ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

2021-10-01 岩波国語辞典と「形容動詞」

国語辞典と形容動詞の話の続きです。次は岩波国語辞典。

岩波(の編者)は巻末付録の「語類概説」の中で、

 

  以上の通りこの辞典では、形容動詞かと思われる場合には、かなり細かい検討をした。(p.1701)

 

と自ら書いているように、いろいろと細かい区別をしています。ただし、その結果、わかりやすく、使いやすくなったかと言うと、そうも言えないのは残念なことです。

岩波の考え方を紹介し、その問題点を考えます。

 

まず、その「語類概説」について。
                                 
岩波国語辞典の一つの長所は、付録に語構成と文法(品詞)の解説があることです。

第六版(2000)では「語構成概説」が4ページ、「品詞概説」が5ページでした。

現在の第八版(2019)の「語構成概説」は、最後に「図解」のようなものが増えたほかは同じです。

しかし、「品詞概説」のほうは、「語類概説」という名前に変えられ、6ページと少しになりました。つまり、八版(七版から)は六版より少し詳しくなっているわけです。増えた部分は「名詞・代名詞」と「副詞」が主ですが、それ以上に初めの部分が大きく変わっています。

六版の「品詞概説」の初めの部分を見てみます。

 

   現状では品詞の立て方は学者によってかなりまちまちである。しかし大筋では大体同じような所に落ち着くと見てよい。本書で採った品詞分類も、ほぼその線に沿っている。
                 岩波第六版 品詞概説 p.1318

 

この「大筋」に沿う、ということは、つまり「学校文法」の品詞分類を大筋では取り入れる、ということです。(ただし、「形容動詞」については独自の分類をしていました。その話は後述。)

 

では、八版の「語類概説」はどうかというと、

 

   現状では品詞の立て方は学者によってかなりまちまちである。大筋では同じような所に落ち着くと見ることもできようが、それは妥協の産物であり筋が通らない点が多い。
   学校文法でお馴染みの品詞分類には、実際の文章に当てはめると、まずい所がいろいろ見つかる。これを考慮してこの辞典の見出しには通例とやや変わった語類表示を与えてきた。その語類とは品詞を拡張した概念で、文法上同じ用法の語が同じ語類に属することを企てる。この企ては語のどんな特性に着目するかに依存する。それゆえ、従来の品詞と対照する述べ方で、(それは従来の品詞がごく大まかな語類分けと見られるからであるが、)この辞典の語類について解説しよう。このような語類の採用は用法の記述を精密にする。
                 岩波第八版 語類概説 p.1700
 

六版では「大筋では大体同じような所に落ち着くと見てよい」と言い切っていたのが、「~に落ち着くと見ることもできようが」と方向を変えられ、「妥協の産物」とか「筋が通らない点が多い」とか、「まずい所がいろいろ見つかる」など、正反対のことを言っていて、面白いです。

そして「従来の品詞と対照する述べ方で、(略)この辞典の語類について解説しよう。このような語類の採用は用法の記述を精密にする。」と自画自賛し、解説を始めます。

以上の部分は第六版までにはなかったものです。

なんでこんなに態度が変わったのか。

 

第七版(2009)からこの書き方になっています。これを書いたのは、編者の水谷静夫でしょう。

国語学者(言語学者と言うべき?)で、1926生、2014没。岩波新書に『曲がり角の日本語』(2011)という本があります。

Wikipediaの「水谷静夫」には、

 

  早くから、言語学統計学的手法を導入して論ずる計量言語学、さらには数理言語学、計算言語学の分野を国語学においても確立するため、コンピュータの導入による日本語の自然言語処理を論じ(まだコンピュータといえば大型コンピュータという時代であった)、その普及に貢献した。大野の語彙法則を統計学的に整理改訂し、一般化したことでも知られる。

 

ということが業績として述べられています。「計量国語学」です。

意味論や文法論に関しても独自の理論を持つ研究者でした。

 

岩波国語辞典の編者は、第七版までは表紙に3人の名前が書かれていました。西尾実岩淵悦太郎水谷静夫です。これは、私が持っているいちばん古い版である第二版(1971)から変わっていません。

六版までの「品詞概説」を書いたのが誰かはわかりませんが、(少なくとも初めの部分は)西尾・岩淵の考え方が反映していたのでしょう。

第七版の「あとがき」によれば、西尾・岩淵の二人は1970年代に亡くなっているので、1986年の第四版からは水谷静夫が中心になっていたわけです。ですから、「品詞概説」を書き直すならもっと早くできたはずですが、遠慮していたのでしょうか。

 

さて、形容動詞の扱いの問題です。

上に、『曲がり角の日本語』岩波新書 (2011)という本の名前を出しました。その本の中に、「私の師匠である時枝誠記」という語句があるのを見て、なるほどと思いました。時枝は有名な国語学者で、「形容動詞否定論者」です。

時枝の『日本文法 口語篇』(1950)には、

 

  本書では、形容動詞の品詞目を立てなかった。そこで、従来、形容動詞として取扱はれて来た語をどのやうに説明するかを明かにする必要がある。(p.108)

 

とあり、形容動詞否定論が述べられています。

その時枝を「師匠」とする水谷静夫もまた、形容動詞否定論者です。水谷は1951年に「形容動詞辨」という形容動詞否定論の論文を書いています。もう70年前ですね。

で、本心としては形容動詞なんて認めたくないのでしょうが、岩波国語辞典では形容動詞という品詞を立てています。立てざるを得なかった、というところでしょうか。
そのかわり、いろいろと細かく検討し、形容動詞と(それに関連する)名詞、副詞の細かい下位分類をしています。

その話はまた、次回に。

 

付記:

今回の記事の「語類概説」の部分は、「2020-02-27   岩波八版:「語類概説」」として書いたことの焼き直しです。

 

付記2:

なぜかわかりませんが、記事の日付が「2020-2-27」になってしまって直りません。

記事名に日付を入れておきました。

 

