ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

広辞苑の名詞:擬声語・擬態語

前回は、「外来語はすべて名詞扱い」という広辞苑の考え方について書きました。

今回は、名詞の中に多くの副詞が押し込められているのではないかという話です。その中心は擬態語の類です。(一般には「擬音語・擬態語」と言うことが多いのですが、広辞苑第五版は「擬声語・擬態語」と言っています。)

広辞苑第五版の「日本文法概説」の「名詞」のところに、前回の外来語の話から前々回までの形容動詞の話、そして擬声語・擬態語の話が続いて説明されています。そこのところを、少し長くなりますが続けて引用します。(この部分は、第七版ではすべて削除されています。)

 

   本書の見出しには多数の外来語を取り入れたが、名詞として扱った。それらの
  単語は、原語における品詞が何であれ、日本語としては文法的にはすべて名詞と
  同等に使われるからである。例えば、「ヒット」「ゴチック」「ロマネスク」「ア
  ベック」など。

   また、「哀れ」「親切」「奇麗」「静か」「すこやか」「突然」「堂々」「断
  乎」「泰然」などの語は、名詞とするか形容動詞とするか、現代の学界で議論の
  ある語である。これらの語は、意味の面では状態を表し、「なり」「たり」「だ」
  などが付いて形容動詞の語幹の位置に立つことから、形容動詞とされることが
  多い。しかし、本書では、これらの語が語幹だけで独立した意味を表し、「物の
  哀れは秋こそまされ」「彼女の親切が彼を依頼心の強い人とした」のように、他の
  名詞と共通する働きをすることがあることなどから、名詞として扱うことにした
  (後述「形容動詞」を参照)。 

   「ちゅうちゅう」「ざわざわ」「ぴしゃぴしゃ」「こっそり」「ちゃっかり」
  「がたがた」「どろどろ」などの擬声語・擬態語は、動物の鳴き声、物の音、事
  態、感覚などを、人間の音韻によって擬する語である。これらは副詞としても
  用いられるが、「突然」「堂々」「断乎」「泰然」などと同じく、「と」「な」
  「に」「で」「だ」などが付いて形容動詞の語幹の位置に立つことが少なくない。
  従って、それらの語と同じ扱いが妥当であり、名詞の一類とするべきである。
  また、日本語の名詞のうち、属性概念を示す語や、時・程度を示す語は、その
  まま副詞として用いられるから、意味上、当然名詞と副詞とに両用される語に
  ついては、名詞・副詞と併記することを原則として省いた。
               広辞苑第五版 p.2889(六版付録p.195もほぼ同じ)

 

これらの処置によって、広辞苑の「名詞」の範囲は他の多くの国語辞典と大きく違ってきます。

今回はこの第三段落の内容について考えます。

 

まず初めに「擬声語・擬態語」の例があげられ、その説明があります。品詞分類に関わるのは、

 

  これらは副詞としても用いられるが、「突然」「堂々」「断乎」「泰然」などと
  同じく、「と」「な」「に」「で」「だ」などが付いて形容動詞の語幹の位置に
  立つことが少なくない。従って、それらの語と同じ扱いが妥当であり、名詞の
  一類とするべきである。

 

というところですが、この内容は私にはまったく理解できません。

まず、「突然」から「泰然」までの四語は、上の引用の第二段落、「また」から始まる段落で「哀れ」~「すこやか」といういわゆる「形容動詞」の例に続く四語と同じですね。

しかし、「突然」と他の三語は文法的性質が違います。後の三語は「~な」で連体修飾する、一般に「形容動詞」というと頭に浮かぶものとは別の、もう一種の「形容動詞」です。

明鏡国語辞典で「堂々」を引くと、

 

  堂堂(形動 ト タル)  明鏡

 

という品詞表示になります。「~と/~たる」という連用修飾・連体修飾の形を持つ「形容動詞」です。

新明解国語辞典だと、

 

  堂堂 -たる-と〔副詞としても用いられる〕   新明解

 

ですね。新明解では、「形容動詞」は基本的に名詞だという品詞認定になるのでしょう。

ついでに岩波国語辞典も。

 

  堂堂 〘副ノ・ト タル〙  岩波

 

岩波は、「堂々の」という形で連体修飾をすることを付け加えています。

岩波の「語類解説」「形容動詞」の最後に、次のような解説があります。

 

  以上の通りこの辞典では、形容動詞かと思われる場合には、かなり細かい検討を
  した。そこで〔名ノナ〕〔ダナ〕〔ダ ナノ〕のような注記の区別が生じたわけ
  である。なお文語では形容動詞である「堂々たり」の類は、口語では「堂々と」
  「堂々たる」の形でしか使わない。これらは〔ト タル〕と注記した。「切に」
  「切なる」や「単に」「単なる」の「切」「単」なども、品詞論的には同類である。
               岩波第八版「語類解説」「形容動詞」

 

「断乎」「泰然」も、「堂々」と同じ類です。

 

もう一つの例語、「突然」を岩波で見ると、

 

  突然〘副ノ・ダナ〙物事が不意に起こるさま。だしぬけ。「―立ち上がる」
    「―に死ぬ」「―で驚くだろうが」  岩波

 

明鏡・新明解では単に(副)ですが、岩波によると副詞であり、「ダナ(形容動詞)」であり、「~の」の形で連体修飾をします。(「ト・タル」ではありません。)

 

さて、広辞苑の解説に戻ります。引用の一部を再掲します。

 

  これらは副詞としても用いられるが、「突然」「堂々」「断乎」「泰然」などと
  同じく、「と」「な」「に」「で」「だ」などが付いて形容動詞の語幹の位置に
  立つことが少なくない。

 

「ダナ」型の形容動詞でもある「突然」はともかく、「ト・タル」型である他の語は「「と」「な」「に」「で」「だ」」などがつくでしょうか?

