ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

たった今

三省堂国語辞典明鏡国語辞典から。

 

  たった今 いましがた。ただいま。「-帰りました」  三国

  たった今 ほんの少し前。いましがた。「━到着したばかりだ」 
       ▽「ただいま」の転。   明鏡

 

三国。「たった今」の「語釈」として「いましがた」を最初にあげるのはどうなんでしょうか。

小学生や中学生は、え? と思うんじゃないでしょうか。たぶん、この語を知らないでしょう。

「いましがた」を引いてみると、

 

  いましがた 今より少し前。いまがた。「つい-出かけました」 三国

 

とあります。なぜ、この「今より少し前」という説明を「たった今」の項に書かないのでしょうか。

明鏡はそのようにしていて、わかりやすいと思います。

また、「ただいま」を引いてみると、

 

  ただいま[1](名・副)1今。「-の時刻は正午です」2今すぐ。「-まいります」
       [2](感)〔話〕外から帰ったときの、身内・仲間へのあいさつ。(略) 三国

 

「今」と「今すぐ」です。「いましがた」とは違います。

そうすると、「たった今」は「今より少し前」と「今」と「今すぐ」の三つの用法があるということでしょうか。それなら、そのように用法を分けてきっちりと、わかりやすく書いてほしいと思います。

 

正直に言うと、私は、三国の編者は「いましがた」と「ただいま」、そして「たった今」の三語を同じ意味だと思っているんじゃないかと疑っています。つまり、すべて「今より少し前」です。

いや、それは「ただいま」の項の解説と合わないだろう、という反論がすぐ出るだろうと思いますし、そうなんですが、そう考えたほうが「たった今」の用例「-帰りました」ともぴったり合うのです。「ただいま」を入れると、「ただいま帰りました」ですから。

明鏡の「ただいま」には、

 

  ただいま[1](副)1(名)まさに今。今現在。「-準備中」 2(名)つい今しがた。
    「-お帰りになりました」 3すぐに。もうすぐ。「はい、-参ります」
    ◇「今」よりも改まった言い方。[2](感)(略)  明鏡

 

「いましがた」と同じ用法も書いてあります。用例も「お帰りになりました」です。三国の「たった今」の語釈にある「ただいま」はこのつもりなんじゃないか。そう考えると、「たった今」の、いかにも手を抜いた、説明不十分の「語釈」の書き方もわかるように思います。同じ用法の語を並べただけ、です。

 

さて、以上のように考えると、三国と明鏡は「たった今」を「少し前」、つまり過去を示すと解釈していることで共通するということになりますが、そうでない辞書もあります。

 

    たった今 〔「ただいま」の転〕まさに「今」としか言いようがないほど、何かを
    してから(するまでに)間(マ)が無い様子。「-〔=今しがた〕帰ったばかり
    です/-〔=今すぐ〕出て行け」   新明解

 

新明解は「してから/するまでに」、用例では「今しがた/今すぐ」の二つ、つまり過去と未来の二つの用法を認めています。

現代例解ははっきり二つの用法に分けています。

 

  たった今 1ごく近い未来を表わす語。今すぐ。「たった今やめなさい」2ごく
    近い過去を表わす語。つい今しがた。「たった今帰りました」    現代例解

 

私の語感では、未来のほうはどうも少し古い感じがしますし、使い方も限られているように思います(用例は二つとも命令表現です。「今すぐ/たった今、行きます」?)が、そういう用法があるのは確かでしょう。つまり、三国と明鏡は用法の記述が足りないと思います。(三国の「ただいま」が、未来のことに使えることを示しているとは考えないことにして、ですが)

 

なお、岩波には「たったいま」という項目はありません。しかし、「たった」の項目に「たった今」の用例があります。

 

     たった〘副〙数量がわずかであるさま。「満点は―一人だけ」「―今来たところ
     だ」「会費は―の千円で飲み放題」   岩波

 

「たった」の「数量がわずかであるさま」の用例として「たった今来たところだ」です。「たった今」で「数量がわずか」とはどういうことなのか。丁寧な説明、なんてことはまったく考えていません。これが岩波国語辞典です。

 

とても・大変・非常に

「とても・大変・非常に」という語が国語辞典でどう説明されているかを見ます。

どれも程度を強調する副詞で、よく使われるものですが、さて、どういう違いがあるのか。それとも、違いはないと言ってしまってもいいのか。

  とても面白い
  大変面白い
  非常に面白い

話しことばでは「すごく面白い(あるいは「すごい面白い」)」も多く使われるのでしょうが、こちらは、まじめな文章では使えない語、ということで別にします。

国語辞典の一つの例。(「とても」の否定と呼応する用法は省略します。)

 

  とても(副)非常に。たいへん。「-きれいだ」[用法]話しことばでは、「とって
    も」の形でも使う。
  大変(副)非常に。「-お世話になりました」[類]たいそう・はなはだ・きわめて
  非常(形動)ふつうの程度をこえて、はななだしいようす。「-に寒い」[類]たい
    へん・たいそう・とても・きわめて    三省堂現代新

 

まあ、これではどうにもなりません。

この辞書が特に悪いというわけでもなく、他の辞書も多くは似たり寄ったりです。

 

  とても(副)並の程度を超えていると判断する様子。「-きれいだ/-苦しい」

  大変(副)-に 並の程度をはるかに超えている様子。「-結構です/-お世話に
    なりました/-にすばらしい」    

  非常に(副)普通に考えられる程度をはるかに超えた段階にある様子。「-ために
    なる話だ/-おもしろい/-残念だ」   新明解

 

  とても(副)程度がはなはだしいさま。非常に。たいへん。「今日は━寒い」
    「━すてきな作品だ」「━よく効く薬だ」  

  大変(副)程度のはなはだしいさま。「━残念だ」「━お世話になりました」

  非常(形動)程度がはなはだしいさま。「━な喜び[努力]」「━に小さい」「━に
    驚いた」「━に高価な品」        明鏡

 

