  梅雨 六月から七月中旬にわたって日本や長江沿岸に生じる雨季。その時の雨。
     つゆ。さみだれ。(略)   岩波

 

岩波では「梅雨」は「雨季」なんですね。(岩波は「ばいう」の項で説明しています。「つゆ」のほうに説明のある辞書もあります。以下、その違いは気にしません。)

 

  雨季 その地方で、一年のうちで最も雨の降り続く季節。⇔乾季   岩波

 

「雨季」は当然「季節」です。では、「季節」とは。

 

  季節 四季のおりおり。時節。シーズン。「―外れの雪」  岩波

 

「季節」は「四季」です。あれ?

 

  四季 一年の間に移り行く春・夏・秋・冬の四つの季節。「―折々の眺め」 岩波

 

「梅雨」または「雨季」、どちらも「四季」ではありませんから、岩波によると「季節」ではないことになります。

でもまあ、「六月から七月中旬」ですから、「六・七・八の三か月」である夏の一部ということですか。夏の一部が「梅雨」という「雨季」である、と。一つの「季節」であるような、ないような…。

三省堂国語辞典ではどうでしょうか。

 

    梅雨 六月上旬から七月中旬ごろまで〔=旧暦五月〕、雨が続いてしめっぽく
     なる季節。さみだれ。ばいう。「-時・-があける」   三国

 

三国も「季節」と言っていますね。

 

  季節 気象の変化に応じて一年をいくつかに分けた期間。(以下略)  三国

 

上の、「季節」を「四季」に限定してしまう岩波の書き方はちょっとまずいと思います。この三国の書き方のほうがいいでしょう。いつも暑い熱帯や、「雨季/乾季」という地方もあるでしょうし。

三国も「夏」は「だいたい六・七・八月」としていますので、「梅雨」は「夏」の一部で、「春・(梅雨)夏・秋・冬」ということになるのでしょう。夏に含まれてしまう、もう一つの短い季節?

 

新明解は「季節」ということばを使いません。「梅雨」とは「長雨」のことです。

 

  梅雨 六月から七月上旬にかけて、北海道を除く日本各地に続く長雨。つゆ。
     さみだれ。   新明解

 

現代例解は「時期」とします。「季節」ではない。

 

  梅雨 六月前後の雨や曇りの日が多い時期。また、その時期の長雨。ばいう。
     「梅雨に入る」「梅雨が明ける」   現代例解

 

おや、「六月前後」ですね。五月も?

日本列島は南北に長いので、梅雨の始まりは地方によって違う、ということもあります。新明解類語辞典は、なかなか詳しいです。

 

  梅雨 五月中旬(沖縄県)から六月中旬(東北南部)に降り始め、約一か月半
     降り続く雨(の時期)。(略)   新明解類語

 

なるほど。沖縄と東北南部では始まりが1か月違うのですね。
まあ、日本の季節の話をするときに、沖縄(と北海道)を例外としても、沖縄の人は怒らないでしょうから、6月からと言っている辞書が悪いとは思いません。

以上、大したことではありませんが、私は、梅雨を一つの「季節」であるかのようには言わないほうがいいだろうと思います。「四季」という分け方との関係が不明確になってしまいますから。
新明解(類語)や現代例解の書き方がいいと思います。

 

さて、以上は前置きのようなものでして、私の「梅雨」に関するもう一つの疑問、考えてみたいことは、「梅雨」と「初夏・夏」の関係です。

 

  初夏 夏の初め。   新明解
 
  夏 つゆで始まる暑い季節。草木が茂り、イネが伸び成熟したりする。六・七・八の
    三か月。   新明解

 

新明解によると、「初夏」とは「夏の初め」である。そして、「夏」は「つゆで始まる」のです。そうすると、「初夏」は「つゆ」になってしまいそうです。
これはちょっとまずいんじゃないか。

 

  初夏 夏のはじめ。六月ごろ。   三国

 

三国の「梅雨」は「六月上旬から七月中旬ごろまで」でした。やっぱり、「初夏=梅雨」になってしまいます。どうもうまくない。

ちょっとここで心配になってくるのですが、「梅雨」を「初夏」とは言いませんよね。「初夏」って言うと、春の終わりあたりから日差しが強くなってきて、緑も濃くなり、ちょっと暑さを感じるようになる時期ですよね。

お、夏っぽいな、と感じ始め、もっと暑くなるのかと思って半袖かなんかにすると、一転、雨の日が続くようになり、「梅雨」になるのですよね。「つゆざむ」なんてことばもある。

 

  梅雨寒 つゆのころに低温が続き、うすら寒いこと。「-で体調をくずす」
                                 学研現代

 

岩波の「初夏」はどうか。

 

  初夏 夏の初め。五月から六月はじめにかけてのころ。   岩波

 

おや、「五月から六月はじめ」です。岩波の「梅雨」は「六月から七月中旬」ですから、その前です。
よかった。

ん? しかし、夏は「日本では普通六・七・八の三か月」(岩波)のはずです。それで、「初夏」は「五月から」? ちょっとずれがありませんか?