 

  堂々と 堂々な 堂々に 堂々で 堂々だ
  断乎と 断乎な 断乎に 断乎で 断乎だ
  泰然と 泰然な 泰然に 泰然で 泰然だ

 

かなり無理があります。というか、「と」以外はほとんどつかないでしょう。

少し上の引用、岩波「語類解説」の「形容動詞」に

 

  口語では「堂々と」「堂々たる」の形でしか使わない。

 

と書いてあった通りです。

 

では、肝心の

 

  「ちゅうちゅう」「ざわざわ」「ぴしゃぴしゃ」「こっそり」「ちゃっかり」
  「がたがた」「どろどろ」などの擬声語・擬態語は

 

どうでしょうか。「~と」は除きます。(擬声語・擬態語は「~と」がついて副詞として働く、というのが基本的用法の一つです。)

 

  ちゅうちゅうな ちゅうちゅうに ちゅうちゅうで ちゅうちゅうだ
  ざわざわな ざわざわに ざわざわで ざわざわだ
  ぴしゃぴしゃな ぴしゃぴしゃに ぴしゃぴしゃで ぴしゃぴしゃだ
  こっそりな こっそりに こっそりで こっそりだ
  ちゃっかりな ちゃっかりに ちゃっかりで ちゃっかりだ

 

これらの語は「形容動詞の語幹の位置に立つことが少なくない」でしょうか。

私には、これらの形のほとんどが自然な日本語とは思えません。

 

何か、私がとんでもない読み違え、誤解をしているのでしょうか。
広辞苑の「文法概説」に書いてあることが、まったく理解できません。

従って、上の引用に続く結論の、

 

  (~立つことが少なくない。)従って、それらの語と同じ扱いが妥当であり、
  名詞の一類とするべきである。

 

とはまったく思いません。念のため、内容を補っておきます。

 

  それらの語(「堂々」など)と同じ扱い(「名詞として扱う」)が妥当であり、
  (「ちゅうちゅう」などは)名詞の一類である。

 

こういう結論がどうして出てくるのでしょうか。

もちろん、広辞苑の「日本文法概説」を書くような人は、私などよりもはるかに文法に詳しい、学識豊かな研究者だろうと思いますから、以上書いたことはすべて私のカン違い、考え違いである可能性は否定できませんが、それにしても、と思うのです。

 

広辞苑の名詞:外来語

:前回までは広辞苑の「形容動詞」の扱いを見てきました。広辞苑はいわゆる「形容動詞」を認めず、それらを名詞とします。「形容性の名詞」です。

では、それ以外にはどんな名詞があるのか。広辞苑の「名詞」は、他の一般の国語辞典に比べて、範囲が広いようです。

 

広辞苑第五版の「日本文法概説」の「名詞」には、名詞とされるいろいろな語についての説明がありましたが、その部分は第七版では削られてしまいました。(第五版・第七版の「文法概説」の筆者が誰なのかはわかりません。大いに知りたいところですが。)

それらの一つ、外来語の問題を。

 

   本書の見出しには多数の外来語を取り入れたが、名詞として扱った。それらの
  単語は、原語における品詞が何であれ、日本語としては文法的にはすべて名詞と
  同等に使われるからである。例えば、「ヒット」「ゴチック」「ロマネスク」「アベ
  ック」など。    広辞苑第五版 p.2889

 

「(外来語は)文法的にはすべて名詞と同等に使われる」とはっきり言い切っていますが、それは充分な根拠に基づくものなのでしょうか。

確かに、動詞の類は動作名詞として「~する」をつければいいので、名詞として扱えます。「カットする・ストップする・ヒットする」など。これは、原語が動詞でないものもあります。「アップする・ダウンする」など。

(「ストップする」を一語の動詞と見るか、「名詞+動詞」と考えるかは説によります。「ストップ」や「アップ」を名詞として扱うことは不当なことではないでしょう。)

 

「キュート・クリーン・シンプル・モダン」など、英語で形容詞である多くの語を日本語で「形容動詞」として取り入れるのは、外来語の品詞の取り入れ方としてなかなかうまいやり方だと思うのですが、広辞苑はそれらを名詞とします。

形容動詞を「名詞と同等に扱う」と「文法概説」で宣言したため、「文法的にはすべて名詞と同等に使われる」ことになっただけの話です。これは、いわば「そう決めたから、そうなった」のです。

 

しかし、外来語にはこれら以外の品詞のものもあり、それらを名詞とするには無理があります。「文法概説」の執筆者はそれらの語に気がつかなかったのでしょうか。

辞書本文の初めのページに「アー」で始まる外来語が並んでいます。

その中の「アーメン」。キリスト教の祈りのことばですが、これは名詞でしょうか。

また、「イ」を見ていくと「イエス」があります。キリスト教のイエス(人名)ではなく、「イエスかノーか」の「イエス」です。

 