  とても(副)程度が大きいこと。たいへん。とっても。「―いい」「―きれいだ」 

  大変〘ダナ・副〙程度がはなはだしいさま。「―(に)暑い」「―勉強している」。
    特に、苦労が並々ではないさま。「―な仕事だった」

  非常 ①〘ダナ〙一通りでないさま。はなはだしいさま。「―に大きい」  岩波

 

辞書による違いとしては、「非常に」の形を副詞とするのは新明解だけだということ。
また、「大変に」の形を認めるのは新明解と岩波であること、ぐらいでしょうか。ただし、岩波は〘ダナ・副〙としているので、「大変暑い」は副詞で、「大変に暑い」は形容動詞(「ダナ」)の連用形と考えるということかもしれません。

 

いくらか、それぞれの違いを書こうとしている辞書もあります。まず、例解新国語辞典です。

 

  とても(副)非常に。たいへん。ややくだけた言い方。[用例]とても景色のよい
    海岸。[類]たいそう。▽「とっても」とも言う。

  たいへん(副)非常に。とても。ややあらたまった言い方。[用例]たいへん失礼
    しました。[類]たいそう。相当。かなり。

  非常(形動)ふつうの程度をはるかにこえている。[用例]非常な努力。あの番組は
    非常におもしろい。[類]たいへん。きわめて。とても。はなはだ。  例解新

 

「とても」は「ややくだけた」、「たいへん」は「ややあらたまった」言い方、とします。

「非常」についても何か書いてほしいところです。これがいちばん書きことばに近いのではないでしょうか。例えば、小さい子どもがアニメを見て「とても面白かった」というのは自然ですが、「大変面白かった」というと変な感じがしますし、「非常に面白かった」と言ったら、この子はどういう子だ?と思うでしょう。

また、「非常」を形容動詞としながら、類義語として副詞を多くあげているのはどうもぴったりしません。

 

もう一つ、第八版になって、こういう類義語の「区別」についていろいろ説明を書くようになった三省堂国語辞典を。

 

  (「大変」の項の[区別]から)

  「たいへん」「非常に」は程度の大きさをあらわす基本的な語で、いろいろな場合
  に広く使える。「非常に」のほうがややかたく、意味も強い。「とても」も広く使え
  るが、話しことば的。文章語では「とてもできない」など不可能の強調にしか使わ
  ない人もいる。「すごく」はより話しことば的で、感情をこめる。  三国

 

よく書いていますが、「~人もいる」という書き方は、辞書として適当かどうか、という気もします。その「人」は典型的な例とは言えないでしょうから。そういうことを言い出すと、いろいろ極端な「人」のことを考えねばならなくなります。 

 

類語辞典では何か違いを書いているでしょうか。

 

  とても 程度がはなはだしい様子。「きょうは~疲れた」「試験に受かって~うれ
    しい」

  とっても 「とても」を強めた、より口語的な言い方。「心のこもったプレゼント
    をもらって~うれしかった」

  非常に 「とても」のかたい言い方。「朝まで友と語り合い~楽しい夜を過ごした」
    「夜中に家まで押しかけて来られるのは~迷惑だ」

  大変(に) 「非常に」の、より口語的な言い方。「このたびは~お世話になりまし
    た」「~よくできました」     講談社類語

 

「非常に」は「とても」の「かたい言い方」で、「大変(に)」は、「「非常に」の、「より口語的な言い方」です。さて、「とても」と「大変(に)」の関係やいかに?
類語辞典ですから、これらの項目がこの形で並んでいるわけで、この原稿を見た編集者は何も引っかからなかったのでしょうか。
 
「類義語使い分け辞典」(研究社)を見てみましょう。
けっこう詳しく書いてあります。日本語学習者のための辞書なので、このような、日本人(辞書編集者も含む?)にとってはあまり気にならない、日常的な類義語の違いについて何とか説明しようとしています。

 

  とても:状態語を伴い、程度が標準をはるかに越える。
  非常に:状態語を伴い、程度が標準をはるかに越える。文章語・改まり表現。

  [置換] 置き換え不能。「とても」は、(多数の例省略)その状態の程度のひどさ・
  すごさを表し、喜怒哀楽・驚き・意外・後悔・残念・非難などをほのめかす主観
  的な判断をし、文体を換えれば、すべての場合に「非常に」と置き換わる。「と
  ても」の口語形「とっても」は感情表現を強調する場合に用いられる。
  「非常に」は(略)意味上は「とても」と同じであるが、客観的評価をする改まっ
  た言葉なので、日常の口語表現で使うと不自然になる。(略)

  [補足](略)「大変」も意味上は「とても」と同じで、文体を換えれば置き換えが
  可能。「非常に・大変・とても」の順で文章語から口語へ、客観的評価から主観的
  判断へ移行し、特に「大変」はやや改まった挨拶言葉で使われ、「ありがとうござ
  います・すみません・お寒うございます」などには「大変」しか使うことができ
  ない。「申し訳ありません」に「大変」を使うと、感謝・お詫びの両方に使えるが、
  「非常に」に置き換えると、陳謝の意味しか表せない。   類義語使い分け辞典

 

省略してしまった部分に例がたくさんあげられていて、非常に(とても・大変)よいと思いますが、ところどころ私には賛成できない説明があります。

「非常に」を「客観的評価」としていますが、例えば、誰かの失礼な言動に対して、吐き捨てるように「非常に不愉快だ」と言うことがあり得ると思いますが、これを「客観的評価」と言えるかどうか。

また、いちばん初めの「置き換え不能」というのは、文体が違う、ということでしょうか。「とても/非常に 難しい問題だ」という場合、私はそんなに文体の違いを感じません。

 

「現代副詞用法辞典」(東京堂)という専門的な辞典を見てみます。

「とても」の項には「話者の主観として程度のはなはだしい様子を表す」とあり、

 

  「とても」は「ひじょうに」「たいへん」「すごく」などに似ているが、「ひじょ
  うに」はややかたい文章語で、公式の発言などに多用され、程度がはなはだしい
  ことを誇張する様子を表す。「たいへん」も誇張的で、慨嘆・驚き・感動・丁重
  などさまざまの暗示を伴う。「すごく」はくだけた表現で日常会話中心に用いられ、
  やはり程度を誇張し、感嘆・あきれなどの暗示を伴う。