新明解と形容動詞:「-な-に」/「-な」

前回の続きで、新明解国語辞典の形容動詞の扱いについての話です。

新明解は「形容動詞」という品詞を独立した品詞として認めていません。
例えば「きれい」は、基本的に名詞で、

  きれい -な-に

と表示され、

  名詞(品詞無表示)のほかに連体形に「な」、連用形に「に」の用法

を持つもの、とされます。

もう少し例をあげると、

  遺憾  粋  意地悪  異常  偉大  いちず  一生懸命  異様

などが「いわゆる形容動詞の用法」を持つものとされ、「-な-に」の表示があります。

ここで新明解の興味ぶかいところは、上の「-な-に」という表示とは別に、

 

  -な-に  名詞のほかに連体形に「な」、連用形に「に」の用法
  -な    右のうち、一般には連体形の用法だけのもの
   (原文縦書き 「右」とはここでは「上」を指す)   新明解「編集方針」から

 

という区別を立て、「-な」だけのものも示していることです。

これは、他の国語辞典ではどちらも単に「形容動詞」として区別されていないものです。

例えば、

   異質  異色  嫌味  色白  淫乱  腕利き  浮気  うわて

などがこの「-な」の表示を与えられています。(これらはみな、三省堂国語辞典では「形動」とみなされているものです。)

つまり、三国や、他の多くの国語辞典では区別されずに「形容動詞」とされているものが、新明解では「-な-に」と「-な」の二つのグループに分けられているということです。

これは、非常に大きな、有益な情報(であるはず)です。

 

ただし、この場合の連用形「-に」の用法とはどういうものか、が問題です。

上の(「-な」だけとされた)「異質・異色・嫌味・色白」などは「-に」の形では使えないかというと、そうでもありません。

  異質に見える  異質に感じる  異質になる
  異色に見える  異色に感じる  異色にする 
  嫌味に聞こえる  嫌味になる  嫌味に感じる  嫌味に思える
  色白になる  色白にする  色白に見える  色白に見せる

など、「-に」になる例は実際にあります。(NINJAL-LWP for TWCによる)

さて、どう考えたらいいのでしょうか。

これらの「-に」は「編集方針」でいう「連用形「に」の用法」と見なされないのでしょうか。もしそうなら、なぜそう考えるのかという議論(説明)が必要です。

 

上の新明解「編集方針」の、「右のうち、一般には連体形の用法だけのもの」とはいったいどういうことなのか、具体的な(詳しい)説明がどこかにあるべきなのですが、それはどこにもありません。(そもそも、なぜ「形容動詞」という独立した品詞を認めないのかということも。)

新明解には、明鏡の「品詞概説」(5ページ分)や岩波国語辞典の「語類概説」(6ページ余)に当たるものが何もないので、品詞分類について編集者がどういう(独自の)考えを持っているのか、前々回に引用した「編集方針(細則)」以外の情報がないのです。(品詞分類についての説明がないことは、三国も同じです。ただ、おそらく三国はいわゆる学校文法とほとんど同じなのだろうと思われます。)

まったく、困ったものです。

 

新明解と「形容動詞」

前回の記事で、新明解国語辞典は「形容動詞」という品詞を認めていない、という話を書きました。

品詞の略語表には他の辞書の「形動」に当たるものはなく、巻頭の「編集方針」に、

 

  名詞・副詞のうち、サ変動詞またはいわゆる形容動詞としての用法を併せ有するもの

 

という言い方で、「いわゆる形容動詞」の語にはどういう表示をするかが書かれています。あくまで「名詞・副詞のうち」の一部です。

 

では、辞典本文の「形容動詞」の項ではどう説明されているのでしょうか。

 

   形容動詞 〔日本語文法で〕品詞の一つ。物事の性質・状態を表わすのに用いられる言葉。用言の一つで、口語では「静かだ」「きれいだ」のように、言い切る時の形が「だ」で終わる言葉。〔形容動詞を一品詞とせず、体言に助動詞「だ・な」が結合したものと見る文法学説もある〕  新明解

 

カッコの中の補足説明が面白いです。「~文法学説もある」などと他人事のように書いていますが、新明解がその立場なのは明らかです。

 

しかし、国語辞典として、形容動詞という用語を他にも使わずに済ませるわけにはいかないのです。

巻末に「付録」として、「口語動詞活用表」の次に、「口語形容詞・形容動詞活用表」(p.1717)というものがあります。

 

品詞としては名詞あるいは副詞である語で、「いわゆる形容動詞としての用法」も持つものの活用表です。ちょっと苦しい話です。

 

名詞は断定の助動詞「だ」がつきます。その「だ」の活用は「口語助動詞活用表」にあるのですが、それとともに「形容動詞」の活用も併せ持つことになります。

 

「口語助動詞活用表」から「断定」の「だ」の活用形 (p.1719)

  未然形  連用形 連用形  終止形  連体形  仮定形 

  だろ   で   だっ   だ    (な) (なら)

 

「口語形容詞・形容動詞活用表」から「形容動詞」の活用形 p.(1717)

  未然形  連用形 連用形  終止形  連体形  仮定形 

  だろ   で/に だっ   だ    な    なら

 

違いは、連用形「に」と、連体形・仮定形のカッコの有無です。このあたりの説明は、新明解には何もありません。

 

この、活用の違いの問題、さらにはそもそも名詞と形容動詞の違いとは、という話になると、かなり面倒なことになるので、今回は踏み込みませんが、国語辞典として基本的なところは説明しておいてほしいところです。

形容動詞という品詞を認めないというのは、それはそれで一つの立場ですが、それについて何の説明もないのはよろしくありません。

 

なお、「口語助動詞活用表」の他のところを見てみると、「活用の型」には「形容動詞型」という用語があります。「ようだ・みたいだ・そうだ」が該当します。

これらの助動詞は、「だ」がついているのですが、その活用は「断定」の「だ」とは違い、「形容動詞」と同じ型になる、ということです。

 