三国は「初夏」を「六月ごろ」としていますが、五月を含める辞書がけっこうあります。

 

  初夏 夏の初め。五月から六月にかけてのころ。  現代例解

     夏の初め。五、六月ごろをいう。      例解新 

     夏のはじめ。はつなつ。五、六月ごろ。   新選

     夏の初め。五月ごろ。           集英社

 

集英社に至っては五月限定です。しかし、どの辞書も「夏」は「六・七・八月」です。集英社も。

 

  夏 わが国では六月から八月まで。   集英社

 

ふむ。いったいどういうことか。              

どうも、辞書編集者の皆さんは、この辺の(小さな)矛盾は気にしていないようです。「夏」は六月からとしながら、「初夏」は五月からだったりする。あるいは、文字通り「夏の初め」というのはいいのですが、それと「梅雨」の時期との関係をあまり考えていない。

どう書いたらいいんでしょうねえ。「初夏」と「梅雨」と「夏」と。

 

日曜・週

軽い話です。

「日曜」について、他の辞書と違うことを書いている辞書があります。
まず一般的なほうから。明鏡国語辞典

 

  日曜 週の第一日。土曜の次の日。日曜日。官公庁・一般企業・学校などでは
     休日とする。   明鏡

 

そういうことだよね、と思います。

 

  日曜 曜日の一つ。週の第一日で、役所・学校などが休日とする。「―日」「―大
     工」「―画家」   岩波

 

岩波もほぼ同じ。

 

  日曜 一週の第一日。日曜日 。週の始まりを月曜とすれば、一週の週末。「-画家・
    -大工〔=日曜などの休日に、自分の家の大工仕事をすること(人)〕」 新明解

 

新明解はちょっと違って、「一週の第一日」としながらも、「週の始まりを月曜とすれば、一週の週末」とも書いています。はて。

「週」または「一週」とはどこから始まるのかについて、考え方の違いがあるのです。

 

  週 日曜から土曜までの七日間を単位として区切った期間。一週間。  明鏡

 

明鏡は日曜から始まるとします。だから、「週の第一日」。

 

  週 七日間を一めぐりとする時間の単位。   岩波

 

岩波ははっきり書いていませんが、上の「日曜」から考えれば、明鏡と同じでしょう。

新明解は、別の「見方」を紹介しています。

 

  一週 日曜日に始まり土曜日に至るまでの七日間をまとめて呼ぶ呼び方。〔月曜日
    に始まり日曜日に至るまでとする見方もある〕   新明解

 

三国は違う書き方をします。

 

  一週 ①月曜日から日曜日(または、日曜日から土曜日)までの七日間。  三国

 

「月曜日から日曜日」を先に書き、つまり主とし、「または、日曜日から土曜日」と書いています。

では、「日曜」は。

 

  日曜 一週の最後の日。六日間働いたあとの休息の日。土曜の次。日曜日。
    〔カレンダーは、ふつう日曜から始まる。〕  三国

 

「一週の最後の日」なんですね。しかも、「六日間働いたあとの休息の日」だそうです。三国の編集者はクリスチャンなのかしら。(聖書の神様の話。「天地創造」を六日間で行い、次の日は休息した。)

まあ、確かに、最初に休んで、それから何日も働くのと、働いた後に休みがあるのとどっちが心理的にいいかというと、私は、後に休みがあったほうがいいですね。「朝三暮四」みたいな話ですが。(そもそも、週休二日じゃないのはいいんでしょうか。三省堂は週六日出勤?)

「日曜」のかっこの中は面白いですね。「カレンダーは、ふつう日曜から始まる」ことと、日曜が「一週の最後の日」であることの関係はどうなっているのか。そこは説明せず、カレンダーに代表される一般の意識も一応紹介するけれど、「日曜」が「一週の最後の日」であることは譲らない。

前に、「2017-11-04  ウイーク・週」という記事を書いたことがあります。その時も三国の「一週」の解釈が他と違うことに気づいていたのですが、あまり問題にしませんでした。まあ、大したことではない、と。「日曜」は引いてみませんでした。

 

しかし、考えてみれば、これはけっこう影響の大きいことではないかと思います。
例えば、日曜日から始まるある月の4日、水曜日に、「今週の日曜日」あるいは「来週の日曜日」と言った場合、それは何日を指すのか。

     日  月  火  水  木  金  土
     1  2  3   [4]   5  6  7
     8  9  10  11  12  13  14
     15

このカレンダーのように「週」を考えれば、「今週の日曜日」は1日になりますが、三国派、「一週」は月曜から始まり、日曜はその最後の日と考える人にとっては、8日になるんじゃないか。

そして、「来週の日曜日」は15日になる…。

これ、人と会う約束をする時なんか、かなりまずいことになりそうで。
例えば恋人とデートの約束、あるいは遠出の約束をする時に、「来週の日曜日」というだけで日にちを確認しないと、相手が「三国派」だった場合、8日か15日かで大きな誤解につながる…。

「いや、8日でしょ」「何言ってんの。来週の日曜日って言ったら、15日に決まってるでしょ。」というような争いになってはいけない。

 

三国はいつからこういう解釈だったのだろうと思って、持っている古い版を見てみました。

第二版。

 

  日曜 一週のはじめの日。土曜の次。日曜日。   三国第二版

 

おお、「一週のはじめの日」です! この時(1980年)はこう考えていた。

私は残念ながら第三版を持っていないので、次は第四版です。

 