    今日はとても寒い。  (寒い程度がはなはだしい)
    今日は非常に寒い。  (特筆すべき寒さだ)
    今日はたいへん寒い。 (寒くてたまらない)
    今日はすごく寒い。  (雪でも降るんじゃないか)  現代副詞用法辞典

 

という説明、例とその意味合いの違いの解説?があります。

また、「たいへん」の項には、「「とても」はかなり冷静な表現で、誇張の暗示はない。」と書かれており、次のような例が並べられています。

 

    たいへん大きな被害をこうむった。 (重大で途方にくれるほどだった)
    とても大きな被害をこうむった。  (大規模な被害だった)
    非常に大きな被害をこうむった。  (重大で深刻な被害だった)
    たいそう大きな被害をこうむった。 (被害は並たいていではなかった)

 

「ひじょうに」の項には、「「とても」はかなり冷静な表現で、対象との心理的な距離を暗示する。」という説明があります。上のような他の類義語との比較の例文はありません。

さて、この「現代副詞用法辞典」の解説はいかがでしょうか。
私は…、あまり賛成できません。「寒い」の例、「大きな被害」の例では、かっこの中のような意味合いの違いは感じられません。もっと違いの出る例を探したほうがいいと思います。

例えば、新明解の用例「大変けっこうです」は、「とても・非常に」では言いにくいように(私の語感では)思います。

また、これはもっと微妙かも知れませんが、「今回の上演は、非常に期待はずれの結果でした」は、「とても・大変」では(私には)ぴったりしません。(それはなぜかと聞かれると、私にはいい説明がありません。「改まった」言い方だからでしょうか。)
こういう語感は人によって違うのかもしれませんが、もう少し、いろいろと探してみるといいのでしょう。

「とても」についての、「「とても」はかなり冷静な表現で、対象との心理的な距離を暗示する。」という説明は、私には?です。

それでも、こういう説明を見ると、あれこれ考えるきっかけになり、いろいろと書いてくれることはよいことだと思います。

 

国語辞典の話に戻って、(詳しい)類義語辞典・副詞辞典ほどの解説を小型国語辞典に求めるのはむりな話ですが、もう少し、何か考えたということが感じられるような説明があれば、と思いました。

今回見た中では、三国がいちばんよいと思います。

形成-する

「形成」という語の語釈の細かい問題について。
 
  形成 〘名・ス他〙整ったものに形づくること。「―外科」  岩波

   〔名・他サ変〕整った形に作りあげること。形づくること。「人格を━する」
                               明鏡
   〔名・他サ〕1形を作ること。まとまったものを作ること。「深い谷を-する・
     ネットワークの-・子どもの人格-」2〔医〕先天的なからだの表面の
     異常や、けが・やけどなどによる変形を治すこと。「顔の-をする」 三国

 

この三冊の国語辞典はみな同じようなとらえ方で、「形成」は名詞で、サ変の他動詞(「形成する」)でもあるとし、語釈も他動詞を使って説明しています。

 

新明解は、(いつものように)ちょっと違います。

 

  形成 -する (他サ)未完成なもの、また混沌(コントン)としたものが外部から
     必要なものを取り入れて次第により完全なものになること。「ネットワーク
     を-する/人格の-/言語-期」    新明解

 

「形成」が名詞であり、「-する」がついて他動詞となるという点では同じですが、語釈の書き方は「~したものが~完全なものになる(こと)」で自動詞的です。

岩波・明鏡・三国のそれぞれの用例と、新明解の用例をそれぞれ考えてみます。
それぞれの語釈と用例はうまく合っているでしょうか。

 

岩波。用例は「形成外科」だけです。これで何がわかるというのか。「形成」という語を丁寧に記述、解説しようという気はないようです。というより、いつもの通り、岩波の利用者は「形成」という語を当然知っているだろうから、詳しい解説など要らない、という考えなのでしょう。

「整ったものに形づくる外科」とはどういうものなのか。「何を」形づくるのか。それがわかるような利用者でなければ、この用例の存在価値はありません。なお、「形成外科」という項目は岩波にはありません。

新明解・三国・明鏡には「形成外科」という項目があります。

 

  形成外科 皮膚などの機能を修復したり 外形を治療したり する、医学の一分科。
   〔やけどによるケロイドや口唇裂などを対象とする。美容目的のものをも含む〕
    →整形外科     新明解 

   「形成(2)」をおこなう外科の部門。〔形成外科医院などの名前にも使う〕
     →整形外科    三国

   身体の形態的な損傷や変形を手術によって治療したり、修復したりする医学の
   一分野。▽「整形外科」とは別の分野。      明鏡

 

丁寧に説明しています。「整形外科」とは違う、という注記も。(なお、岩波には「整形外科」という項目はあります。なぜ「形成外科」はないのでしょうか。使用頻度の差でしょうか。それで説明しないのなら、用例に出すべきではないでしょう。)

 

「形成」に戻って、明鏡。「人格を形成する」。岩波よりいくらかいいでしょうか。しかし、「何が/誰が」が必要では?

 

三国。例が三つあります。これだけで、岩波・明鏡よりずっとよい辞書だと、私は考えます。

「深い谷を形成する」の「主語」は何でしょうか。「急な川の流れが」あたりでしょうか。この例は、語釈の「形を作ること」に対応するのでしょうか。
次の「ネットワークの形成」「子どもの人格形成」は、「まとまったものを作ること」に対応する例と考えればいいのでしょうか。

そこで、それぞれの「形成する(作る)」主体は何でしょうか。
前者は、「何か/誰か」が「ネットワークを形成する(作る)」のでしょうか。
後者は、「子どもが人格を形成する」? それとも、「(何かが)子どもの人格を形成する」?

