ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

広辞苑と形容動詞:再び・第一版の「国文法概要」

以前、「2022-08-29 広辞苑と形容動詞(1)」という記事を書いた時に、第五版の「日本文法概説」を紹介し、(第六版もほとんど同じ。もっと前の版も見てみたいのですが、それはまたいつか。)
と書きました。

先日、大学の図書館へ行って『広辞苑 第一版』(1955)の「国文法概要」を見ることができましたので、紹介します。なお、見たのは「第26刷(1967)」です。

 

  国文法概要

   本書で単語を分類しまたその性質を示すにあたって採った方針の大体を述べ、
  本書を用いるのに役立つように日本文法の大要を説明する。
  (略:「文」と品詞の概略)

 

「第一版」のp.2300からp.2307まで、ほんの8ページの短いものですが、昭和三十年の段階でこのような文法解説を付けたことは、国語辞典として重要なことだったと思います。(『大辞林』はとてもいい辞書だと思いますが、文法解説はありません。)

 

  名詞
   名詞とは、思想の主題となる事物・概念を指示し、それに名づける名目である。
  例えば、「机」「草」「酒」「赤」「厚み」「悲しさ」「勉強」「こころ」「政府」
  などである。国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化
  および格語尾変化は無く、格の相違は助詞によって表示される。ヨーロッパ文典
  にならって普通名詞・集合名詞・物質名詞などの別を立て、また、いわゆる数詞
  を別の品詞として立てる説もあるが、日本語では特にその区別が必要・有用である
  という根拠は見出されない。従って本書では、それらの区別を一切記さなかった。
  また、本書には多数のヨーロッパ語を取り入れたが、それらは原語の品詞の如何を
  問わずすべて名詞として取扱った。本書は国語辞書であり、それらの単語は国語と
  しては文法的にはすべて名詞としてはたらくからである。例えば、ヒット、スチ
  ール、ゴチック、ロマネスク、シャン、アベックなど。
   名詞の中で問題になるのは世にいう形容動詞の語幹である。
    (1)静か のどか 明らか さわやか 綺麗 厳重 急 突然など
    (2)堂々 駸々 洋々 泰然 端然 断乎 確乎 縹渺など
  右の(1)は、「なり」「に」「な」「で」「だ」などを従えていわゆる「ナリ活用
  の形容動詞」を形づくり、(2)は「たり「たる」「と」「として」などを従えて
  「タリ活用の形容動詞」を形づくる。この形容動詞という一品詞を認めるか否か
  は、現代の学界に両説がある。形容動詞を認める説の根拠は、その語幹が文中で
  独立して用いられること無く、「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格
  に立つことが無く、連体修飾語を承けることが無いという点にある。一方、形容
  動詞を認めない説があるが、その論拠は次の通りである。まず、その語幹が独立
  して用いられることが全然無いとは言えず、例えば、「静」(しずか)という名前、
  「確か」という副詞、「ここもにぎやか、あそこもにぎやか」のような用法がある。
  また、われわれはその語幹を独立して思い浮かべることも出来る。元来、この語幹
  は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではそのような抽象的な
  属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していないために、それら
  が「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つことが無いに過ぎない。
  また、形容動詞語幹は連体修飾語を承けることが無いというが、世に名詞と信じ
  られているものも必ずしもすべて連体修飾語を承けるとはかぎらない。例えば、
  東・西・南・北・前・後などは連体修飾語を承けず、連用修飾語「少し」「やや」
  などを承ける。これら東・西・前・後などの語は、形容動詞語幹「静か」「のど
  か」「堂々」「突然」などと性質が同じである。このように考えればいわゆる形容
  動詞というものは、それらの属性概念を表す名詞に、指定の助動詞「なり」「たり」
  が付着して成立したものであると見られる。つまり、形容動詞の語幹は、意義と
  して用言的な属性概念をもつものではあるが、品詞としては名詞とも見られるもの
  である。それ故特別に形容動詞としう一品詞を立てる理由はない。本書は後者の
  見解に従い、形容動詞なる品詞を立てず、その語幹をすべて名詞として取扱った。
                        『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2300-2301

 