  日曜 一週の最後の日。六日間はたらいたあとの、休息の日。土曜の次。日曜日。
    〔カレンダーは、ふつう日曜から始まる。〕  三国第四版(1992)

 

この第四版は、見坊豪紀が主幹であった最後の版ですね。見坊が隅々まで見ているでしょうから、これは見坊の考えでしょう。なぜ、変えたのか。どうしてそう考えたのか。
いつ変わったかはそれほど重要でないかもしれませんが、第三版も見てみたいですね。

 

「日曜日が週の第一日」派の弱点は、「週末」とか「週明け」という言い方では、日曜が「週末」に含まれ、「週明け」は月曜であることでしょう。

 

  週末 一週間の終わり。ウイークエンド。〔ふつう土曜・日曜をさす〕  三国

  週末 一週間の終わりごろ。金曜・土曜から日曜にかけてをいう。ウイーク
     エンド。                           明鏡

  週末 その週の終り。ウイークエンド。〔日曜から週が始まると考えた場合も、
    月曜から週が始まると考えた場合も、土曜の午後もしくは金曜の夕方から
    日曜にかけての仕事休みを指す〕「-旅行」→週初・週央      新明解 

 

  週明け 新しい週が始まったとき。〔通常は月曜日〕          三国

  週明け 新しい週が始まること。ふつう、月曜日をいう。「━に赴任する」 明鏡

  週明け 〔勤め人にとって〕その週の仕事が始まる月曜日(になること)。
      「-の外国為替市場」                    新明解

 

新明解の注記はどちらもなかなかていねいです。

しかし、この場合の「週」は、「労働する日」を中心にした考え方でしょう。まさにキリスト教の神様のように。「週明け」は言うまでもなく、「週末」も「一週間の終わりのほう」というよりも、週の中核をなす部分が終わって、そのあとの残った部分、という感じです。

そうではなくて、一週間全体をまずとらえて、さてどの日から始まるとするか、と考え、束縛される労働の日ではなく、自由に行動できる日曜をまず重要な日とし、最初に置く、という考え方。あとは暗い労働の日々…。(土曜日も休みになるのはずっと後の話。)

ふーむ。どうも話の筋立てにちょっと無理がありますかねえ。
「働くこと」を人間としての重要な営為と考えるのでなく、できれば避けたい事柄とみなしている私の基本的な態度に影響されているような。

 

でも、そもそもカレンダーで日曜を最初に置くのはなぜなんでしょうね。いつごろからの習慣なのか。

前の記事では、英英辞典の次のような説明を引用しました。

 

    week   a period of seven days and nights, usually mesured in Britain from Monday to
      Sunday and in the US from Sunday to Saturday 
    weekend   Saturday and Sunday, especially considered as time when you do not work 
                          (LDCE 4th. ed.)
 
「week」は、イギリスとアメリカで違うと言っています。

しかし、イギリスのカレンダーは日曜が終わりにあるのでしょうか。そうではないとすると、さて。

何にせよ、三国が他の辞書とははっきり違った解説をしているのは興味深いことです。そうする理由は何なのでしょうか。日本人は「日曜」を週の最後の日だと考えているのだという、しっかりした根拠を持っているのでしょうか。(つまりそれは、他の辞書の解説は間違っているのだという強い主張にもなるわけです。)

三国と、新明解その他の辞書を作っている三省堂編集部の人は、どう考えているのでしょうか。

 

「午後1時」:時刻の言い方

誰でも知っているような表現をどうきちんと説明するか。

時刻の言い方というものを考えてみます。

三省堂国語辞典から。

 

  じ(時) 一昼夜の二十四分の一を単位としてしめす、時刻のしめし方。「午後一-」
                                    三国

 

何も品詞の指示がないということは、名詞だということですね。「時じ」は名詞か。

そのことはまたあとで問題にするとして、この語釈と用例について、ゆっくり考えてみます。

まず、「一昼夜」の「昼夜」とは、言うまでもなく「ひるとよる」ですね。

 

  ちゅうや (昼夜)  ひるとよる。(略)  三国

 

見るまでもないとは思ったのですが、なんとなく「昼」の項を見て、おや?と思いました。

 

  昼 1朝と夕方との間。太陽が高くなっているころ。(略)2正午。(略) 三国

 

「ひる」に「朝と夕方との間」という使い方があることは確かだとしても、「ひるとよる」という場合は違うでしょう。そっちは書いてありません。

 

  夜 太陽がしずんで暗くなっている間。日の入りから日の出までの間。よ。
   (略)                              三国

 

「よる」のほうは「日の入りから日の出までの間」なのですから、

 

  昼 日の出から日の入りまでの間。⇔夜よる。また特に、そのうちの朝・夕を除き、
    太陽が高く上がっている間。   岩波

 

こう書かないとまずいでしょう。

三国としたことが、どうしたのか。

 

  としたことが [連]→私としたことが〔「私」の[句]〕  三国

  私としたことが [句]よく気をつけているはずの私なのに〔つい<失敗/考えの
    足りないこと>をしてしまった〕。「-、まったく情けない」〔「ぼくとし
    たことが」などの形でも使う。まれに「あなたとしたことが」などとも言う〕
                               三国