  イエス 肯定・同意・承諾を表す語。はい。そうです。然り。「-とノーをはっきり
      させる」  

  ノー 否定・拒否を表す語。いや。いいえ。否。「-がなかなか言えない」 広辞苑

 

品詞の記号がないということは、名詞と考えているということです。日本語の「はい」「いいえ」は広辞苑でも感動詞です。

 

  感動詞 品詞の一つ。感動や応答・呼掛けを表す語。(略)「ああ」(感動)、
     「はい」「いいえ」「おい」(応答・呼掛け)の類。感嘆詞、間投詞、
     嘆詞。    広辞苑

 

「イエス」と「ノー」の用例は名詞としての用法をうまくとらえていますが、名詞と言えない使い方があることは言うまでもありません。「彼ははっきり「ノー」と言った」の「ノー」は名詞ではありません。

同じ出版社が出している「岩波国語辞典」は「アーメン」「イエス」「ノー」のどれも感動詞としています。

 

「オーケー」「オーライ」はどうでしょうか。

 

  オーケー 感動詞として、「合点だ」「よろしい」などの意。また、承知すること。
    「-を出す」「しぶしぶ-する」

  オーライ(感動詞として)「よろしい」「承知した」の意。オーケー。「バック、-」
                             広辞苑

 

「オーケー」の「承知すること」は名詞の用法です。用例はその例になっています。

しかし、「オーライ」の例のように「感動詞として」使われた場合は、「感動詞」なのでは?

品詞表示がないのは、名詞と見なしていることになりますが、それでいいのでしょうか。

 

日常の「あいさつ語」の類はどう考えるのでしょうか。

 

  バイバイ (親しい間での挨拶語)さよなら。  

  ハロー (呼びかけや挨拶の語)もしもし。やあ。こんにちは。

  グッドモーニング (午前の挨拶語)おはよう。    

  サンキュー (「あなたに謝する」の意)ありがとう。    広辞苑
   
みな名詞扱いのようです。(「ハロー」や「グッドモーニング」は「日本語として」言うのかどうか疑問に思いますが…。)

 

これらに対応する日本語の表現を見てみたら、そもそも広辞苑の「感動詞」の範囲がわからなくなりました。

 

  さよなら(感)「さようなら」に同じ。 

  おはよう(感)朝の挨拶のことば。「-ございます」    広辞苑 

 

これらは他の辞書と同じように「感動詞」としているのですが、 

 

  こんにちは (「今日は…」と言う挨拶語の下略)昼間の訪問または対面の時に
    言う挨拶語。 

  こんばんは (「今晩は…」と言う挨拶語の下略)夜間の訪問または対面の時に
    言う挨拶語。 

  ありがとう(アリガタクの音便。下の「ございます」「存じます」の略された形)
    感謝の意をあらわす挨拶語。             広辞苑

 

「こんにちは・こんばんは」と「ありがとう」には(感)がありませんでした。つまり、名詞と見なしているのでしょうか。「おはよう」は感動詞だが「こんにちは」はそうでない?

「こんにちは・こんばんは」は「今日・今晩+は」だから、「連語」で、「語」ではないから品詞は考えなくていい、というようなことでしょうか。

岩波国語辞典も「こんにちは・こんばんは」は「連語」としています。

でも、「ありがとう」はどうなのか。「挨拶語」というのはつまり「語」ではないのか…。

「あいさつ語」の類は、ふつうの「語」とは違うのだから、そもそも「品詞」は考えなくてよい、というのは一つの考え方だと思います。しかし、ある「挨拶語」は名詞で、別の「挨拶語」は連語だから品詞は考えない、というのはどうもうまくないように思います。

 

さて、広辞苑の「外来語はすべて名詞扱い」というのは適切な処置と言えるでしょうか。

 

広辞苑と形容動詞(3)

前回の続きです。

広辞苑の「日本文法概説」は、第六版ではp.194-205だったのが、第七版ではp.196-215となり、大幅に増補されました。特に動詞・助動詞あたりが詳しくなったようです。

形容動詞の解説も大きく書き換えられました。

「形容動詞否定論」という小見出しが新しくたてられたのが特に目を引きます。

第五版・六版と違っているところを少し長く引用します。(「名詞」のところにあった形容動詞への言及はなくなりました。)

 

 広辞苑第七版「日本文法概説」の「形容動詞」から

   形容動詞は状態を移す語であり、意味においては形容詞に似る一方、活用形式
  は動詞に似るので形容動詞と呼ばれる。「おろかだ」「にぎやかだ」のような和語
  を語幹とするものは、ク活用形容詞に似て、感情を直接表現することは少ない。
  漢語や外来語を語幹とする場合は、その意味に応じて「安心だ」「悲惨だ」「ナー
  バスだ」など心の状態を表すこともできる。(略)
   非母語話者に対する日本語教育の場では、それぞれの連体形の語尾をとり、
  形容詞を「イ形容詞」、形容動詞を「ナ形容詞」と説明することも普通に行われ
  ている。
   「アダルト向けの内容」というところを「アダルトな内容」と言えば、「アダ
  ルト」が「内容」を直接形容して表現が緊密な感じになる。「アダルトな」という
  表現はまだ耳慣れないが、新しい形容動詞はすぐに違和感が薄れる。「直接な関係」
  「真ん中な位置」「美人な人」「悪循環な環境」などという表現も使用され始めて
  いる。物事の形容表現について、形容詞の新語はごくまれで、新しくできる形容的
  な語はほぼすべて形容動詞である。形容動詞は、非常に生産力の高い品詞である。
 