 

新明解も用例が三つあげられており、三国で使われた「ネットワーク」と「人格」という語は新明解でも例に使われています。

名詞の例から見てみましょう。
「人格の形成・言語形成期」の例では、「人格が」より完全なものになること、「言語が」より完全なものになることと考えると、語釈の「(何かが)次第により完全なものになる」に当てはまる例です。

三国のように、「形成する」を「~作ること」と考えると、「人格を形成する」主体として「子ども」か「何か」を考えたくなります。それがいいか、それとも新明解のように自動詞的にとらえて、「人格が~なる」と考えるのがよいか。

「ネットワークを形成する」という例では、三国のように「何か/誰か」が「ネットワークを形成する」と他動詞的に考えればいいのでしょうか。

それとも、新明解の「未完成なもの、また混沌としたものが外部から必要なものを取り入れて次第により完全なものになる」という風に自動詞的に考えるのか。よりかんたんに言えば、「ネットワークができ上がっていく」ということでしょうか。

 

さて、コーパスで実際の例を見てみましょう。

「形成する」が他動詞であることは、実際の使用例を見てみればごく自然に納得できることです。NINJAL-LWP for TWC で「形成する」の例を見ると、

 ・人はなぜ社会を形成するのでしょう。
 ・近代社会を形成してきたのは、国民国家制度です。
 ・牛舎猫は牛舎内でひとつの社会を形成しています。
 ・インターナショナルネットワークを形成する世界の言語とは?
 ・子どもが人間関係を初めて形成するのは家族。
 ・意識は、複雑な多重構造を形成しています。
 ・将来の世代に継承する恵み豊かな環境を形成する。
 ・子どもは発達環境により人格を形成します。

「形成する」は「名詞+を」の形、いわゆる「目的語」(ヲ格)をとります。

また、いわゆる「主語」(ガ格)の名詞の例を見ると、

 ・そこで社会が形成される。
 ・1900年代、毛皮の市場が形成されていきます。
 ・成熟卵胞の基本構造が形成され、新しい細胞はみられない。
 ・そして障害者の権利、学術研究を巡る大きなネットワークが形成された。
 ・その関係を前提に親子間の良好な関係が形成されることが理想です。
 ・以下の論点につき、合意が形成された。
 ・そこには、新たなコミュニティーが形成される。

頻度の高い語は、みな「形成される」という受身の形で、「形成する」対象となる名詞が「主語」になっています。

つまり、「形成する」は他動詞で、自動詞的な意味を表したい場合は受身の形にする、ということです。

 

では、名詞の場合は、「作り上げる、形づくる」こと、と他動詞的に考えればそれでいいのか。

新明解のように「より完全なものになる」と自動詞的に考えるのは適当でないのか。

「ネットワークの形成が必要だ」は他動詞的だとしても、「子供の人格の形成は周囲の環境に依存する」という例を考えるとやはり自動詞的解釈も必要に思え、両方書いておくのがよいのだろうと思いますが、どうでしょうか。

新明解が自動詞的解釈をしたことは貴重なとらえ方だと思いますが、他動詞としての解釈も必要でしょう。

 

マザー・ファーザー

短い話を二つ。

まず、前回は英語から来た「ママ」をとりあげたので、ついでに「マザー」も見てみましょう。

 

  マザー〔mother〕1母親。(⇔ファーザー)2〔宗〕女子修道院の、院長。 三国

  マザー ①母。母親。「シングル―」(死別・離婚・未婚などにより一人で子供を
    育てている母親)②カトリックで、女子修道院長。▽mother      岩波

  マザー〔mother〕[1](造語) 1母。「-コンプレックス」2 データ・音楽などの
    はいった媒体で、複写の元とする。「-テープ」
    [2]カトリック教会の、女子修道院長。⇔ファーザー     新明解

  明鏡 なし

 

三国、岩波は名詞としていますが、「マザーがテレビを見ている」とも言わないし、「マザーに叱られた」とも言わないでしょう。「私のマザー」とも「マザーの服」とも言わない。

つまり、日本語では「マザー」は基本的に普通名詞としては使われない。複合名詞の要素となるだけですから、「造語成分」でしょう。

ただし、カトリックのほうでは、「マザー」と言うようです。用例を検索すると、特に「マザーテレサ」を指すことばとして使われている例が多く見つかります。あと、小説だかゲームだかで、登場人物を指す、ほとんど固有名詞のように使われている(「マザーテレサ」の場合もそうですね)例が見つかります。

ということで、これは新明解が正しいのでしょう。三国も岩波もダメ。明鏡が項目を立てないのは名詞として認めていないということでしょう。「マザー-」を含む複合語は項目になっています。

 

さらについでに「ファーザー」も。

 

  ファーザー〔father〕1父親。ファザー。(⇔マザー)2〔宗〕神父。   三国

  ファーザー①父。父親。「シングル―」(死別・離婚などにより一人で子供を
    育てている父親)②カトリックで、神父。▽father           岩波

  ファーザー〔father=父〕〔カトリック教会で〕神父。⇔マザー    新明解

  明鏡 なし 

 

こちらも同じですね。「父」の意味で名詞として使われることがないなら、新明解のようにするか、(造語)として複合名詞の例をあげるか、です。

ママ

前回の「おかあさん」に続いて「ママ」を。「おかあさん」と何が違うのか、どう使い分けるのかが国語辞典に書いてあるかどうか。

 

  ママ[ma(m)ma]1[幼児語] おかあさん。「教育-」[自分の妻をさして言うことも
    ある] [対]パパ 2バーなどの女主人(を呼ぶことば)。「-さん」[類]マダム
    [対]マスター    三省堂現代新

  ママ 1子供の母親に対する愛称。お母さん。また、母親。[対]パパ。2酒場な
    どの女主人。マダム。[対]マスター。▽ma(m)ma 
    -とも【友】保育園や幼稚園、公園などで子供を通じて交流するようになっ
    た、母親同士。また、その間柄。    学研現代新

 

三省堂現代新は「幼児語」とします。それでいて「教育ママ」を用例としてあげるのは不適当です。「自分の妻をさして言う」のも「幼児語」ではないでしょう。
テレビドラマなどで、高校生や大学生が母親に対して「ママ」というのはずいぶん前から普通のことだったように思いますが、実際はどうなのでしょうか。