 

「としたことが」を項目としてたてるというのはいいですね。

「あなた」に使うのは「まれに」だそうです。上の「三国としたことが」という使い方はよくないでしょうか。

 

元に戻って、「昼」の話。「昼間」を見ると、
 
  昼間 朝から夕方まで。日中。   三国

 

これなら「朝」と「夕方」も含まれます。「昼」はなぜ「朝と夕方との間」になってしまったのか。

第七版を見てみたら、

 

  昼 1朝から夕方までの間。(略)  三国第七版

 

でした。逆に、「太陽が高くなっているころ」の用法はありませんでした。

第八版への改訂の際にもう一つの用法を書き加えたつもりが、より重要な用法を消してしまったのでしょう。なんとも。まあ、こういうこともあります。

 

で、「一昼夜」というのはつまり一日のことですから、その「二十四分の一」とはつまり一時間です。

 

  時間 (略)3「時間2」の単位。一時間は一日の二十四分の一。  三国

 

「時間」とは何か、と言い出すとかなり難しい話になってしまうので、そこはいいことにします。(Wikipediaで「時間」を見ると、いろいろ書いてあって面白いです。)

「単位」というのもよくわからない概念(私には)ですので、

 

  単位 長さ・面積・質量・時間などをはかるときの基準として定められたもの。
    メートル・アール・グラム・秒など。  明鏡

 

でいいことにします。新明解はもっと詳しく書いています。 

 

ここまでで、初めの「時じ」の語釈は、「一時間を単位としてしめす、時刻のしめし方」ということになります。

 

次は「時刻」ですが、

 

  時刻 時間のある決まったところ。〔時間をものさしにたとえたとき、目もりに
    あたるところ〕「到着-」   三国

 

この「決まったところ」という言い方は、どうもよくわかりません。「ある一点」ということでしょうか。「到着時刻」と言うと、確かに決まっているのかもしれませんが、それ以外の時間もすべて「時刻」と言えるのじゃないか。

「ものさし」の「目もり」というたとえも、どうもピンと来ません。「目もり」以外のところもすべて「時刻」になりうるのでは。「午後1時0.00001秒」も「時刻」でしょう。それも「目もり」の一つだと言うなら、「ものさし」のたとえはうまくないでしょう。

 

  時刻 時間の流れの中の瞬間的な一点。「発車━」    明鏡

  時刻 時の流れの、ある一瞬。▽時の2点間の長さをさす「時間」に対し、
    その1点を言う。              岩波


しかし、これだけだと、

  「今の時刻は?」「午後一時です」

という問答の意味がわかりません。「今の、時の流れのある一瞬は?」ってねえ。

他の辞書も(私の見た範囲では)だいたい同じような書き方ですが、新明解は他の辞書と違う書き方をしています。

 

  時刻 時間の流れの中の特定の時点を、「…時…分…秒」と単位に基づいて表わ
    したもの。「腕時計を正確な-に合わせる/(ただいまの)-は五時半です/
    列車の到着-を調べる」〔それぞれの時代や社会における暦法・時法に従って
    単位(名)が異なる〕    新明解

 

「特定の時点」というだけでなく、それを「「…時…分…秒」と単位に基づいて表わしたもの」としています。なるほど。こういうところは、新明解、いいですね。

これだと、上の「今の時刻は?」「午後一時です」という問答が成り立ちます。

 

さて、では「午後一時」とは。「午後」はわかるものとします。「一日」を午前と午後に分ける。その「一日」の決め方と、午前・午後の分け方の話は省略します。

やっと、最初の「時じ」の話にたどり着きました。「時」とは、「一時間を単位としてしめす、時刻のしめし方」ということですが、具体的にどのようにして「一時」という示し方が成り立つのか、ということは説明されません。(新明解でも、同じです。)

そんな当たり前のことはわざわざ説明しなくていい、という考えなのでしょう。
まあ、そうなのですが、そういう辞書が、

 

  右 横に<広がる/並ぶ>もののうち、一方のがわをさすことば。「一」の字
    では、書き終わりのほう。「リ」の字では、線の長いほう。  三国

 

などとわかりきったことばをいろいろ苦労して説明したりするのです。

 

他の辞書の「時じ」。明鏡・新明解・岩波を見ます。

 

  時(造)1とき。時間。時刻。「-差・-速」「瞬-・日-」「九-・午前六-・
    十八-」(略)   明鏡

 

造語成分としています。でも「九時」以下の「時」はむしろ接尾語ではないでしょうか。数字につく、という定まった用法なのですから。

造語成分として、「時・時間・時刻」の意味になる。それはいいとして、接尾語としてどのように時刻を表すのかという説明が必要でしょう。

最初の、三国の名詞扱いは不適当だと思います。

 

  (造語成分)【時】とき。〔時刻をも表わす。例、「四時半」〕「時間・時刻・時日・
          時報・時差・四(シ)時・一時・同時」      新明解

 

新明解も造語成分とします。「時刻をも表す」というだけで、その表し方は説明しません。なお、「四(シ)時・一時」は時刻の例ではありません。

 

  じ〖時〗ジ・シ・とき ①月日のうつりゆき。その間の区切り。とき。
    「時間・時刻・時報・時日・時節・時候・時差・四時しじ・一時・
     寸時・同時・十二時・片時へんじ・へんし」   岩波