  形容動詞否定論
   形容動詞の語尾は、由来としては断定の助動詞(「だ」)と同じものである。
  この語尾(助動詞)は、「川だ」のように普通の名詞類にも接続する。
   もともと形容動詞を品詞として認める根拠は、「おろか」は独立してもちいら
  れることがまれで、ほぼ常に「おろかに」として用いられていたので、これを
  一語とみなすこところにある。「おろかに」が一語ならば、「おろかな」「おろ
  かだ」も一語でなければならないのである。もし、「おろか」と「に」に分け
  られると解釈するならば、「おろか」は形容性の名詞となり、形容動詞を認める
  必要がなくなる。
   「親切」は状態を写すことができる漢語名詞なので「親切に」という連用修飾
  の表現や「親切な」という連体修飾の表現が可能だが、「川」は完全な名詞である
  ので「川に」は場所を表し、「川な」という形容表現は作れない。「あの男は狼だ」
  と表現できるのは比喩としてその意味を利用しているからであって、「狼な」とは
  言えず、「狼」自体に形容的意味があるのではない。このように形容動詞か「名詞
  +だ」かを判断するときには、「~な」という連体修飾が可能かどうかを基準にする。
  また、副詞が修飾できるかどうかも重要な基準である。「とても親切」は可能である
  が「とても川」は成り立たない。古代から一群の形容性名詞(形容動詞語幹)が
  存在しており、形容詞の語幹に「やか」「らか」のような接尾辞(語尾)をつけて
  形容性名詞が派生するが、これも通常の名詞にはない性格である。以上述べた形容
  動詞の特徴は、すべてを「名詞だ」と解釈する立場では、「形容性名詞」と「通常
  名詞(一般名詞)」の違いであるとする。形容動詞を否定するならば、この一群の
  「形容性名詞」の居場所を確保する必要があるだろう。
   本書では、形容動詞語幹は、「ほがらか」「親切」として掲げ、名詞と同じように
  扱っている。            (広辞苑第七版「付録」p.205-206)

 

いろいろ細かく書かれていていいのですが、どうも説明の流れがわかりにくいように思います。(オ前ガ言ウカ!)

 

まずは次のことがきちんと書かれているのは非常によかったと思います。

 

  このように形容動詞か「名詞+だ」かを判断するときには、「~な」という連体
  修飾が可能かどうかを基準にする。

 

では、「形容動詞否定論」の主張はどうなったのか。

 

  もし、「おろか」と「に」に分けられると解釈するならば、「おろか」は形容性
  の名詞となり、形容動詞を認める必要がなくなる。

 

「おろか」の一語を例にしてすべてを判断するのは無理でしょう。すべての(少なくとも大多数の)形容動詞について、同じことが言えるのかどうか。

また、「おろか」を「形容性の名詞」とするならば、「名詞とは何か」という議論がもっと必要になります。

その後の、

 

  以上述べた形容動詞の特徴は、すべてを「名詞だ」と解釈する立場では、「形容性
  名詞」と「通常名詞(一般名詞)」の違いであるとする。形容動詞を否定するなら
  ば、この一群の「形容性名詞」の居場所を確保する必要があるだろう。

 

という部分は重要なことを述べています。

形容動詞を否定して名詞とするなら、その「名詞」の中で、「~な」の形をとるという特徴のある名詞を別にしなければなりません。それを、広辞苑はやっていません。決定的に重要なことなのですが。

 

この解説は、全体として「形容動詞否定論」に対して否定的な印象を受けるのですが、最後に、

 

   本書では、形容動詞語幹は、「ほがらか」「親切」として掲げ、名詞と同じ
   ように扱っている。 

 

と、とってつけたように形容動詞を否定する文を入れて終わっています。

広辞苑の「形容動詞は認めない」という方針は変えられないまま、その「文法概説」ではその方針に疑問を呈している格好です。(私には、そう見えます。)

 

さて、すぐ上で述べたように、形容動詞を否定するならそれらの語が「形容性名詞」であることを何らかの形で示さなければなりません。そうしないと、形容動詞を認める説に対して、その語の用法に関する情報量で劣ってしまうからです。それにはどうしたらよいでしょうか。

一つは、「形容性名詞」であることを示す、例えば(形名)のような品詞指示をつけることです。しかし、それでは(形動)とするのと結局同じことになってしまいます。
もちろん、文法の中での位置づけが違ってくるので、文法全体の体系をどう考えるかという理論的な違いはありますが、国語辞典としてそうする意味があるかどうか。

もう一つは、「~な」の形があることをなんらかの形で示すことです。
それを実際にやったのが、新明解の「-な」という用法指示です。以前の記事で、新明解は形容動詞という品詞を認めない立場でありながら、「-な」の形の連体形を持つことを明示しているということを述べました。(2021-09-25 新明解と形容動詞:「-な-に」/「-な」)

それらのことをせず、「形容動詞語幹は、「ほがらか」「親切」として掲げ、名詞と同じように」扱うとするならば、「~な」の形で連体修飾をするということをどう示せばいいか。