学研現代新の「ママ友」の説明は簡潔でわかりやすく、いいですね。
なお、「原語問題」ですが、上のような書き方だと「バーの女主人」も mamaと英語で言うことになってしまいますが、違うんじゃないでしょうか。

以下では「酒場」のほうは省略します。

 

次は例解新国語辞典。


  ママ 母親をさしてよぶことば。[対]パパ。[類]おかあさん。→パパ[表現] 

  「パパ」の項
    [表現]子どもが父親をよぶときに使う。また、おとなであれば、他人に
    対しては、「うちの父」というのがふつうで、「うちのパパ」というのは
    おかしい。「ママ」にも同じことがいえる。→囲み記事29(765ページ)
                              例解新

ていねいに書いてありますね。「囲み記事29」というのは、前回の「お母さん」の記事の中で紹介しました。

 

岩波国語辞典。
  
  ママ ①おかあさん。⇔パパ。「教育―」▽mam(m)a②〔俗〕バーやスナック
    など、水商売の店の女主人。      岩波

 

語釈(?)としてはほとんど情報がありませんが、英語を置く位置で、「バーの女主人」のほうはmamaでないことがわかります。そちらは俗語だそうです。

 

「ママ」が「お母さん」の意味であることは、まあ、そうだとして、ではなぜ「ママ」を使うのか。「幼児語」であるならば、「ブーブー」や「わんわん」のように、ある時期から使わなくなるはずの語です。

しかし、幼児でなくなっても使う人はいるし、「教育ママ」ということばは新聞でも使われます。

「ママ」は「お母さん」と何が違うのか。使われる理由は何か。それに答えてくれる辞書はありません。

 

新明解。

 

  〔ma(m)ma〕「おかあさん」の幼児語(に基づく愛称)。「-さんチーム・教育-」⇔パパ                   新明解

 

学研現代新にもありましたが、「ママ」が「愛称」だというのがよくわかりません。

 

  愛称 1親しい間柄同士で言う、姓(名前)の、一種の略称。例、山本さん(君)
    →山さん・山ちゃん・山。2〔正式の列車番号以外に〕個個の特急列車などに
    つける、親しみやすい名称。例、のぞみ・ひかり・とき。3 あだな。例、女の
    子につける「ちゃこ」など。      新明解

 

1でもないし、3の「あだな」でもありません。2は問題外。

 

  愛称 親愛の気持を含めて呼ぶ特別の名まえ。▽D五一形蒸気機関車の「デゴ
    イチ」など、人間以外の物についても使う。    岩波

 

「お母さん」が正式な名前だけれど、「親愛の気持を含めて」、「ママ」という「特別の名まえ」で呼ぶ、のでしょうか。何だかわかりません。

「愛称」というのは当てはまらないのではないでしょうか。単純に、(一部で)「お母さん」に取って代わった語、なのでしょう。

 

では、なぜ「ママ」を使うようになったのか。以下は私の当てずっぽうです。

一つは、「幼児語」としての面があり、幼児にとって「お母さん」より発音しやすいと親が考え、使うようになった。しかし、それは「子供っぽい」言い方だという意識はあった。

 

  ママ 母親。また、子供などが母親を呼ぶ語。おかあさん。⇔パパ ▽幼児語
    な言い方。                                    明鏡

 

幼児語的」だが、大きくなっても使う。それはなぜなのか。

 

  ママ 「お母さん」の意の洋風な言い方。⇔パパ。[例]ママ、何か買って/ママ
    に言いつけるから/教育ママ/ママさんバレー。◆都会の家庭などで子供に
    言わせる呼び方だが、母親の役割にある人を呼んだりさしたりして、子供以
    外の者が使うこともある。2(略) →「母」の[類語]
                                                             小学館日本語新

 

もう一つは、当たり前のことですが、小学館日本語新の言う通り、「洋風な言い方」であること。「お母さん」の持つ、きまじめな、伝統的な印象に対して、その新しさが「都会の家庭」で好まれたこと、辺りでしょうか。

この辺、社会言語学での研究はあるのでしょうか。いつ頃から、どのような年代の母親が使い始め、どのように広まっていったのか。地域による違いはあるのか。(関西では関東より広まらなかったのではないか、とあまり根拠なく思います。)

そのような、小さな子供が使う語であったものが、より一般的な「母親」を示すようになると「教育ママ」のような使い方が生まれてくるのでしょう。

 

三省堂国語辞典は、幼児語としての「お母さん」の用法と、「母親」としての用法を分けています。

 

  ママ 1〔児〕おかあさん。「-が呼んでる」2母親。「教育-」→ママさん。
     (⇔パパ)    三国

 

参照指示にあるように、三国には「ママさん」の項目もあります。

 

  ママさん 子どものいる母親を、したしんで言うことば。「-ランナー・-バレー」
                              三国

 

この辺は新語・新用法に強い三国の得意とするところでしょう。

また、「教育ママ」を例にあげる辞書が多いのですが、「ママ」の説明をしながら、「教育ママ」は説明しません。利用者が当然知っている語だから説明は要らないと考えるのでしょうか。

三国は、「教育」の項にも「教育ママ」が例としてあり、短い説明がついています。

 

  教育 (略)・-ママ〔=教育に熱心すぎる母親〕」   三国 

 

これだけの説明でいいので、他の辞書にも(できれば「ママ」の項で)あってほしいと思います。

 

おかあさん

基本的なことばの基本的な用法が国語辞典にきちんと記述されているかどうかを見ていきます。

 

  おかあさん 子どもが、自分の母親を親しんで、また、うやまって呼ぶことば。
    〔夫が妻を呼ぶときなどにも使う〕[類]かあさん・(お)かあさま・(お)かあ
    ちゃん・おふくろ・ママ [対]お父さん  [注意]他人に対していうときは、「母」
    という。    三省堂現代新        

    子供が自分の母親を敬い親しんで呼びかける語。[参考]他人に対して言う場合
    は「母」を使うが、親しい間柄では「うちのお母さん」などと使われる。[対]
    お父さん。   学研現代新

 

三省堂のほうで、「夫が妻を呼ぶときなどにも使う」というのは、子供がある場合に限られますが、それは常識的にわかるでしょ、というのでしょうか。

学研は「呼びかける語」としていますが、そうでない場合もいろいろあるのでは?