初めの段落の、

   国語の名詞には、文法的な単数・複数の別、男性中性・女性の変化および
   格語尾変化は無く

というところ、いかに西洋の言語の文法に頭が支配されているかがわかって面白いですね。「文法」のモデルは「ヨーロッパ文典」なのです。

 日本語を「他の言語」と比較して考えることは重要ですが、そこで中国語や朝鮮語インドネシア語が浮かぶことはない。タイ語ヒンディー語について何らかの知識のある「国文法学者」はほとんどいなかったでしょうし、今でもごく少数でしょう。(などと偉そうに書いている私も…)

外来語(「多数のヨーロッパ語」)は「すべて名詞として取扱った」というところに関しては、「2022-09-08 広辞苑の名詞:外来語」で疑問を述べました。「アーメン・グッバイ」などはどうなのか、という問題です。

 

さて、「名詞」の節で大きな分量を占める形容動詞に関する議論で、

  元来、この語幹は、いずれも情態的な属性概念を表す語であって、国語ではその
  ような抽象的な属性概念だけを主格や目的格に立てる表現法が古来発達していな
  いために、それらが「が」「を」などの格助詞を従えて主格・目的格に立つこと
  が無いに過ぎない。

というところはどう考えても無理があります。「主格・目的格に立つこと」がないのだったら、それはつまり名詞ではないということだと考えるべきです。名詞の最も中心的な文法的役割は、述語に対して「格」になることなのですから。

さらに「連体修飾語を承ける」かどうかという話で、「東・前」などは連体修飾語を承けないと書いていますが、「その建物の東」や「建物の前」などは連体修飾語を承けているのではないという言い訳が必要です。

そもそも、そのようなごく少数の「例外」と同じだから、形容動詞の語幹も名詞と見ることができるのだ、というのは、論理に大きな無理があります。

昭和三十年ごろは、この程度の議論で形容動詞否定論が成り立ったのでしょうか。

この第一版では、上に引用した「名詞」のところで形容動詞が扱われるだけで、「形容動詞」という小見出しの節はありません。それが、第五版になると「名詞」では少し触れられるだけで、「形容動詞」という節が立てられ、その中で議論され、結局否定されます。そして第七版では「名詞」のところでは形容動詞には触れず、「形容動詞」という節の中に「形容動詞否定論」という子見出しが立てられるのですが、はっきりしない議論の末に、形容動詞は名詞と同じように扱う、という結論がなぜか述べられます。
この「2022-08-31 広辞苑と形容動詞(3)」で引用した第七版の煮え切らない議論を見ると、上の第一版のほうがかえって否定論として筋が一貫していて読みやすく感じます。だから、反論しやすい。

第五版や第七版の「解説」は、形容動詞を否定する辞書本文は変えることができないので、その言い訳をなんとかしようとしている、という感じさえ受けます。

 

以上の形容動詞の話のすぐ後に、擬声語・擬態語の話が続きます。それも引用しておきます。

 

   なお、名詞として扱うべきものに象徴詞がある。「ちゅうちゅう」「ざわざわ」
  「ぴしゃぴしゃ」「こっそり」「ちゃっかり」「がたがた」「どろどろ」などの
  擬声語・擬態語は、物の音、動物の鳴き声、事態、感覚などを、人間の音韻によって
  擬する語で、国語には極めて多く行われる。これらは副詞としても用いられるが、
  堂々、断乎、突然などと同じく「と」「として」「な」「に」「で」「だ」などを
  従えていわゆる形容動詞の語幹の位置に立つことが少なくない。従って、それらの
  語と同じく、象徴詞は名詞の一類と認めるべきである。国語の名詞のうち、属性概念
  を示す語や、時・程度を示す語は、そのまま副詞として用いられるから、意味上、
  当然名詞と副詞とに両用される語は名詞・副詞と並記することを省いた。
                         『広辞苑 第一版』(1955)「国文法概要」 p.2301

  (以上で、「名詞」の解説の全部です。)

 

この部分は、「2022-09-09 広辞苑の名詞:擬声語・擬態語」でとりあげた第五版とほとんど同じです。そこで詳しく批判しました。はっきり言って、まったく箸にも棒にもかからないような「論」だと思いますが、いったいどうしてこのようなことが広辞苑の文法として書かれているのでしょうか。(第七版ではこの部分は削除されていますが、辞典本文の方針はこのままです。)