「~な」の形の連体修飾をしている用例を必ずつければいいのです。

 

これは、今回調べてみて初めて知ったのですが、広辞苑は意外にこまめに「~な」の形の用例をあげています。

 

  親切 2人情のあついこと。親しくねんごろなこと。思いやりがあり、配慮の
    ゆきとどいていること。浮世風呂四「昨日は御-さまに娘をおさそひ下さ
    りまして」「-に教える」「-な人」

  健康(health) 身体に悪いところがなく心身がすこやかなこと。達者。丈夫。壮健。
    また、病気の有無に関する、体の状態。<薩摩辞書>。「-に注意する」
    「-に過ごす」「-な考え」                        広辞苑

 

「親切」では、「親切に教える」「親切な人」があり、連用形と連体形の例をそろえています。

「健康」では、「健康に注意する」は名詞用法、「健康に過ごす」は連用、「健康な考え」は(意味はちょっと違いますが)連体修飾の例で、きちんと各用法をそろえています。

ただ、次のような例もあります。

 

  元気 2活動のみなもとになる気力。「-を出す」「-がない」3健康で勢いの
    よいこと。「お-ですか」    広辞苑

 

「元気」の場合の「お元気ですか」という例では、名詞である「病気」の「御病気ですか」と同じ形になってしまい、名詞か形容動詞か(「~な」の用法があるかどうか)わかりません。その前の2のほうは名詞用法の例ですね。

 

以下、「~な」の用例だけを引用します。まったく、几帳面に用例をつけています。

 

  きらい 「-な食べ物」      きれい  「-な顔だち」「-な星空」
  好き  「-な人でも居るのか」  静か   「-な夜の街」
  穏やか 「-な日和」       さわやか 「-な朝」
  愚か  「争いなど-なことだ」  にぎやか 「-な通り」「-な人」
  幸せ  「-な気分」       幸福   「-な人生」
  不幸  「-な人生」       すこやか 「-な精神」
  モダン 「-な服装」       シンプル 「-なデザイン」  広辞苑から

 

他の辞書のような「形動」という品詞表示をしなくとも、こういう例をきちんとあげてあれば、使用者はそういう用法があることがわかります。

次の三語の用例は、現代語辞典である岩波国語辞典と比べてみても、よくやっているなと思わせます。
 
  不明  「-な点を問いただす」
  不明瞭 「-な発音」「-な印象」
  不明朗 「-な会計」         広辞苑から

 

岩波国語辞典はというと、

 

  不明 ①〘名ナノ〙明らかでないこと。はっきりとは分からないこと。
  不明瞭〘名ナノ〙はっきりしないこと。「発音が―だ」
  不明朗〘名ナノ〙何か隠し事やごまかしがありそうなさま。   岩波

 

用例のない項目・用法があります。岩波は用例の少ない辞書です。

 

私の調べた中では少なかったのですが、「~な」の用例がないものもありました。

 

  ひま 「-をもて余す」 (「~な」の例なし)
  不運 「身の-」    (「~な」の例なし)  広辞苑

 

この書き方だと、「ひま」「不運」は一般の名詞用法のみで、「形容性名詞」あるいは「形容動詞」の用法はない、と思われかねません。

もちろん、用例がないからと言ってその用法がないことにはなりませんが、辞典の使用者はその用法の有無について情報を得られません。

これは、国語辞典として大きな欠点となります。

他の辞典でこれらの語を見てみると、明鏡が「~な」の用例をあげています。

 

  ひま 名 「忙しくて昼食をとる━もない」
     形動「━な人に仕事を手伝ってもらう」  

  不運 名・形動 運が悪いこと。悲運。「━な境遇」「━の身」「━に泣く」 明鏡

 

また、前々回の記事で引用した、形容動詞の例をあげた部分を再掲しますが、

 

   なお、形容動詞の語幹となる語には、次のような種類がある。
  (1)和語から成る。「静か」「穏やか」「朗らか」「悲しげ」など。
  (2)漢語から成る。「親切」「丁寧」「立派」「堂々」「滔々」など。
  (3)外来語から成る。「モダン」「ノーマル」「ファナティック」など。
                      (p.2892)広辞苑 第五版

 

(1)の中の「悲しげ」は項目自体がありませんでした。「~げ」の形は形容詞の派生語と考えるのでしょう。項目として立てない方針のようです。

(3)の「ノーマル」「ファナティック」には「~な」の例はありませんでした。外来語の形容動詞は見過ごされやすくなります。

 

結局のところ、他の辞書で形容動詞とされる語すべてに「~な」の用例をつけていくのは、かなり無理があります。何らかの品詞表示をするほうがいいでしょう。

 

広辞苑の品詞体系は、他にもおかしなところがあります。それについては別に書きたいと思っています。

 

さて、以上述べてきたように、連体修飾の「~の/な」の違いを明示しない国語辞典は、日本語教師、あるいは現代語の文法を研究する者からすれば、非常に大きな問題を抱えていると言わざるをえないのですが、一般の国語辞典使用者には「形容動詞」という品詞の有無・是非など大した問題ではなく、広辞苑は「権威ある辞書」とされており、その(小さな?)欠点は無視されてしまうのでしょう。

 

広辞苑と形容動詞(2)

