ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

夕方・夕暮れ・日暮れ

「夕方・夕暮れ・日暮れ」の三語はどう違うのか。ほぼ同じと言っていいか。国語辞典を見てみます。

新明解国語辞典から。

 

  夕方 日が西に傾いてから、あたりが暗くなるまでの間。夕刻。  新明解

 

「日が西に傾いてから」です。「暗くなる」というのは、どの程度をいうのか。

次に、明鏡国語辞典

 

  夕方 日が沈むころから夜になるまでの間。夕刻。夕暮れ。    明鏡

 

「日が沈むころから」で、新明解よりちょっと遅いですね。「あたりが暗くなる」のと「夜になる」は同じと言っていいでしょうか。

しかし、この明鏡の言い方だと、「日が沈む」のと「夜になる」のは違うことで、その間に「夕方」があることになりますね。ん? では、「夜」とは?

 

  夜 日没から日の出までの間。太陽が沈んで暗くなっている間。よ。  明鏡。

 

やっぱり、「日が沈」んだら、「夜」ですよね。うーん。どういうことなんでしょうか。

これは「夜」をどう定義するかという問題でもあるのでしょう。

日没で昼と夜を分けるというのはごく普通の考え方でしょう。しかし、そうすると「夕方」はどこにあるのか。日没の前後、「真昼」ほど明るくなく、本当の「夜」ほどは暗くない、その時間あたり。一部は「昼」に属し、一部は「日没後」、つまり夜に属す。そういうことなんじゃないでしょうか。

そう考えるなら、「夕方」を「夜になるまでの間」と言ってしまうと、混乱のもとになりかねない。(その「夜」は、「すっかり暗いとき」でしょう。日没きっかりから始まるわけではない。)

「あたりが(完全に)暗くなるまでの間」のほうがいいのでは。

 

三省堂国語辞典

 

  夕方 日が暮れ始めてから夜になるまでのあいだ。ゆう。〔気象では十五時ごろ
     から十八時ごろまで〕(⇔朝方)  三国

 

「日が暮れ始めてから」というのは、「日が西に傾いてから」と同じと言っていいかどうか。「沈む」よりは前ですね。(「気象では」ずいぶん早いですね。3時ごろからですよ。)

三国も「夜になるまでの」としています。この「夜」は日没からなのか。日が沈んでもまだ空が(多少)明るいとき、それは「夕方」ではないのか。

 

岩波国語辞典。

 

  夕方 日のくれがた。夕刻。⇔朝方。  岩波

 

「日のくれがた」というのは、「日が暮れる」ころ、と考えると、

 

  暮れる ①日が沈んで暗くなる。夜に入る。   岩波

 

「日が沈んで暗くなる」ころ、となり、多少遅い感じですか。あんまりはっきりしません。


次は、「夕暮れ」と「日暮れ」をまとめて。

 

  夕暮れ 日が沈み、あたりが一面に薄暗くなるころ。「-どき」 

  日暮れ 夕暮れ。夕方。⇔夜明け               新明解

 

「夕方」は「日が西に傾いてから」でしたから、「夕暮れ」の「日が沈み」のほうが少し遅いようです。でも、「日暮れ」は「夕暮れ。夕方」と同じ。ふむ。結局、どうなんでしょうか。

また、「夕方」の「暗くなるまで」と「夕暮れ」の「薄暗くなるころ」を比べると、「夕方」のほうが遅くまで続くようです。「夕方」のほうが範囲が広いということでしょうか。
       
  夕暮れ 日の暮れる頃。日暮れ。「━時」
  日暮れ 太陽の沈むころ。夕暮れ。夕方。    明鏡                           

 

明鏡も「夕暮れ」と「日暮れ」は同じで、つまり「日の暮れる頃」と「太陽の沈むころ」は同じ頃を言っているのでしょう。そして、「日暮れ」は「夕方」でもある。まだ「夜」ではない。
       
  夕暮れ 日がおちて急に暗くなるころ(の時刻)。日暮れ。
  日暮れ 太陽がしずんで暗くなりかけるとき。「-方がた」(⇔夜明け)   三国

 

「急に暗くなる」と「暗くなりかける」。「日暮れ」のほうが早いのでしょうか。でも、「夕暮れ」は「日暮れ」と同じらしい。

一方、「夕方」は「夜になるまで」なので、新明解と同じく「夕方」のほうが範囲が広いようです。

 

  夕暮(れ) 日ぐれ。たそがれ。「―時」
  日暮(れ) 夕暮。夕方。         岩波

 