さらに、その「接続(一)」にも「形容動詞の語幹」(に接続する)という言い方が出てきます。

こういう活用表の説明には、形容動詞という品詞名を使わざるを得ないのですね。

 

新明解は、文法を専門とする編集者はいなかったようで、以前は文法関連の用語の説明が不十分だったのですが、第七版から井島正博という文法研究者が加わったので、あちこちの文法的な説明が詳しくなりました。(特に「こそあど」「のだ」がすごい。)

この形容動詞関係のことも将来的には何とかするのでしょうか。

 

新明解の副詞:くたくた・ぐたぐた

新明解国語辞典の副詞「くたくた」と「ぐたぐた」の記述について、細かい話ですが。


まず「くたくた」から。明鏡国語辞典と岩波国語辞典の記述も並べます。

 

  くたくたⅠ-な-に 1まともに立っていられないほど、くたびれきっている様子。  
           「朝から歩きどおしでもう-だ/-の からだをやっと起こす」
       2〔布などが〕古くなって、張りを失っている様子。「-になった着物」
       〔強調表現は「ぐたぐた」「ぐだぐだ」〕    
      Ⅱ(副)-と ぐたぐたⅠ。                          新明解

 

   副トニ 1使い古して張りがなくなったさま。「着古して━になったスーツ」
       2疲労でぐったりしたさま。「━に疲れる」
       3物がよく煮えて軟らかくなりすぎたさま。「野菜を━になるまで煮る」                        

                               明鏡

 

  〘副[と]・ノダ〙①非常に疲れたさま。ぐたぐた。「通勤で―になる」「―と椅子に座り込む」
      ②形が崩れるほどになったさま。「着物が―になる」「―に豆を煮こむ」  

                               岩波

 

まず品詞の問題から。

明鏡と岩波は「副詞」としていますが、新明解のⅠ「-な-に」とはどういう品詞でしょうか。国語辞典の品詞表示としては非常に特殊な感じを受けます。

前に「大層」をとりあげた時にも書いたことですが、新明解の品詞分類は一般の品詞分類とは違っています。(「2021-7-18 大層」)

新明解はいわゆる「形容動詞」を一つの品詞として認めていません。そのことは「編集方針」にはっきり書いてあります。

 

 『新明解国語辞典 第八版』(2020、p.11)「編集方針」「細則」から  
  29名詞・副詞のうち、サ変動詞またはいわゆる形容動詞としての用法を併せ有する    ものは次のごとく扱った。
     -する   名詞のほかにサ変動詞の用法 
     -な-に  名詞のほかに連体形に「な」、連用形に「に」の用法
     -な    右のうち、一般には連体形の用法だけのもの
     -たる-と 名詞のほかに連体形に「たる」、連用形に「と」の用法
     -と    右のうち、一般には連用形の用法だけのもの
     -な-する 名詞のほかにダ活用形容動詞とサ変動詞の用法
     -と-する 名詞のほかにタルト活用形容動詞とサ変動詞の用法
    ただし、右の用法は雅馴と認められるものに限り、網羅を宗とはしなかった。
             (原文縦書き。「右」とあるのはここでは「上」のこと)

 

一般の「学校文法」では、「形容動詞」は「名詞」「副詞」とは違う品詞ですが、ここでは「名詞・副詞のうち」とあるように、その中のあるものが「いわゆる形容動詞としての用法」を「併せ有するもの」と見なされているだけです。「用法」にすぎず、一つの「品詞」ではないのですね。

新明解の品詞表示は、副詞は(副)として示されますが、名詞の表示は省略されます。つまり、品詞表示が何もなければ名詞と見なされるわけです。

新明解の表紙の裏側に「記号・略語表」というものがあります。そこの「品詞略語」には、

   無表記  名詞と、いわゆる連語・句

とあります。

 

例えば「きれい」は、

  きれい -な-に

で、品詞名無表記、つまり名詞です。そして、「いわゆる形容動詞としての用法を併せ有するもの」です。(したがって、新明解は「学校文法」を習っている小学生・中学生には勧めにくい辞書です。)

 

なお、上の引用では「名詞・副詞のうち」と言いながら、名詞の場合しか説明していません。すべて「名詞のほかに~」ですね。

副詞の場合は、例えば「大層」「当然」「ゆっくり」だと、

  たいそう(副)-な
  とうぜん(副)-な-に
  ゆっくり(副)-と-する  

のようになります。

「たいそう」は、まず副詞で、「-な」という「いわゆる形容動詞」の連体修飾の形も「併せ有する」ということを示しています。

 

これらは、三省堂国語辞典だと、次のような品詞表示になります。

  たいそうⅠ(形動ダ)  Ⅱ(副)
  とうぜん(副・形動ダ)
  ゆっくり(副・自サ) 

「大層」は、意味の違いにより、形容動詞と副詞に分けられます。「当然」「ゆっくり」は品詞による意味の違いはないとみなされ、違う品詞が一つにまとめられています。

 

さて、新明解の「くたくた」の話に戻ると、この「Ⅰ-な-に」とは、この用法では「名詞」であり、「いわゆる形容動詞」の連体形と連用形の用法も併せ有するということを示しています。

「くたくた」は名詞だそうです。「きれい」「はなやか」などが名詞だという説は昔からあるのですが、「くたくた」のような語も名詞としてしまうと、「名詞」という品詞が膨らみすぎるように思うのですが、どうなんでしょうか。名詞の中の下位分類が非常に複雑にならざるをえませんが、そこまでは考えていないのでしょう。

 

用法のⅡに移ります。

 

  Ⅱ(副)-と ぐたぐたⅠ。  新明解

 

副詞としての用法で、「-と」の形をとります。「ぐたぐた」のⅠと同じだそうです。

新明解の「ぐたぐた」の項は、第七版と八版で違いがあります。

 