(「親しい間柄では~」の指摘はいいと思います。)

他の辞書と比べるとはっきりしますが、この2冊はいろいろと足りません。

 

上の2冊は高校生向けの学習辞典の性格が強いものですが、中学生向けをうたう辞書を。

 

  おかあさん 子どもなどが、親しみをこめて母親をよぶことば。[対]お父さん。
    [類]お母さま。母さん。ママ。おふくろ。母上。→囲み記事29(765ページ)
        例解新第九版

 

本文項目はこれだけですが、参照指示の「囲み記事」が詳しいです。

 

  父と母
   (1)謙遜したことばとしての「父」「母」
    自分の父親・母親を「父」「母」というときは、比較的あらたまった場面での
    謙遜したことばづかいになる。たとえば「きょうの父母会には父がまいります」
    「あす、母は家におりません」のように言う。「父」「母」は子どもが親によび
    かけるときには使えない。よびかけには「とうさん」「おとうさん」「かあさ
    ん」「おかあさん」がよく使われる。男の子は青年になるとよく「おやじ」「お
    やじさん」「おふくろ」「おふくろさん」などという。話している相手の親のこ
    とについては、相手が友だちであれば「おとうさん」「おかあさん」という。
    ていねいにいう場合は「おとうさま」「(お)父上」「おかあさま」「(お)母上」
    「ご母堂(様)」などが使われる。話しことばで、自分の父母のことを他人に
    いうとき「おとうさん」「おかあさん」というのは子どもの言いかたで、「父」
    「母」を使うのが正式である。(以下略 以上で半分強)  例解新p.765

                           

国語教科書の解説記事のようですね。相手の母親について使えることが、上の2冊にはありませんでした。当たり前すぎて書くのを忘れたのでしょうか。

「「父」「母」は子どもが親によびかけるときには使えない。」というあたりは、いかにもわかりきった話ですが、日本語教師としてはここまで書いてあるとうれしいところです。(逆に、「話している相手」に「ご母堂」と言うことがまだあるんだろうかとも思います。)

 

しかし、これだけ詳しく書いてあっても、まだ足りないところがあります。

もう少し短く、うまくまとめてある三省堂国語辞典から。

 

  おかあさん 1自分の母に、敬意と親しみを持って呼びかけることば。〔家族が
    子どもの母を、また、母が自分自身をさしても言う。義母のことも言う〕
    [区別]改まった場で自分の母を人に言うときは、「お母さん」は子どもっぽ
    く、「母」が礼儀正しい。改まりすぎるのをきらって、「母親」と言う人も
    いるが、他人のような呼び方でもある。(男性は)親しい人の前では「おふ
    くろ」とも。[表記]義母は「お:義母さん」とも。2<相手/他人>の母を
    尊敬して言うことば。「-はお元気ですか」3子どものいる女性をさすことば。
   「若い-がた」4動物の母。「-パンダ」▽かあさん。(お)かあちゃん。〔俗〕。
    〔「(お)かあさま。」は、より敬意の高い言い方〕(⇔お父さん)  三国

 

「家族が子どもの母を」言うこと。例えば、おばあさんが孫に「お母さんには内緒だよ」とか。

「自分自身をさしても言う」こと。(ただし場面が限られます。)

「他人の母」についても使えること。そして、3の、一般的に母親を指すことがあること。
一通り、基本的な使い方がおさえられています。

 

三省堂現代新は、三国と兄弟辞書みたいなものだと思うのですが、どうしてこんなに違うのか。

 

新明解も三国とだいたい同じような内容です。

 

   〔もと、「母」の意の幼児語「かか」に基づく「御(オ)かか様」の変化「御かあ様」の
   口語形。口頭語形は、「おかあちゃん ・おっかさん」〕「母」の尊敬語。自分の
   母親に呼びかける(を指して言う)語。また、相手や話題にしている第三者
   母親を指して言う。⇔お父(トウ)さん ⇒付表「母さん」
   [運用](1)他人に対して自分の母親を言う場合は「はは」が普通だが、親しい
   間柄では「うちのお母さん」のように言うこともある。(2)子供のある夫婦の
   間で、夫が妻に呼びかけるのにも用いられる。(3)母親の立場にある女性に
   呼びかける(を指して言う)のにも用いられる。例、「そこのお母さん/全国の
   お母さんがたの願い」〔(1)(2)は「母さん」とも〕   新明解

 

おや、自分を指す用法がありませんね。学研現代新にもありましたが、「親しい間柄」では「母/お母さん」の使い分けが弱くなるという指摘は貴重です。「子供のある夫婦」で「夫が妻に呼びかける」場合。また、[運用]の(3)を丁寧に書いていていいと思います。

 

明鏡も見てみます。

 

   母親を親しんで、また、高めて呼ぶ語。⇔お父さん [使い方](1)「かあさん」と
   も。より丁寧な言い方は「おかあさま」。くだけた言い方は「(お)かあちゃん」。
   (2)子供のいる夫婦などで、夫が妻を呼ぶのに使うこともある。[注意]他人に対
   して、自分の母親を「お母さん」というのは不適切。「×お母さん(→○母)が
   そう言ってました」    明鏡

 

おやおや、これは最初の2冊並ですね。

 

岩波。

 

   ①母親に対する普通の言い方。▽もっと丁寧には「お母さま」等。他人に対して
   自分の母親を言うときは「はは」と言うのが普通。「おかあさん」は明治時代に
   国定教科書を編むに当たっての新造と言われる。もとの東京語では「母上」や
   「おっかさん」「かあちゃん」など。「おっかあ」はよほど下層でなければ使わ
   なかった。②広く、大人の女性に呼びかける時に使う語。   岩波