 

岩波では「漢字母項目」として扱われています。造語成分とどう違うのかはわかりませんが、「-じ」という接尾語としては認めていないようです。時刻を示す用法は「十二時」という例をあげるのみですませています。
はっきり言えば、項目とすべきものを落としています。

 

私が見た中で、「時じ」について他と違った説明をしていたのは講談社類語辞典です。

 

  時  時刻がどの時点であるかを表す語。「午後3~」「20~45分」◇1日を
    24等分するか、または午前と午後に分けて12等分ずつし、そのそれぞれ
    の始点の時刻を示す数字に付ける。  講談社類語

 

「そのそれぞれの始点の時刻を示す数字に付ける」というところ、なかなか工夫しています。(「語」と言っていますね。)

うるさく言えば、「そのそれぞれの始点の時刻を示す数字」はどのように決まるのか、がわかりません。最初を「0時」とし、そこから1時間たった時刻が「1時」で、以下順に決まるわけですが。

初めに戻って、三国の

 

  じ(時) 一昼夜の二十四分の一を単位としてしめす、時刻のしめし方。「午後一-」
                                    三国

 

に説明を付け加えるとすると、「一昼夜の二十四分の一を単位(1時間)~」として、
  
  一日を午前と午後に分けてそれぞれ12等分し、その始点を午前0時、午後0時
  とする。そこから1時間後を午前1時、午後1時とし、それ以後1時間ごとに
  2時、3時…とする。

ということになるでしょうか。まあ、わかりきったことをくどくどと、となりますが、これが「-時」という表現が示していることです。

 

新明解が言うように、時刻を表すのは「時」だけではなく、「分」も「秒」も同じ機能を持っているのですが、講談社類語も「分」については、

 

  分 時間または時刻の単位。1分は1時間の60分の1。◇「分」は時間・時刻
    どちらにも使うが、「分間」は時間のみに使う。   講談社類語

 

「そのそれぞれの始点の時刻を示す数字に付ける」という説明は繰り返していません。

(なお、時刻の話ではありませんが、「分間」の使い方の注記は他の辞書にはないようです。その点でも、講談社類語の執筆者はよく考えていると言えます。)

 

三国は、

 

  分 時間の単位。一時間の六十分の一。「二時五-〔時刻〕・五-で行ける〔時間〕
   (略)                          三国

 

同じ「五分」でも、その違いは〔時刻〕〔時間〕というかっこの中の注記でわかるでしょ、ということのようです。
この辺は、いかにも三国らしいところです。十分な説明とは言えませんが、他の辞書に比べればずっといいと思います。

 

  分 時間を表す単位。一分は一時間の六〇分の一。「歩いて五-の距離」  明鏡

 

明鏡は時刻も表すことを書き忘れているようです。

 

  分 「時間3」の単位で、一時間の六十分の一を表す。〔記号min〕。〔六十秒に
    等しい。また、時刻を表す際にも用いられる。例、「午後二時五十-プン」〕
                                  新明解

  分 時間の単位。六十分で一時間。  岩波

 

岩波も時刻のことは忘れています。新明解も時刻の表し方の説明はしません。

 

「秒」について各辞書を見るのは省略しますが、新明解の「秒」が面白いので紹介しておきます。

 

  秒 国際単位系における「時間」の基本単位で、一分の六十分の一を表わす
    〔記号s〕。〔時刻を表わす際にも用いられる。例、「午後七時十分十五-」。
    平均太陽日を基準とし その八六四〇〇=六〇×六〇×二四分の一を秒と
    する この定義では、秒の長さが時と共にわずかずつ変化することが判明
    したので、国際単位系では一九六七年、セシウム一三三という原子の基底
    状態における二つの超微細準位⦅≒エネルギーの値が近接した定常状態の
    うちで、その値の違いが原子核に起因するもの⦆の間の遷移に対応する
    放射の一周期の時間間隔の九一億九二六三万一七七〇倍、という定義が
    採用された〕   新明解

 

こういう、どう見ても必要のない、詳しいことを書きたがるのが新明解です。(ほめている?)

ついでに岩波も。

 

  秒 時間の単位。国際単位系の基本単位の一つ。記号s。もと地球の公転により
    定義されたが、現在では特定の光波の振動の周期によって定められる。 岩波

 

こちらのほうがあっさりしていていいですね。ただ、「特定の光波の振動の周期」というのが新明解の言っていることと同じなのかどうかは私にはわかりません。

Wikipediaの「秒」を見ると、いろいろ書いてありますが、私には理解不能です。

 

最後に、「時じ」を調べている中で、これはだめだな、と思った辞書を2冊。

 

  時 時間の単位。一日の二四分の一。六〇分。[例]午後六時/今、何時ですか。
                         小学館日本語新

 

「六〇分」は「一時間」です。「午後六時」は「午後三百六十分」?