 ぐたぐた (副)-と 1原形が損なわれるほど十分に煮込む様子。
           2くだくだ。「-言っとったよ」      新明解第七版

 ぐたぐた Ⅰ(副)-と 1原形が損なわれるほど十分に煮込む様子。
            2くだくだ。「-言っとったよ」     
      Ⅱ -な-に 「ぐたぐたⅠ1」に同じ。「-になるまで煮ます」 新明解第八版

 

第七版では「(副)-と」の用法だけです。1の「煮込む」と、2の「くだくだ言う」の用法です。

第八版では、それに「-な-に」の用法が加わります。「いわゆる形容動詞」の用法ですね。
用例は「ぐたぐたに」の形をあげています。
(この用法の品詞は何かというと、「くたくた」と同じ名詞のようです。副詞の用法は、「Ⅰ(副)-と」あるように、Ⅰに限られます。したがって、無表記のⅡは名詞のはずです。)

 

さて、「くたくた」のⅡは「ぐたぐた」のⅠと同じ、ということは、省略せずに書くと次のようになるわけです。

  くたくた Ⅱ(副)-と 1原形が損なわれるほど十分に煮込む様子。
             2くだくだ。「-言っとったよ」 

問題点が二つあります。

一つは、「くたくた」に2の「くだくだ」の意味があるか、ということです。

 

  くだくだ (副)-と 取るに足らない事をとりとめもなく述べ続ける様子。ぐたぐた。くどくど。  新明解

 

例えば、

  くたくた言っとったよ

こういう言い方があるでしょうか。私の語感ではだめですし、他の辞書の「くたくた」の項にはこの用法が書かれていません。

Yahooで検索すると16件ありましたが、これを一般的な言い方と言えるかどうか。(「くたくた言う」で検索。「くたくたと言う」とすると、「『くたくた(だ)』と言う」の意味でたくさん使われていますが、これは「くだくだ(と)言う」とは違います。)

 

もう一つは「煮る」場合の助詞の問題です。

新明解によれば、「くたくた(と)煮込む」という言い方をすることになりますが、明鏡と岩波は「に」の形の例をあげています。

 

  物がよく煮えて軟らかくなりすぎたさま。「野菜を━になるまで煮る」  明鏡

  ②形が崩れるほどになったさま。「着物が―になる」「―に豆を煮こむ」  岩波

 

明鏡の例は、「煮る」にかかるのではなく「くたくたになる」ですが。

新明解の記述からは、「くたくたに(なるまで)煮る」という言い方は出てきません。ごくありふれた言い方です。この用法も書いておくべきでしょう。

 

ただ、「ぐたぐた」のⅡには「-になるまで煮ます」という用例があるのですね。このⅡは「-な-に」、つまり形容動詞としての用法です。

 

「くたくた」の「Ⅰ-な-に」にもこれと同じように書けばいいのです。

  3原形が損なわれるほど十分に煮込む様子。「-になるまで煮ます」

そして、Ⅱには、

  Ⅱ(副)-と 「くたくたⅠ3」に同じ。「-(と)煮る」

とすればいいわけです。「ぐたぐた」を参照しなくてもいい。

 

同じ項目の中で、品詞の違うものを参照項目とするということは、新明解はよくやっています。

例えば、

 

  べと べと(副)-と-する Ⅰ表面がねばついたり 湿気を帯びたり したような状態になっていて、さわると不快に感じられる様子。「梅雨時は家中どこも-する」 
       Ⅱ-な-に 「べとべとⅠ」に同じ。「床が油で-になる」  新明解第八版

 

このⅡの用法は、「ぐたぐた」のⅡと同じように、第八版で加えられたものです。

 

  べと べと(副)-と-する 表面がねばついたり 湿気を帯びたり したような状態になっていて、さわると不快に感じられる様子。「梅雨時は家中どこも-する」  新明解第七版

 

新明解の擬態語には、副詞とされて「-に」の用法が忘れられていたものがけっこうあったようです。

 

  ざらざら(副)-と-する 肌ざわりや舌ざわりがなめらかでなく、細かなひっかかりが感じられる様子。「表面が-した紙/砂ぼこりで-の床(ユカ)」⇔すべすべ   新明解第七版

  ざらざら⇔すべすべ Ⅰ(副)-と-する 肌ざわりや舌ざわりがなめらかでなく、細かなひっかかりが感じられる様子。「表面が-した紙/砂ぼこりで-した床(ユカ)」
    Ⅱ-な-に「ざらざらⅠ」に同じ。「-の紙/手があれて-になる」  新明解第八版

 

第八版では、Ⅱとして、形容動詞の用法が書き加えられています。次も同様です。

 

  かさかさ(副)-と-する 1(略) 2(略)  新明解第七版

  かさかさ Ⅰ(副)-と-する 1(略) 2(略))
       Ⅱ-な-に「かさかさⅠ1」に同じ。(略)  新明解第八版

 

「さらさら」「がさがさ」でも、第七版と第八版で同じような違いがあります。他にも同様の例がたくさんあるのでしょう。改訂で記述が改善された例です。

「くたくた」の場合は、以上のような改訂がどうもうまくいっていないようです。どうしたのでしょうか。

 

いつもとりあげる三省堂国語辞典をまだ見ていませんでした。

 

  (形動ダ)1からだがひどくつかれて、力がぬけたようす。「働いて-になる」2形のくずれたようす。「-な背広・-になるまで煮る」  三国   

 

三国は「くたくた」を形容動詞としています。しかし、そうすると、「くたくたと煮込む」という形が導けませんし、岩波の用例「―と椅子に座り込む」もはじかれてしまいます。

やはり、「くたくた」には「副詞-と」という品詞の用法を認めることが必要だと思います。

なお、三国と明鏡には「ぐたぐた」という項目はありません。これも、あったほうがいいと思います。(「くだくだ」と「ぐだぐだ」という形もあって、まったく面倒な話ですが。)

 