 

これはまた。岩波は、歴史的な語誌についていろいろ書きたがるわりに、現代の細かい用法については雑なところがある、という印象があります。(「2019-12-04 愛人・情夫・情婦」の「愛人」がそうでした。)

「おっかあ」はよほど下層でなければ使わなかった」という部分は、何か前とのつながりが変です。元の文章を切りつめたか何かしたのでしょうか。

②の「広く、大人の女性に呼びかける時に使う」というのも相当雑な説明です。現在の岩波第八版の編集者は三人の女性です。この人たちは「お母さん」と広く「呼びかけ」られても変に思わないのでしょうか。

こういう雑な語釈と、新明解の「母親の立場にある女性」という言い方、「全国のお母さんがたの願い」という用例のうまさを比べてみてください。

この語に関しては、三国・新明解と比べて、明鏡・岩波ははっきり劣ると言えます。

 

用例をきちんとあげてある辞書を見ましょう。少し大きな辞書になりますが。

学研現代新の「親辞書」と言っていい学研大。

 

  おかあさん {明治末期以後、「お父さん」とともに国定教科書にとりあげられ、
    一般化した語}子供が自分の母親を敬い親しんで、それに呼びかけるとき、
    また指示するときに用いる語。〔子供以外の人が母親の立場にある人を敬い
    親しんで、それに呼びかけるとき、また指示するときにも使うことができる。
    また、母親が子供に対して自らを指して言うこともある〕[参]口語では、
    母親の意を表す類語の中で、最も標準的な言い方とされる。自分の母親を
    指して、対外的に用いる時は「母」がより標準的な言い方とされる。「(子
    ガ母親ニ)-、ごめんなさい」「(子ガ)-は私にはいつも優しかった」「(子
    ノ友達ガ)彼の-、病気なんですって」「(夫ガ妻ニ)-、もう一本つけて
    おくれ」「(母ガ子ニ)-の言うことをよく聞くのよ」[類]お母さま。母さん。
    母ちゃん。おっか(さん)。ママ。母。母上。おふくろ(さん)。[対]お父さん。

 

よく書いていますね。用例の出し方がいい。学研現代新はなぜこのように書かないのでしょうか。(多少は簡略化するにしても)

(それにしても、若い人は「もう一本つける」が何のことかわかるのかしら?)

 

もう一冊、小学館日本語新。
  
  おかあさん (明治末期以後、国定教科書により、それまでの「おっかさん」など
    に代わって広く一般に用いられるようになった語。⇔お父さん)1(ア)子が自
    分の母親を敬い親しんで、呼びかける時に用いる語。[例]お母さん、ちょっと
    来て。(イ)子が家族内で話すとき、母親をさしていう語。[例]お兄ちゃん、お
    母さんは?◆子が他人に対し自分の母親をさしていうときは敬称を除いて「は
    は(母)」というのが礼儀とされたが、現在は子供の言い方では、「お母さん」と
    いうことも多い。(ウ)子のいる家庭で、子以外の者が母親の役割にある人を敬い
    親しんで呼びかけたり、その人をさしていったりする語。[例]お母さんにやっ
    てもらいなさい。(エ)母親自身が子に対して、自らをさしていう語。[例]お母さ
    んが娘の時分にはね。 2相手や他人の母親を敬い親しんでいう語。[例]お母さ
    んにお礼を申し上げておいてください/A君のお母さん。◆1・2とも改まった
    言い方で「お母さま」が用いられることもある。→「母」の[類語]

 

よく整理されています。◆の「母/お母さん」の使い分けに関する注がいいと思います。個人的な意見ですが、「お母さんと言うのはよくない、母と言え」という規範にはなんとなく抵抗を感じていました。その人の年齢と、その場面の改まりの程度によるでしょう。

また、参照指示の「「母」の[類語]」というのがなかなかのもので、本文の28行分を使って、「「母」を表す類語の使い方の一覧」というのが表の形で掲げられています。

 

広辞苑と形容動詞:再び・第一版の「国文法概要」

以前、「2022-08-29 広辞苑と形容動詞(1)」という記事を書いた時に、第五版の「日本文法概説」を紹介し、(第六版もほとんど同じ。もっと前の版も見てみたいのですが、それはまたいつか。)
と書きました。

先日、大学の図書館へ行って『広辞苑 第一版』(1955)の「国文法概要」を見ることができましたので、紹介します。なお、見たのは「第26刷(1967)」です。

 

  国文法概要

   本書で単語を分類しまたその性質を示すにあたって採った方針の大体を述べ、
  本書を用いるのに役立つように日本文法の大要を説明する。
  (略:「文」と品詞の概略)

 

「第一版」のp.2300からp.2307まで、ほんの8ページの短いものですが、昭和三十年の段階でこのような文法解説を付けたことは、国語辞典として重要なことだったと思います。(『大辞林』はとてもいい辞書だと思いますが、文法解説はありません。)

 