同じ小学館の現代例解には「時じ」という項目はありません。巻末の「漢字表」に

 

  時 時間の単位。/午後六時   現代例解 漢字表から

 

とあり、小学館日本語新と同じ考え方のようです。

この2冊の編集者は「時間」と「時刻」の違いがわかっていません。

小学館日本語新は、いい辞書だと思っていたのですが、意外なポカもあるようです。

 

結局、一般の国語辞典には、「午後一時」の意味をきちんと説明したものはありませんでした。わかりきったことだからいい、と考えればいいのか。どうでしょうか。

 

夕方・夕暮れ・日暮れ

「夕方・夕暮れ・日暮れ」の三語はどう違うのか。ほぼ同じと言っていいか。国語辞典を見てみます。

新明解国語辞典から。

 

  夕方 日が西に傾いてから、あたりが暗くなるまでの間。夕刻。  新明解

 

「日が西に傾いてから」です。「暗くなる」というのは、どの程度をいうのか。

次に、明鏡国語辞典

 

  夕方 日が沈むころから夜になるまでの間。夕刻。夕暮れ。    明鏡

 

「日が沈むころから」で、新明解よりちょっと遅いですね。「あたりが暗くなる」のと「夜になる」は同じと言っていいでしょうか。

しかし、この明鏡の言い方だと、「日が沈む」のと「夜になる」のは違うことで、その間に「夕方」があることになりますね。ん? では、「夜」とは?

 

  夜 日没から日の出までの間。太陽が沈んで暗くなっている間。よ。  明鏡。

 

やっぱり、「日が沈」んだら、「夜」ですよね。うーん。どういうことなんでしょうか。

これは「夜」をどう定義するかという問題でもあるのでしょう。

日没で昼と夜を分けるというのはごく普通の考え方でしょう。しかし、そうすると「夕方」はどこにあるのか。日没の前後、「真昼」ほど明るくなく、本当の「夜」ほどは暗くない、その時間あたり。一部は「昼」に属し、一部は「日没後」、つまり夜に属す。そういうことなんじゃないでしょうか。

そう考えるなら、「夕方」を「夜になるまでの間」と言ってしまうと、混乱のもとになりかねない。(その「夜」は、「すっかり暗いとき」でしょう。日没きっかりから始まるわけではない。)

「あたりが(完全に)暗くなるまでの間」のほうがいいのでは。

 

三省堂国語辞典

 

  夕方 日が暮れ始めてから夜になるまでのあいだ。ゆう。〔気象では十五時ごろ
     から十八時ごろまで〕(⇔朝方)  三国

 

「日が暮れ始めてから」というのは、「日が西に傾いてから」と同じと言っていいかどうか。「沈む」よりは前ですね。(「気象では」ずいぶん早いですね。3時ごろからですよ。)

三国も「夜になるまでの」としています。この「夜」は日没からなのか。日が沈んでもまだ空が(多少)明るいとき、それは「夕方」ではないのか。

 

岩波国語辞典。

 

  夕方 日のくれがた。夕刻。⇔朝方。  岩波

 

「日のくれがた」というのは、「日が暮れる」ころ、と考えると、

 

  暮れる ①日が沈んで暗くなる。夜に入る。   岩波

 

「日が沈んで暗くなる」ころ、となり、多少遅い感じですか。あんまりはっきりしません。


次は、「夕暮れ」と「日暮れ」をまとめて。

 

  夕暮れ 日が沈み、あたりが一面に薄暗くなるころ。「-どき」 

  日暮れ 夕暮れ。夕方。⇔夜明け               新明解

 

「夕方」は「日が西に傾いてから」でしたから、「夕暮れ」の「日が沈み」のほうが少し遅いようです。でも、「日暮れ」は「夕暮れ。夕方」と同じ。ふむ。結局、どうなんでしょうか。

また、「夕方」の「暗くなるまで」と「夕暮れ」の「薄暗くなるころ」を比べると、「夕方」のほうが遅くまで続くようです。「夕方」のほうが範囲が広いということでしょうか。
       
  夕暮れ 日の暮れる頃。日暮れ。「━時」
  日暮れ 太陽の沈むころ。夕暮れ。夕方。    明鏡                           

 

明鏡も「夕暮れ」と「日暮れ」は同じで、つまり「日の暮れる頃」と「太陽の沈むころ」は同じ頃を言っているのでしょう。そして、「日暮れ」は「夕方」でもある。まだ「夜」ではない。
       
  夕暮れ 日がおちて急に暗くなるころ(の時刻)。日暮れ。
  日暮れ 太陽がしずんで暗くなりかけるとき。「-方がた」(⇔夜明け)   三国

 

「急に暗くなる」と「暗くなりかける」。「日暮れ」のほうが早いのでしょうか。でも、「夕暮れ」は「日暮れ」と同じらしい。

一方、「夕方」は「夜になるまで」なので、新明解と同じく「夕方」のほうが範囲が広いようです。

 

  夕暮(れ) 日ぐれ。たそがれ。「―時」
  日暮(れ) 夕暮。夕方。         岩波

 

岩波は単純明快。みな同じ、ということのようです。でも、「夕暮れ」の語釈(?)に「夕方」はなく、「日暮れ」には「たそがれ」はありません。そこが違い? 「夕方」にあった「夕刻」はどうなったのでしょうか。

 

  夕刻 日ぐれどき。夕方。「―家にもどった」  岩波

 