またまた・またしても:続き

前回の続きです。前回は、新明解国語辞典の「またまた・またしても」の解説があまりにも興味ぶかくて、それだけのほうがすっきりすると思い、短い記事にしました。

今回は他の国語辞典の「またまた」と「またしても」を一通り見てみます。

まずはいつもとりあげる三冊、明鏡と岩波と三国を。


 明鏡国語辞典
  またまた  またしても。またもや。「━驚かされた」「▽復▽復」とも。
  またしても  同じ事が繰り返されるさま。またも。「━一回戦で敗れた」

 岩波国語辞典
  またまた  〘副〙以前にも起こった上に、かさねて。またしても。「―延期だ」
  またしても  〘連語〙《副詞的に》またまた。重ねてまた。「―あいつのしわざか」

 三省堂国語辞典
  またまた  またかさねて。「-ごめいわくをおかけします・-忘れてしまった」
  またしても  さらに。かさねて。またも。「-しくじった」

 

三冊とも「またまた」も「またしても」も同じような意味を表す、という解釈のようです。

その他の多くの辞典もほぼ同じです。

 

 旺文社国語辞典
  またまた  (「また」を強めていう語)またしても。「-記録を更新する」 
  またしても  またまた。かさねてまた。「-出遅れる」

 新選国語辞典
  またまた  [「また」の強め]なおまた。かさねて。「-失敗に終わった」
  またしても  かさねて。またぞろ。「-失敗か」

 三省堂現代新国語辞典
  またまた  かさねてまた。「-失敗」
  またしても  またまた。またもや。「-失敗に終わった」

 学研現代新国語辞典
  またまた  「また」を強めたことば。またもや。またしても。「-難問だ」 
  またしても  「また」を強めていう語。またまた。またもや。「-後れをとった」

 デジタル大辞泉
  またまた  「また」を重ねて強めた言い方。またもや。「―失敗に終わる」
  またしても  繰り返されるさま。またまた。またもや。「又しても優勝を逸してしまった」

 

以上、みな「またまた」「またしても」のどちらも同じようなものである、という解釈です。いわば多数派ですが、多数派の考えが正しいとは限らない、というのは世の中と同じでしょう。

 

次の四冊は少数派で、「またしても」には「のぞましくない・そうあってほしくない・このましくない・二度とあっては困る」同じことが起こる、という意味合いがあるとしています。

 

 集英社国語辞典
  またまた  さらに重ねて。なおもまた。
  またしても  (そうあってほしくない)同じことがくり返されるさま。重ねてまた。またもや。「-敗れた」

  小学館日本語新辞典
  またまた  前にあったのと同じ事態がもう一度起きることを強調していう。さらにまた。[例]会場はまたまた大混乱に陥った/またまた御迷惑をおかけ致しまして申し訳ございません。
  またしても  好ましくない、同じような状態がもう一度繰り返されるさまを表す。[例]またしても優勝を逃した。

 現代例解国語辞典
  またまた  更に重ねて。なおも再び。「またまた失敗した」 
  またしても  二度とあるまい、または二度とあっては困る、と思うことが、再び繰り返されるさま。またまた。またもや。「またしても抽選に漏れてしまった」 

 例解新国語辞典
  またまた  「また」を強めていうことば。同じようなことをさらにかさねて。[用例]なんども注意されたのに、またまたへまをやった。[類]またしても。またもや。
  またしても  「また」を強めていうことば。[用例]またしてもやられた。[類]またもや。またまた。[表現] のぞましくないことがくり返される場合に、いまいましい気持ちをこめていうことが多い。

 

どうでしょうか。「またしても」にはそのような意味合いがあり、「またまた」にはない、と。

そうはいっても、それぞれの辞書の「またまた」の例文も、多くは同じような「好ましくない」ことが多いようです。

 

実例を見てみましょう。「NINJAL-LWP for TWC」というものを使います。しろうとにも使いやすい書きことばコーパスです。

「またまた」を検索して、その中で「またまた+動詞」を見ると、「やる」の例が最多です。(29件)短い例文から並んでいるので、初めのほうを少し。

 ・またまたやられた〜!
 ・またまたやりました!
 ・またまたやってきました。
 ・またまたやって参りました。
 ・本日もまたまたやりました!
 ・またまたやられちゃいました。
 ・またまたやられた感満載である。
 ・またまたやります、『星に願いを!
 ・またまたやってしまいました。
 ・またまたやらせていただきましたァん!
 ・またまたやってきました爪切りの季節。
 ・またまたやってきましたロボットの季節。

好ましくないことも、そうでないこともあるようです。
他の動詞は「驚く」「行く」「出る」などです。「感動する」や「感心する」もあり、これらはどう見ても「好ましくない」ことではないですね。「同じことが繰り返される」ことに重点がある。

 ・本当に良いお話しに又々感動しました。
 ・以上、またまた感動し、私も亡き父と母に思いをはせています。
 ・歳内選手の 温かい思いやりに またまた感動しております・・。
 ・ひっそり一人でその後夜の月をみて、またまた感動して涙が出たのです。
 ・その逃げ足の速いのには又々感心しました。
 ・さすがおばさん化していると、またまた感心してしまう。
 ・こんな館をよく見つけてきたなとまたまた感心してしまう。
 ・父親に自分が何をしているのかきちんと報告するKちゃんにわたしはまたまた感心しました。

 

では、「またしても」はどうか。

「またしても」は、このデータベースでは単語と見なされていないようで、検索しても出てきません。しかたがないので「また」で検索して、そこの「また+動詞」の「する」の例を見ると、「またしても」の例がけっこうたくさんありました。

ちょっと多めに拾ってみます。

 