前回の続きです。

前回は、広辞苑(第五版)の「文法概説」が形容動詞について説明している部分を紹介しましたが、どうも不明瞭な説明でした。

ここでいちばん問題なことは、「文法概説」の「形容動詞を認める立場」の紹介が、形容動詞と名詞の違いについてもっとも重要なこと、一般に第一にあげられることをなぜか述べていないということです。

それは、連体修飾の形、名詞を修飾するときの形の違いです。

前回紹介した「文法概説」で例として出されている「男性」と「親切」で言えば、「男性の母親」「親切な母親」の「の/な」の違いです。(「×男性な母親」「×親切の母親」とは言えません。)

日本語教育の立場から言うと、初級段階でこの名詞と形容動詞の区別をしっかり教えておかないと、いつ、「~な」の形で連体修飾するのかということがわかりません。

よく話題になる例をあげると、「病気の人」と「元気な/健康な 人」という対になる表現の「~の/な」の使い分けがあります。

その人の身体の状態を表すちょうど反対の概念なのですが、「病気」は「病気な人」とは普通言いません。「病気の人」と言います。
それに対して「元気・健康」は、名詞を修飾するには「~な」の形を使います。
そこで、「病気」は名詞とされ、「元気・健康(な)」は形容動詞とされます。

ここで注意すべきことは、「病気」は<名詞だから>「~の」の形で名詞を修飾する、と考えるのではない、ということです。<「~の」の形で名詞を修飾するから>名詞と見なす、のです。

(もちろん、名詞であるということは、学校文法風に言えば「「~が」の形で「主語」になる」ということが必要です。もっと一般的に言えば、「ガ・ヲ・ニ」などの格助詞がついて「補語」になることができる語です。)

それと同様に、「元気・健康」は「~な」の形で名詞を修飾するので、形容動詞と考えるわけです。

ここでもう一つ注意すべきことは、「元気・健康」は「~の」の形で名詞を修飾することもある、つまり名詞でもある、ということです。「元気が出る・元気を出す・元気の源」「健康が大切だ・健康に気を付ける・健康の重要性」のように、名詞としての用法を持っています。
(「きれい・しずか・すこやか」などはそうでないので、名詞ではありません。)

形容動詞の中には、この「元気・健康」のように名詞としての用法を持っているものがあり、そのことが形容動詞と名詞との区別を複雑なものに見せているということがあります。

 

学校文法で形容動詞を教える際には、名詞との違いとして、この連体修飾の「~の/な」の違いを必ず説明するはずなのですが、広辞苑(第五版)の「文法概説」では、なぜかそのことは一言も触れられていません。

 

以上、広辞苑の第五版について述べてきました。第六版は、付録が別冊になったということを除いて、「文法概説」そのものには変化がありませんでした。

第七版になって、「文法概説」が大きく書き換えられました。そのことはまた次回に。

 

広辞苑と形容動詞(1)

以前、国語辞典と形容動詞について何回か記事を書きました。(「2021-09-18 新明解の副詞:くたくた・ぐたぐた」(の一部)から6回分、「2021-11-07 明鏡国語辞典と「形容動詞」」から5回分)

その時、広辞苑についても書きたいと思ったのですが、手元に新しい版がなくて書けませんでした。

今回、公共図書館へ行って必要部分をコピーできたので、少し書いてみます。

 

広辞苑は形容動詞を認めない立場です。そのことは、付録の「文法概説」に書かれています。

それは、自らの立場をはっきりさせるということでよいことだと思いますが、なぜそうするのかという説明は、どうもはっきりしません。

第六版までの不明瞭な説明は、最新の第七版で大きく書き換えられました。その書き換えのあたりを紹介し、検討します。

 

まず、私の持っている「広辞苑 第五版(1998)」から。(第六版もほとんど同じ。もっと前の版も見てみたいのですが、それはまたいつか。)

「日本文法概説」の「名詞」から、形容動詞に関わる部分を。

 

  また、「哀れ」「親切」「奇麗」「静か」「すこやか」「突然」「堂々」「断乎」
  「泰然」などの語は、名詞とするか形容動詞とするか、現代の学界で議論のある語
  である。これらの語は、意味の面では状態を表し、「なり」「たり」「だ」などが
  付いて形容動詞の語幹の位置に立つことから、形容動詞とされることが多い。
  しかし、本書では、これらの語が語幹だけで独立した意味を表し、「物の哀れは
  秋こそまされ」「彼女の親切が彼を依頼心の強い人とした」のように、他の
  名詞と共通する働きをすることがあることなどから、名詞として扱うことにした
  (後述「形容動詞」を参照)。   (p.2889)   広辞苑 第五版(1998)

 

「これらの語」が「他の名詞と共通する働きをすることがある」のはそうだとしても、形容動詞を別に立てる説では「他の名詞とは何か違うところがある」と考えるから「形容動詞」とするのでしょう。そこのところをどう考えるのか。これでは議論になっていません。

「(後述「形容動詞」を参照)」とあるので、そちらに詳しく書いてあるのだろうと期待されます。

 

なお、細かいことですが、

  ~形容動詞の語幹の位置に立つことから、形容動詞とされることが多い。

という書き方は変です。「形容動詞とされる」根拠が「形容動詞の語幹の位置に立つこと」では、根拠の中に結論が含まれてしまっています。もう少し書き方を工夫したほうがいいでしょう。