つくづく、岩波というのはこういう「国語辞典」なのだなあ、と感じます。

一つ一つの語についてじっくり考え、他の類義語と比べた結果、こういう語釈、用例をつけた、という印象をまったく受けません。それぞれ、その場で思いついたことを書いた結果、という印象を受けます。ちょっと言いすぎでしょうか。(他の辞書も同じだ、と言えるのかもしれませんが、なんとなく、岩波には他の辞書との違いを感じます。特に、こういう、「考えるまでもない」日常語の扱いに関して。)

 

さて、結局、これら3語は同じようなものだ、ということになってしまいそうですが、新明解と三国の語釈から感じた、「夕方」は「範囲が広い」のではないか、ということをはっきり書いた辞書があります。小学館日本語新辞典です。

 

  日が沈んだ薄暗いころをいう語として「夕暮れ」「日暮れ」「暮れ方」があり、(略)
  時間的にはいずれもほぼ同じころをさす。「夕方」は時間的な幅がそれらよりやや
  広く、太陽が地平線に近づいているがまた明るさのあるころも含まれる。

                  小学館日本語新「夕方」の項の[類語]から

 

これが正しいかどうかは、実際の使われ方を広く調査する必要がありますが、私の直感ではこんなところかなあ、と思います。

 

「夕暮れ」「日暮れ」は「時間的にはいずれもほぼ同じころをさす」とする小学館日本語新に対して、そうじゃない、という辞書もあります。講談社類語大辞典。

 

  日暮れ 「日の暮れ」の略。「~までに帰ってらっしゃい」⇔夜明け

  日の暮れ 日が暮れるころ。  

  夕暮れ 日暮れからしばらくたって暗くなるころ。「どこから出てくるのか、
      ~にはこうもりがあたりを飛び回った」

  夕方 日没から、灯をともすまでの間。「~の勤行を欠かさない」「~から雨が
     降るそうだ」                講談社類語大 

 

そうでしょうか。「夕暮れ」は「日暮れからしばらくたって暗くなるころ」ですから、「日暮れ」はまだ暗くないはずです。しかし、「日が暮れるころ」ですから、どんどん暗くなっていくはずです。矛盾していないでしょうか。

「夕方」が「日没」の後だというのは初めて聞く説です。「夕方から雨が降る」というとき、日没後の雨? では、「夕立」は日没後に降る雨か。

 

  夕立 夏の夕方に、ざっと降ってやむ雨。「~にあってずぶぬれになった」
                           講談社類語大

 

夏の5時、6時ごろに雨が降っても、まだ「日没」前だから(太陽は見えませんけど)「夕立」とは言えない、と言うのでしょうか。

いや、そもそも「夕日」って、「夕方の太陽」ですよね?

 

  夕日 夕方、沈んでゆく太陽。「~に向かって走る」  講談社類語

 

「日没から灯をともすまでの間」の太陽、って、どう考えても矛盾しています。

 

これらの語に関しては、類語大辞典はどうも変なことになっていると私は思います。
どうしたんでしょうか。編者は本当にこれでいいと思っている?


その他の、これら3語の多少は違うんじゃないかと思われる点をいくつか。

まず、「夕方」がもっともよく使われる日常語であること。(たとえば、幼稚園児が「夕暮れ」「日暮れ」と言ったら、ちょっと驚きます。ちょっと大人ぶって「日暮れだね」などと言うのもかわいいですが。)

岩波によれば「夕刻」も「夕方」も同じですが、「夕刻」は書きことばでしょう。三国は[文]としています。

また、「夕方」は副詞的な使い方がごく自然にできます。「夕方、川原を散歩した」のような。「夕暮れ」も言えるでしょうか。「日暮れ」は無理でしょう。「日暮れに」とするか。

「夕暮れ」と「日暮れ」は、「夕暮れ時」「日暮れ時」という言い方ができます。「夕方時」とは言わないでしょう。「日暮れ方」「夕暮れ方」もある。「夕方方」はない。

「日暮れ」は、「秋、日暮れがだんだん早くなる」と言います。「夕暮れが早くなる」とも言いますが、「日暮れ」のほうが、「一日(昼)の終わり」という感じがして、ぴったりします。「夕方が早くなる」とはあまり言わないでしょう。

こういう、その語が何を指すか、ということ以外の情報、文法・文体的な差とか、複合語形成の違いとかをはっきり示してほしいと思います。

 

今や

三省堂国語辞典の「今や」の項は、どうも説明が足りません。

 

  今や(副)1今(にも)。2今では。「あの男が-一流の学者だ」  三国

 

この1の「語釈」(?)は何だかわかりません。「今や」は「今」または「今にも」と同じだというのでしょうか。もちろん、そういう場合があるのはそうなんでしょうが、それを実際に示すのが用例というものでしょう。それがない。

また、ある場合の「今や」は「今」と解釈すればわかるのだとしても、では、話し手(書き手)はなぜ「今」でなく「今や」をわざわざ選んで使ったのかということがわからないでしょう。それこそが、辞書としていちばん大切なことなんじゃないか。

そして、「今」と「今にも」はこのような形で並べていいものか。この二つははっきり違うでしょう。

「今にも降り出しそうな空」を「今、降り出しそうな空」と言ったら、まるで気が抜けてしまいますし、「今や降り出しそうな空」とも言わないでしょう。それぞれ、意味的にはそう言えそうでも、ぴったりしない。

「今にも」は項目として立てられています。そこにはどう書いてあるか。(「今に」の「追い込み項目」)

 

  今にも(副)あぶなく。まさに。「-落ちそうだ」  三国

 

「今」とはずいぶん違います。この「あぶなく」というのはどういうことなのかわかりません。用例の「今にも落ちそうだ」を「あぶなく」で言い換えると、「あぶなく落ちそうだ」?