 ・私の足元に又しても魔法陣が出現した。 
 ・夕方は又しても、ご近所のオリーブさんへ。 
 ・でも又しても起こしてしまったリンママです。 
 ・結構大きめだったので、又しても満腹になった。 
 ・そのタイミングたるや、又しても絶妙であった。 
 ・そして、そこから又しても暴落が始まったのです。 
 ・ペルーとボリビアは、又してもチリとの戦争に及ぶ。 
 ・分かって一体感を味わえ又しても不思議な世界でした。 
 ・その頃、黒太郎は、又しても、愛々と踊らされていた。
 ・なんだかんだ言って唯一の常識人千明が又しても中心に。 
 ・う〜ん又しても、100%の成果は出なかったようです。 
 ・その先から林道は右へカーブしたら又しても決壊していた。 
 ・頭の狭い中で、決闘が又しても繰返されているようである。 
 ・彼は又しても僕にとつて、永遠に燃えつづける現在なのである。 
 ・それでもテープに従って進むと又しても蜘蛛の巣がひっかかった。 
 ・そう思い定めて十五年、神様は又しても大きな試練を私に課した。 
 ・そうした騒ぎの後、戸仁井は又してもグッドアイデアを思い付く。 
 ・その言葉にピタリと歩を止め、ザックスは又してもニヤッと笑った。 
 ・ウォルマートからの帰り道、又しても交通事故を目撃してしまった。 
 ・受けた傷も癒えたところに、チェンティの策略が又しても英風を襲う。 
 ・正午過になつて再開された幹部会でハ又しても同じ論議が繰返された。 
 ・お気付きの方もいらっしゃると思いますが、又しても入金確認出来ず。 
 ・それが、又しても上海風モダーンインテリアの中では異彩を放っている。
 ・英風は彼のピンチを助けるが、又しても黒竜党の手の者が襲撃を開始した。
 ・ラスト、あやかし三行者が消え、又しても新しい忍者を呼び寄せる風魔烈風。
 ・どうにかして大きくまとまるといいのに、と思うと又しても腹が立ってくる。
 ・森の中に逃げ込んだホルスの前に、又してもヒルダが出現し、どこへ行くの?
 ・星田の頭には、又しても、あの気味の悪い、鋭い眼の持主のことが浮んできた。
 ・馬車を下りる時、又してもバクシーシを要求されたが完全無視して歩きだした。
 ・その温情を受けた親分は、又しても泣き出したので、それを観た村役人は、おや?
 ・東京へ帰る列車の中、トイレに立った亀野は、又してもばったり、梅吉と出会う
 ・1stシーズンのラストから4ヶ月後から始まる話で、又しても能力者はばらばら。

 

どうでしょうか。「好ましくない」ことの例が多いようです。なるほど。

それでも、そうでない例もけっこうあります。上にあげた3冊の辞書の書き方は、ちょっと断定的すぎるようです。

「好ましくない」ことの例が多い、ぐらいにしておいたほうがいいのでしょう。

例解新は「多い」ですね。ただ、「いまいましい」は言いすぎのような…。

 

さて、前回紹介した新明解の語釈によれば、

  またまた赤組が優勝した  (予想に反して)
  またしても赤組が優勝した (予測通りに)

となるのですが、このカッコの中の対比は上の実例の中から浮かび上がってくるでしょうか。

どう考えても無理だろうと私は思うのですが。

 

「またまたやりました!/やってきました」と喜んでいる例が「予想に反して」とは思えませんし、上の例にはありませんが、「またまた暑い夏がやってきました」という例はどうなるのでしょうか。

「またしても戦争が始まった」「神様は又しても大きな試練を私に課した」「又しても交通事故を目撃してしまった」「亀野は、又してもばったり、梅吉と出会う」

みな「予測通り」でしょうか。

 

ちょっと意地悪な例を思いつきました。次の2つの例は不自然でしょうか。不自然でないなら…。

  またまた予想通りになった。

  またしても予測が外れた。

 

「またまた」にせよ、「またしても」にせよ、「また」を強めた言い方であるのは確かでしょうから、同じことが繰り返されることに「驚いたり呆れたり」ということはあるでしょう。つまり「意外性」ですね。そうなるとは思っていなかった、という。

ただ、それが「予測 通り/に反する」かどうか、「期待に反する」かどうかはまた別でしょう。はっきりした「予測」あるいは「期待」が特にない場合も多いでしょう。

 

別の観点から考えてみます。

あることが繰り返されたとき、それを不自然なことと見るか、ごく当然のことと考えるか、という見方の違いというものはあるでしょう。

例えば、あるサイコロを振ると1の目ばかり出る場合、このサイコロはおかしいと考える、とか。

あるいは、繰り返し実験に失敗するのは何か手順に間違いがあるのではないかと考える、とか。何も間違いがないのに失敗する、のではなく、何か間違いがあり、それを直せば成功する、と考えたほうが納得ができるわけです。

 

元の話に戻ると、「またしても」という語は、実例をいくつも見ていくと、同じことが繰り返されることを特に不自然なこととは思わない、というような含みがあるのかな、と思います。(「想定の範囲内」という言い方がありますが、それだと強すぎるような。)

前に起こったことが繰り返し起こることは、不思議なことではない、と。それが起こるような条件は変わっていないのですね。

ただ、それと「予測通り」ということとは別のことだと思います。そう「予測」していたわけではない。

上にあげた作例で、「またしても予測が外れた」というのが「予測通り」だというのは矛盾です。

 

さて、新明解の執筆者は、どういうところから上の語釈を考えだしたのでしょうか。

 

追記:

新明解は、類義の「またも」「またもや」についても、他の辞書とはちょっと違った語釈をつけていて、考えさせられます。

 

  またも  望んでもいないのに、今回も相変わらず同じ事が繰り返される様子。
   「-発覚した政治家のスキャンダル/-失敗に終わった」

  -や  期待した変化が何ら見られず、同じ事が今回も繰り返される様子。
   「選挙が終わってみれば-与党の勝利/-大義に名を借りた侵略戦争が始まる」  新明解 

 