せめて「形容動詞の語幹に当たる位置に立つ」ぐらいにしたらどうでしょうか。(この書き方では内容的に合わなくなるでしょうか。)

 

では、同じく「文法概説」の「形容動詞」から。

 

  形容動詞は、形容詞と同様に状態を表す語である。(略)形容動詞は、もともと、
  語尾に動詞「あり」の要素があり、助動詞・助詞への接続など、文法的に動詞
  に近い。形容動詞を名詞に助動詞などの語が付いたものとして、独立した品詞と
  認めない説もある(本書における見出しは語幹だけを示し、品詞表示も見出しの
  形式に合わせて名詞と同等に扱う)。形容動詞を認める立場に立てば、「彼は男性
  だ」「彼は親切だ」という文型の似た二つの文で、「男性」は名詞、「親切」は形容
  動詞の語幹と区別される。「男性」が物の名であるのに対し、「親切」は状態の意味
  であり、なおかつ、「とても親切だ」のように、「男性」などにはない副詞を修飾語
  とする用法があることから、形容動詞は独立した品詞となりうるとする。
   なお、形容動詞の語幹となる語には、次のような種類がある。
  (1)和語から成る。「静か」「穏やか」「朗らか」「悲しげ」など。
  (2)漢語から成る。「親切」「丁寧」「立派」「堂々」「滔々」など。
  (3)外来語から成る。「モダン」「ノーマル」「ファナティック」など。
  形容動詞は形容詞にくらべ、強い造語力を持つ。 (p.2892)広辞苑 第五版(1998)

 

ここにも、書き方の点でどうも不自然なところがあります。

「独立した品詞と認めない説もある」と他人事のような書き方をした後に、すぐ後ろのカッコの中で「本書」は「名詞と同等に扱う」としています。つまり、その説であることを述べているのですが、今一つはっきりしない論理のつなげ方です。

ここは、上の「名詞」のところの解説のように、「しかし、形容動詞を~認めない説があり、本書はその説に立って、~名詞と同等に扱う」とはっきり書いたほうがいいでしょう。なぜそう書かないのか。

どうもこの「文法概説」は歯切れの悪い文章になっています。あまりよく推敲されていないのでしょうか。(お前が言うか、と言われると、まあ、困りますが。)

 

さて、そのかっこの中の「品詞表示も見出しの形式に合わせて」というところ、何が言いたいのかどうもわかりにくい表現です。

以下、私の理解した(と思った)範囲で少ししつこく説明してみます。

「見出しの形式」とはどういうことでしょうか。

形容動詞は「用言」の一つです。他の用言、動詞と形容詞はその終止形を見出しとします。例えば、「歩く・起きる・寝る」とか「大きい・悲しい」などです。

形容動詞もそれに合わせれば、「静かだ・親切だ」となるはずですが、一般に国語辞典はその「語幹」だけの「静か・親切」を見出しとしてあげています。「だ」はすべてに共通だから、というわけで省略されるのでしょう。

それならば、形容詞の「い」もすべて共通だから「見出しの形式」を「大き・悲し」とするかというと、それはしません。なぜか。

「大き」という形では「一語」としてのまとまりと感じにくいのに対して、「静か」はそう感じる、という感覚が元にあるのでしょう。(形容動詞の「語幹用法」というのがあります。語幹だけでも使えるのです。)

それで、形容動詞は語幹を示すだけで「見出しの形式」として成り立つ、という判断になります。

 

ここまではいいのですが、それがどうして「品詞表示も見出しの形式に合わせて名詞と同等に扱う」という話になるのか。

名詞も、形容動詞と同じように「~だ」という形で述語になります。例えば「男性だ」のように。

それと、「親切だ」は、形の上で同じになります。そこで、名詞の「見出しの形式」が「男性」であり、形容動詞が(その語幹だけの)「親切」であるなら、形式としては「名詞と同等」です。

つまり、

  本書における見出しは語幹だけを示し、名詞と同等に扱う

というだけなら、それは「~だ」を省略する、ということで、何も問題はありません。

しかし、「品詞表示も見出しの形式に合わせて名詞と同等に扱う」ということには、論理的にはまったくつながりません。


品詞というのは、「見出しの形式」の問題ではありません。その語の持つ、文法上の性質によるグループ分けの問題です。(「見出しの形式」がどういう形をとりうるか、というのは広い意味での文法の一部、形態の問題です。しかし、それは文法の中心課題、つまりその語が(他の語との関係において)どのように文の中で使われるのか、という問題ではありません。)

 

以上、「品詞表示も見出しの形式に合わせて」というわかりにくい、というか、わけのわからない部分を私が理解した範囲で敷衍してみました。

私の理解が正しいとするならば、この「文法概説」の言っていることは箸にも棒にもかかりません。なぜこの程度の「文法概説」が書かれ、それが第六版まで載せられていたのか。

 

以上の、わけのわからない話の後、「形容動詞を認める立場に立てば」という論の紹介が続き、そこには一応まともなことが書いてあります。

しかし、それに対する反論はありません。「見出しの形式」の話だけで「名詞と同等」に扱うという、おかしな論理があるだけで、「文法概説」の形容動詞の説明は終わります。

ここで問題とすべきことは、初めのほうで述べたように、形容動詞が「名詞と違うところ」は何かということです。

(この話は次回に続きます)