 

  あぶなく(副)〔形容詞「危ない」の連用形から〕→危うく[1]

  あやうく(副)〔形容詞「危うい」の連用形から〕1たいへんなことが起こりそう
    だったときに使う。もう少し(のところ)で。あわや。あぶなく。「-落ちる
    ところだった」   三国

 

「あぶなく落ちそうだ」というのは変で、「あやうく」の用例にあるように、「あぶなく落ちるところだった」でしょう。「たいへんなことが起こりそうだったときに使う」というのは、わかりやすい説明ですね。

では、「今や」にこういう使い方があるのでしょうか。「今や落ちそうだ」「今や落ちるところだった」?

やはり、「今や」の1の用法の「解説」(?)が「今(にも)」だけで何の用例もないのが問題の根本ですね。どういう用法なのかまったくわかりません。 

 

三国の「この辞書のきまり」の13「解説文」というところには次のように書いてあります。

 

  この辞書では、解説文〔=意味の説明を中心とする文〕を、「要するにどんな
  意味か」がよく分かるよう、簡潔に書くことに努めます。「ことばを写生する」
  「ことばのたくみな似顔絵をかく」と表現してもいいでしょう。

                        この辞書のきまり p.(13)

 

「要するにどんな意味か」で、「今や」は「今」または「今にも」だと言われても、それで「なるほど」とわかるものでしょうか。

用法2の「今では」のほうも、「では」の持つ意味合いがこれでは伝わりません。なぜ「今では一流の学者だ」と言っているのか。せめて「あの、勉強嫌いだった男が」くらいにして、過去との対比を示さないとはっきりわかりません。

 

新明解国語辞典を見てみましょう。

 

    今や  1今まさにその時を迎えて(迎えようとして)いる様子。「-風前の灯(トモ
     シビ)だ/彼女も-お年頃(ゴロ)だ」
     2昔の状態が信じられないほど、現在はすっかり様子が変わっている様子。
    「-昔日の面影(オモカゲ)は無い/あの使い走りが-大スターだ」   新明解

 

この2は三国の2ですね。「昔日の面影」「あの使い走り」という言い方で、「今では」昔と違うんだ、ということが示されています。

1のほうも、きちんと意味の説明がなされています。用例は「今まさに」で言い換えられるでしょうか。ただの「今」ではないですね。

新明解には用法の1と2に用例が二つずつ、計四例がある(三国は一つだけ)のですが、三国の「今にも」に当たる例はないようです。

 

明鏡はどうでしょうか。
                   
  今や 1現在を特別の時とみなして強調する語。今こそ。「━決起すべき時だ」
     「━春たけなわ」
   2過去と甚だしく異なる現在を強調する語。今では。「━飛ぶ鳥を落とす勢いだ」
   3事態の展開が目前に迫っているさま。今にも。今まさに。「━散らんとする花」
    「や」は強意の助詞。     明鏡

 

明鏡は用法を三つに分けています。新明解の1「その時を迎えて(迎えようとして)」を1と3の二つに分けたと考えればいいでしょうか。「今こそ」と「今にも/今まさに」です。

でも、1の用例「決起すべき時だ」は「今まさに」とも言えそうですね。ふむ。「今こそ」「今まさに」はそれぞれどういうときに使えるのか。

どうやら、もっと用例を集めて、ゆっくり考えたほうがよさそうですね。そんなに簡単な話ではなさそうで。

その辺の問題はともかく、三国の「今にも」は、この「散らんとする花」に当てはまりますね。こういう例を出してほしい。「事態の展開が目前に迫っている」くらいの「解説」もつけて。

 

もう一冊、岩波も見ておきましょう。

 

  今や〘連語〙「いま」を強めて言う語。今では。今こそ。「―一流の画家だ」
    「―決断すべきだ」「―遅し」(待ち望む気持や状態を表す言い方)
    ▽「や」は詠嘆を表す助詞。    岩波

 

おやおや、「「いま」を強めて言う」で済ませてしまうんですか。「強める」「強調する」って、なんにでも言えてしまうんですよね。単に強めるだけなら、

  「ああ、ずいぶん遅くなっちゃった。今や何時?」

とか、

  「早く来い!」「すみません! 今や行きます!」

とか言ってもよさそうですね。しかし、そうは言わない。いくら「強めた」にしても。

明鏡も用法の1と2の説明で「強調する語」と言っていますが、その前に「現在を特別の時とみなして」とか「過去と甚だしく異なる現在を」というふうにより具体的な内容を説明しているんですね。この辺を岩波も見習ってほしいものです。

 

もう一つ、どの辞書にも書いてないのですが、「今や」は日常的な表現ではないということを何らかの形で示してほしいと思います。書きことば、と言ってしまうと、ちょっと違うでしょうか。