「またもや」は「またも」の小見出しになっていますが、それぞれ別の語釈をつけています。「予測」に関しては触れず、「期待」に反していることのみです。

三国は「またも(や)」として一つの項目にし、明鏡・岩波は「またも」の項を立てていません。

 

新明解の副詞:またまた・またしても

新明解国語辞典の副詞の記述を検討しています。

 

  またまた (副)予想(期待)に反して、同じ事が再び繰り返される様子。「-うっかりミスだとはたまったものではない/-休日出勤するはめになった/しかし選挙をやってみると、あれほどあきれた行状が天下に知れわたったのに、それが-十何万票もとったりしている」 

 

  またしても (副)予測どおりに(期待を裏切って)、同じ事が今回も繰り返される様子。「-赤組の優勝/-核実験を強行した」  新明解

 

「またまた」は「予想(期待)に反して」で、「またしても」は「予測どおりに(期待を裏切って)」だそうです。

そうすると、

 

  またまた赤組が優勝した  (予想に反して)

  またしても赤組が優勝した (予測通りに)

 

ということになるのでしょうか。(どちらも「期待 に反して/を裏切って」?)

そうかなあ。

 

新明解の副詞:まあ

新明解国語辞典の語釈の問題点を検討しています。今回は、副詞の「まあ」を。

いかにもかんたんそうなことばですが、考えだすと難しいようです。

 

  まあ (副) 1相手の事情はひとまずおいて、こうしよう(してくれ)と、自分の方の立場を優先させようとする気持を表わす。「-一杯飲めよ/-そう怒らないで/-やめておけ」
    2満足できる段階からは程遠いが、容認せざるを得ないという気持を表わす。「-いい方だ/-こんなものだろう/-しかたがない」  新明解

 

1の用法の「自分の方の立場を優先させようとする気持」というところ、どうもよくわかりません。

用例を見ると、命令または依頼の形になっています。

「まあやめておけ」という例で考えると、単に「やめておけ」という命令だけでも「自分の方の立場を優先させようとする気持」が強くあると言えるわけで(「命令」というのは、「自分の言うことを聞け!」ということですから)、その場合の「まあ」の役割は何か、です。
「まあ」はその「気持ち」をさらに加えるということでしょうか。

 

私の感覚では、「やめておけ」よりも「まあやめておけ」のほうが、命令の強制力(直接性)が弱まっているように感じます。

「まあ」をつけることで相手に対する命令の口調が柔らかくなる、と考えるのがいいのではないでしょうか。

「まあそう怒らないで」の場合もそうでしょう。相手が何かに対して怒っているとき、「その気持ちもわかるけど」、というような意味合いで「まあ」をつけるのでしょう。

上の語釈の「相手の事情はひとまずおいて」の部分は、おそらくそういうことじゃないでしょうか。

ですから、「まあ」の役割は「自分の方の立場を優先させようとする気持」というより、「相手の事情は(わかるんだけども、それは)ひとまずおいて」という気持ちを相手に伝えることに重点があるのじゃないか。


この辺のところを書いていると思われる岩波国語辞典を見てみます。

 

  ①〘副〙今のところ。十分ではないが、どうやら。ま。「―やりくりはついている」▽「いま」の転。  
  ②〘副・感〙自分または相手の言い分を軽くおさえるのに使う語。「―考えておこう」「―そうおっしゃらずに」「―な」  岩波

 

「相手の言い分を軽くおさえる」のですね。「軽く」です。単なる命令・依頼だと強くなってしまうところを。

それはよくわかりますが、「自分の言い分を軽くおさえる」というのはよくわかりません。「まあ考えておこう」の「まあ」は「軽くおさえ」ている?

 

旺文社国語辞典も同じような語釈をつけています。

 

  1相手をうながすときにいう語。「-おはいりください」2相手や自分の気持ちをなだめ抑えるときにいう語。「-そう言わずに」「-しかたがないか」  旺文社

 

「相手の気持ち」はいいとして、「自分の気持ち」は「なだめ抑える」わけではないでしょう。

いろいろ考えたすえに、「まあ、やってみるか/やってみよう」という場合、抑えてはいません。

「やってみる」ことに変わりはないので、この「まあ」はその判断に対して「うまくいくかどうかわからないが/この判断でいいかどうかわからないが」という気持ちを加えているというところでしょうか。(「なだめ」はその辺の気持ち?)

 

自分の意志につける「まあ」を「ためらいの気持ち」としている国語辞典があります。新選国語辞典です。

 

  1相手をさそう気持ち、または、なだめとどめる気持ちをあらわす。「-お寄りください」「-そう言うな」
  2ためらいの気持ちをあらわす。「-やめにしよう」  新選

 

「まあやめにしよう」なら「ためらい」の末やめた、と言えますが、「まあ、やってみるか」だと、「ためらい」というより「いろいろ考えた結果」ぐらいじゃないでしょうか。

 

新明解に戻ると、新明解の語釈では、この、自分の意志につける「まあ」が解釈できません。

「まあ、やってみるか/やってみよう」と自分自身に言う場合、「自分の方の立場を優先させようとする気持」では何が何だかわかりません。

 

明鏡も、自分の意志につける用法が書かれていません。

 

  (副)1十分ではないが、とりあえずは満足できる気持ちを表す。「━上出来のほうだ」
     2 相手の気持ちをなだめたり、とりあえずあることをするようにうながしたりするさま。「━そう言わずに」「━おすわりなさい」  明鏡

 

三省堂国語辞典は、用法を細かく分けています。

 

  1とりあえず、そうするようにうながすことば。「-お上がりください」
  2相手の気持ちをおさえ、なだめるときのことば。「-そうおこるなよ」
  3はっきりした理由はないが。「-やめておきます」
  4あとでどうするかはともかく。いちおう。「-書いてみました・-考えておこう〔遠まわしにことわるときにも使う〕
  5不十分だが。いちおう。「あれでも-学者のうちだろう」
  6正確ではない(かもしれない)が。「-そんなところだ・-ねずみか何かのしわざだろう」▽ま。
  7〔多く「まーあ」と強調して〕〔話〕ほんとうに。ひじょうに。「あの映画、まーあつまらなかったですね!」  三国

 

ちょっと分けすぎでないかと思うのですが。「まあ」ということばはこれほど多義と考えられるのか。用法どうしの関係も考えないといけません。7つもの用法が単に並列的にあるというのは、ちょっと考えにくいことです。

 

1と2は、相手に対する勧め・命令ですね。1は「とりあえず」というところが特徴的です。

2は旺文社の2と類似。

3は旺文社の2の後半に対応するのでしょうか。しかし、「まあやめておきます」は「はっきりした理由はないが」でいいのでしょうか。「まあ、なんとなく」?