岩波は単純明快。みな同じ、ということのようです。でも、「夕暮れ」の語釈(?)に「夕方」はなく、「日暮れ」には「たそがれ」はありません。そこが違い? 「夕方」にあった「夕刻」はどうなったのでしょうか。

 

  夕刻 日ぐれどき。夕方。「―家にもどった」  岩波

 

つくづく、岩波というのはこういう「国語辞典」なのだなあ、と感じます。

一つ一つの語についてじっくり考え、他の類義語と比べた結果、こういう語釈、用例をつけた、という印象をまったく受けません。それぞれ、その場で思いついたことを書いた結果、という印象を受けます。ちょっと言いすぎでしょうか。(他の辞書も同じだ、と言えるのかもしれませんが、なんとなく、岩波には他の辞書との違いを感じます。特に、こういう、「考えるまでもない」日常語の扱いに関して。)

 

さて、結局、これら3語は同じようなものだ、ということになってしまいそうですが、新明解と三国の語釈から感じた、「夕方」は「範囲が広い」のではないか、ということをはっきり書いた辞書があります。小学館日本語新辞典です。

 

  日が沈んだ薄暗いころをいう語として「夕暮れ」「日暮れ」「暮れ方」があり、(略)
  時間的にはいずれもほぼ同じころをさす。「夕方」は時間的な幅がそれらよりやや
  広く、太陽が地平線に近づいているがまた明るさのあるころも含まれる。

                  小学館日本語新「夕方」の項の[類語]から

 

これが正しいかどうかは、実際の使われ方を広く調査する必要がありますが、私の直感ではこんなところかなあ、と思います。

 

「夕暮れ」「日暮れ」は「時間的にはいずれもほぼ同じころをさす」とする小学館日本語新に対して、そうじゃない、という辞書もあります。講談社類語大辞典。

 

  日暮れ 「日の暮れ」の略。「~までに帰ってらっしゃい」⇔夜明け

  日の暮れ 日が暮れるころ。  

  夕暮れ 日暮れからしばらくたって暗くなるころ。「どこから出てくるのか、
      ~にはこうもりがあたりを飛び回った」

  夕方 日没から、灯をともすまでの間。「~の勤行を欠かさない」「~から雨が
     降るそうだ」                講談社類語大 

 

そうでしょうか。「夕暮れ」は「日暮れからしばらくたって暗くなるころ」ですから、「日暮れ」はまだ暗くないはずです。しかし、「日が暮れるころ」ですから、どんどん暗くなっていくはずです。矛盾していないでしょうか。

「夕方」が「日没」の後だというのは初めて聞く説です。「夕方から雨が降る」というとき、日没後の雨? では、「夕立」は日没後に降る雨か。

 

  夕立 夏の夕方に、ざっと降ってやむ雨。「~にあってずぶぬれになった」
                           講談社類語大

 

夏の5時、6時ごろに雨が降っても、まだ「日没」前だから(太陽は見えませんけど)「夕立」とは言えない、と言うのでしょうか。

いや、そもそも「夕日」って、「夕方の太陽」ですよね?

 

  夕日 夕方、沈んでゆく太陽。「~に向かって走る」  講談社類語

 

「日没から灯をともすまでの間」の太陽、って、どう考えても矛盾しています。

 

これらの語に関しては、類語大辞典はどうも変なことになっていると私は思います。
どうしたんでしょうか。編者は本当にこれでいいと思っている?


その他の、これら3語の多少は違うんじゃないかと思われる点をいくつか。

まず、「夕方」がもっともよく使われる日常語であること。(たとえば、幼稚園児が「夕暮れ」「日暮れ」と言ったら、ちょっと驚きます。ちょっと大人ぶって「日暮れだね」などと言うのもかわいいですが。)

岩波によれば「夕刻」も「夕方」も同じですが、「夕刻」は書きことばでしょう。三国は[文]としています。

また、「夕方」は副詞的な使い方がごく自然にできます。「夕方、川原を散歩した」のような。「夕暮れ」も言えるでしょうか。「日暮れ」は無理でしょう。「日暮れに」とするか。

「夕暮れ」と「日暮れ」は、「夕暮れ時」「日暮れ時」という言い方ができます。「夕方時」とは言わないでしょう。「日暮れ方」「夕暮れ方」もある。「夕方方」はない。

「日暮れ」は、「秋、日暮れがだんだん早くなる」と言います。「夕暮れが早くなる」とも言いますが、「日暮れ」のほうが、「一日(昼)の終わり」という感じがして、ぴったりします。「夕方が早くなる」とはあまり言わないでしょう。

こういう、その語が何を指すか、ということ以外の情報、文法・文体的な差とか、複合語形成の違いとかをはっきり示してほしいと思います。