  名詞
   名詞とは、思想の主題となる事物・概念を指示し、それに名づける名目である。
  例えば、「机」「草」「酒」「赤」「厚み」「悲しさ」「勉強」「こころ」「政府」
  などである。国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化
  および格語尾変化は無く、格の相違は助詞によって表示される。ヨーロッパ文典
  にならって普通名詞・集合名詞・物質名詞などの別を立て、また、いわゆる数詞
  を別の品詞として立てる説もあるが、日本語では特にその区別が必要・有用である
  という根拠は見出されない。従って本書では、それらの区別を一切記さなかった。
  また、本書には多数のヨーロッパ語を取り入れたが、それらは原語の品詞の如何を
  問わずすべて名詞として取扱った。本書は国語辞書であり、それらの単語は国語と
  しては文法的にはすべて名詞としてはたらくからである。例えば、ヒット、スチ
  ール、ゴチック、ロマネスク、シャン、アベックなど。
   名詞の中で問題になるのは世にいう形容動詞の語幹である。
    (1)静か のどか 明らか さわやか 綺麗 厳重 急 突然など
    (2)堂々 駸々 洋々 泰然 端然 断乎 確乎 縹渺など
  右の(1)は、「なり」「に」「な」「で」「だ」などを従えていわゆる「ナリ活用
  の形容動詞」を形づくり、(2)は「たり「たる」「と」「として」などを従えて
  「タリ活用の形容動詞」を形づくる。この形容動詞という一品詞を認めるか否か
  は、現代の学界に両説がある。形容動詞を認める説の根拠は、その語幹が文中で
  独立して用いられること無く、「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格
  に立つことが無く、連体修飾語を承けることが無いという点にある。一方、形容
  動詞を認めない説があるが、その論拠は次の通りである。まず、その語幹が独立
  して用いられることが全然無いとは言えず、例えば、「静」(しずか)という名前、
  「確か」という副詞、「ここもにぎやか、あそこもにぎやか」のような用法がある。
  また、われわれはその語幹を独立して思い浮かべることも出来る。元来、この語幹
  は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではそのような抽象的な
  属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していないために、それら
  が「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つことが無いに過ぎない。
  また、形容動詞語幹は連体修飾語を承けることが無いというが、世に名詞と信じ
  られているものも必ずしもすべて連体修飾語を承けるとはかぎらない。例えば、
  東・西・南・北・前・後などは連体修飾語を承けず、連用修飾語「少し」「やや」
  などを承ける。これら東・西・前・後などの語は、形容動詞語幹「静か」「のど
  か」「堂々」「突然」などと性質が同じである。このように考えればいわゆる形容
  動詞というものは、それらの属性概念を表す名詞に、指定の助動詞「なり」「たり」
  が付着して成立したものであると見られる。つまり、形容動詞の語幹は、意義と
  して用言的な属性概念をもつものではあるが、品詞としては名詞とも見られるもの
  である。それ故特別に形容動詞としう一品詞を立てる理由はない。本書は後者の
  見解に従い、形容動詞なる品詞を立てず、その語幹をすべて名詞として取扱った。
                        『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2300-2301

 

初めの段落の、

   国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化および
   格語尾変化は無く

というところ、いかに西洋の言語の文法に頭が支配されているかがわかって面白いですね。「文法」のモデルは「ヨーロッパ文典」なのです。

 日本語を「他の言語」と比較して考えることは重要ですが、そこで中国語や朝鮮語インドネシア語が浮かぶことはない。タイ語ヒンディー語について何らかの知識のある「国文法学者」はほとんどいなかったでしょうし、今でもごく少数でしょう。(などと偉そうに書いている私も…)

外来語(「多数のヨーロッパ語」)は「すべて名詞として取扱った」というところに関しては、「2022-09-08 広辞苑の名詞:外来語」で疑問を述べました。「アーメン・グッバイ」などはどうなのか、という問題です。

 

さて、「名詞」の節で大きな分量を占める形容動詞に関する議論で、

  元来、この語幹は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではその
  ような抽象的な属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していな
  いために、それらが「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つこと
  が無いに過ぎない。

というところはどう考えても無理があります。「主格・目的格に立つこと」がないのだったら、それはつまり名詞ではないということだと考えるべきです。名詞の最も中心的な文法的役割は、述語に対して「格」になることなのですから。

さらに「連体修飾語を承ける」かどうかという話で、「東・前」などは連体修飾語を承けないと書いていますが、「その建物の東」や「建物の前」などは連体修飾語を承けているのではないという言い訳が必要です。

そもそも、そのようなごく少数の「例外」と同じだから、形容動詞の語幹も名詞と見ることができるのだ、というのは、論理に大きな無理があります。

昭和三十年ごろは、この程度の議論で形容動詞否定論が成り立ったのでしょうか。

この第一版では、上に引用した「名詞」のところで形容動詞が扱われるだけで、「形容動詞」という小見出しの節はありません。それが、第五版になると「名詞」では少し触れられるだけで、「形容動詞」という節が立てられ、その中で議論され、結局否定されます。そして第七版では「名詞」のところでは形容動詞には触れず、「形容動詞」という節の中に「形容動詞否定論」という子見出しが立てられるのですが、はっきりしない議論の末に、形容動詞は名詞と同じように扱う、という結論がなぜか述べられます。
この「2022-08-31 広辞苑と形容動詞(3)」で引用した第七版の煮え切らない議論を見ると、上の第一版のほうがかえって否定論として筋が一貫していて読みやすく感じます。だから、反論しやすい。

第五版や第七版の「解説」は、形容動詞を否定する辞書本文は変えることができないので、その言い訳をなんとかしようとしている、という感じさえ受けます。

 

以上の形容動詞の話のすぐ後に、擬声語・擬態語の話が続きます。それも引用しておきます。

 

   なお、名詞として扱うべきものに象徴詞がある。「ちゅうちゅう」「ざわざわ」
  「ぴしゃぴしゃ」「こっそり」「ちゃっかり」「がたがた」「どろどろ」などの
  擬声語・擬態語は、物の音、動物の鳴き声、事態、感覚などを、人間の音韻によって
  擬する語で、国語には極めて多く行われる。これらは副詞としても用いられるが、
  堂々、断乎、突然などと同じく「と」「として」「な」「に」「で」「だ」などを
  従えていわゆる形容動詞の語幹の位置に立つことが少なくない。従って、それらの
  語と同じく、象徴詞は名詞の一類と認めるべきである。国語の名詞のうち、属性概念
  を示す語や、時・程度を示す語は、そのまま副詞として用いられるから、意味上、
  当然名詞と副詞とに両用される語は名詞・副詞と並記することを省いた。
                         『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2301

  (以上で、「名詞」の解説の全部です。)

 

この部分は、「2022-09-09 広辞苑の名詞:擬声語・擬態語」でとりあげた第五版とほとんど同じです。そこで詳しく批判しました。はっきり言って、まったく箸にも棒にもかからないような「論」だと思いますが、いったいどうしてこのようなことが広辞苑の文法として書かれているのでしょうか。(第七版ではこの部分は削除されていますが、辞典本文の方針はこのままです。)