「いろいろ考えてみた結果、これと言ったはっきりした理由があるわけでもないけれど」ぐらいの意味合いでしょうか。そのばあい、「いろいろ考えてみた結果」の部分も大切なのでは?

4から6は共通するところがあります。新明解の2に対応するのでしょう。「満足できる段階からは程遠い」に対して「いちおう・不十分だが・正確ではないが」と分けています。

1の「とりあえず」と4の「あとでどうするかはともかく」は近い意味合いですね。

用法の7は興味深いものです。

 

さて、どんどん迷路に入ってしまっているようで、よくわからないのですが、私の考えを書いておきます。

 

以上みてきたような「まあ」に共通する意味合いは、「あれこれ考えてみて(その結果の結論)」というようなものじゃないか、と。(三国の7は別とします。)

 

さて、「まあ」にはこれまでとりあげなかった用法があります。感動詞としての用法です。

どの辞書にも書いてあるのは、「驚き」を示す用法ですね。「まあ、素敵!」のような。主に女性が使います。「おやまあ(すごいもんだ)」とすると、男性も使います。

それともう一つ、多くの辞書がふれていない用法があります。(私が見た中では次の三冊だけがとりあげていました。)

 

  (感)1〔話〕ことばをさがすときに使う。「ええ、-、その…」  三国

  〔感〕2発語や話の接ぎ穂に用いる語。「-その」「-なんといいますか」  集英社

 

新明解は「驚き」の用法と関連付けて次のように書いています。

 

  2 (感)驚いたり 意外に思ったり して、思わず発する声。〔主として女性が用いる〕「-、すてき/-、あきれた/-、なんてひどいのでしょう -、これはいったい何なの」
  [運用]2は、短呼形「ま」も含めて、(その人の癖ででもあるかのように)意味もなく、次の言葉を発する際のつなぎとして用いられることがある。例、「まあ、そういうことは、ま、ほとんどないとは思いますが、ま、念のため調べてみましょう」  新明解

 

これ、非常によく使われるのですが、あまり意識されません。

言語学では「フィラー」と言われるものです。

 

  フィラー 「ええと」「あの」「まあ」など、発話の合間にはさみこむ言葉。 デジタル大辞泉

 

「えーと」「あのー」と書いたほうがピンとくるかもしれません。(ただし、大辞泉の「まあ」の項にはこの用法が書いてありません!)

 

三国は「ことばをさがすとき」と言い、集英社は「発語や話の接ぎ穂に用いる」と硬い言い方をしています。

新明解は「意味もなく、次の言葉を発する際のつなぎ」としています。

 

話し手は、「ま(あ)」と言いながら、(無意識に、ですが)考えているのですね。

「副詞」とされる「まあ」も、基本的にはこれと共通する意味合いなんじゃないか、というのが私の解釈です。

 

「まあやってみよう(やってみるか)」では、「いろいろ考えてみた結果、最善の結論とは言えないけれど(いちおう・とりあえず)」「やってみる」という結論になった、ということを「まあ」が示す。

「まあやめておけ/そう怒らずに」では、「その気持ちはわかるけど、いろいろ考えれば(とりあえずは)」そうしないほうがいいという結論に、今の状況ではなるんじゃないか、ということを「まあ」が示す。

「まあお上がりください」では、「ここで少し立ち話をするという選択肢もあるけれど、とりあえず上がってからにしましょう」ということを私は考えていますよ、ということを「まあ」が示す、など。

「まあ」は、意志・命令・依頼・勧めなどの表現について、その結論になるまでいろいろ考えたんだよ、ということを示しているというわけです。

 

  ある状況で、「どうする?」あるいは「どうしたらいい?」と聞かれて、

    えーと、まあ、やめておこう/やめておくか

    えーと、まあ、やめておけよ

と答える。

 

この時、「えーと」は、いかにも「今、考え中」「ことば(言い方)を探している」という感じですが、「まあ」はどうでしょうか。

考えてみて、その後に言う「やめておこう/おくか/おけよ」が最善ではないにせよ、今の判断としてはこんなもんじゃないかと提示する、そういうものだ、ということを「まあ」が示している。

どうでしょうか。

 

もう一つの用法。

(「いろいろ考えてみた」結果だけれども)その結果・判断に必ずしも満足しているわけではないことを示す、というもう一つの用法も基本的に同じだろうと考えます。新明解の2の用法です。

やったこと、その時の判断など、不十分だけれど、一応それでよし、という気持ちだということを「まあ」が示していると考えるのです。

 

  これでいいの?(もう少しやらないの?)

    えーと、まあ、いいさ。  まあ、上出来だ。  まあ、しかたがない。

    まあ、やめておきます。

  あれ、やってみた?

    まあ、書いてみました。

 

「まあ」をつけない形に比べて、「考えた結果として、不十分だがこれで行く」という意味合いがあるように思います。

用法としては、相手への働きかけの場合、自分の意志の場合、そして何らかの判断の場合の3つにするか、あるいは前の2つをまとめてもいいでしょう。

さて、これをどういう語釈にするかですが、それは、まあ、また考えましょう。

一つ重要なことは、もっと例をたくさんあげることです。それらの例を見て、語釈の良しあしが検討できるようにしなければいけません。