こびりつく

三省堂国語辞典の項目です。次の説明には問題が二つあると思います。

 

   こびりつく〔俗〕ねばりけのあるものがかたくくっつく。「ごはんつぶが-」 三国

 

まず、文体の指示について。
〔俗〕というのは、「俗語」というその語の文体を示す記号です。「俗語」とは。

 

  俗語 1正式な場面では使わないほうがいい、くだけたことば。例、びびる・まじ
      で〔=本当に。〕この辞書では〔俗〕で示す。卑語〔例、ばかたれ〕・隠語
      〔例、すけ〕などもふくむ。
     2〔古風〕口語。「-文典〔=口語の文法書〕」(⇔雅語)   三国

 

もちろん、この2ではなく、1のほうでしょう。

しかし、「こびりつく」は俗語でしょうか。

コーパスからの実例をいくつか。


 ・使用後すぐに湯をかけると汚れがこびりつきません。
 ・歯ぐきの深いところに汚れがこびりついていないでしょうか?
 ・遺跡から出土した遺物には土や泥がこびりついています。
 ・また、揚げ物の油などが換気扇などにこびりついてベタベタしています。
 ・こびりついた汚れオトシにピッタリ。
 ・床や排水溝にこびりついた汚れを丁寧にふき取ったりした。
 ・飯盒の米、鍋にこびりついたものなど、とてもきれいに落ちます。
 ・専用の器具で歯の表面にこびりついた歯垢・歯石を掻き取ります。(歯科クリニック)
 ・次に、歯の表面にこびりついた歯石を、超音波スケーラーを使って除去します。
                           (歯科クリニック)
 ・超音波の力で肌に負担をかけずに毛穴のこびりついた皮脂やメイクの汚れを表面に
  浮き上がらせ吹き飛ばします。 (エステサロン)
 ・しかしプラークが長期間こびりついたままだと、その刺激で歯周組織に炎症が起こ
  ってきます。(予防歯科


どうでしょうか。ごくふつうに使われる日常語だと思うのですが。
例の最後のほうは歯科関係の例を並べてみました。歯医者さんには「こびりつく」はきわめてなじみのある言葉のようです。

 

もう一つの問題は、「ねばりけのあるものがかたくくっつく」とは違った用法の存在です。

こちらもコーパスからの実例を。

 

 ・そんな光景が頭にこびり付いて離れません。
 ・でもその一言がその後もずっと頭にこびりついていました。
 ・目に焼きつく炎、耳にこびりつく叫喚。
 ・あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。
 ・暗い笑いが今でも脳裏にこびりついている。
 ・まして子供ならなおさら忘れられぬ嫌な思い出として脳裏にこびりついている。
 ・そんな不安が、心にこびりついています。
 ・汗や汚れと共に、心にこびり着いた余計なモノも洗い流してくれる貴重な時間。

 

ひゆ的な用法ですが、よく使われるものです。なぜこれを書かないのか。(もちろん、こちらも「俗語」ではありません。)

他の辞書を見てみましょう。

 

   しっかりくっついて離れない。かたくくっつく。「飯粒が-・いている」「あの事
   が頭に―」                  岩波

 

「くっついて離れない」で、抽象的なことも含めようというのはちょっと無理があるような。

 

  1〔強い粘着力や強烈な印象のために〕くっついてしまって、容易に引きはがせ
  なくなる。「頭にこびりついている〔=忘れようとしても忘れられないでいる〕」
  2 ある人の身辺に まつわりつく。        新明解

 

「くっついてしまって、引きはがせない」ですか。「頭にくっつく」というのがどうもうまくないように思います。

 

   1物がかたくくっついて離れなくなる。「ズボンにガムが━」
   2ある考え・印象などが強く意識に残って忘れられなくなる。「悲惨な光景が
    頭に━」                 明鏡                     

 

この「こびりつく」に関しては、明鏡の説明がいいと思います。はっきり「強く意識に残って忘れられなくなる」と書いたほうがわかりやすいでしょう。

さて、三国の編集者がこの用法に気づいていないわけがないと思うのですが、どうしたのでしょうか。

 

手がはやい

短い話。

明鏡と新明解のそれぞれ一つ前の版から。

 

  手が早い 1物事をするのが早い。2すぐに暴力をふるう。「口より━」3異性と
     すぐに関係をもつ。「━男」[注意]「はやい」を「速い」と書くのは誤り。
                            [明鏡 第二版]

 

  手が速い 1 処理の手順に むだが無く、速く仕事を終える様子だ。
     2すぐに相手に手を出す傾きがある。A暴力を振るう。B 女性と関係を持つ。
                           [新明解 第七版]

 

明鏡は「手が速い」と書くのは「誤り」としていますが、新明解は「速い」としていました。(他の多くの辞書は「早い」としています。)

 

さて、それぞれ最近改訂され、「第三版」「第八版」になって、どう変わったでしょうか。

明鏡の第三版は、微妙なところで変化がありました。

 

  手が早い 1物事をするのが早い。2すぐに暴力をふるう。「口より━」3異性など
    とすぐに関係をもつ。「━男」[注意]「はやい」を「速い」と書くのは誤り。

 

「異性など」の「など」が加えられていました。なるほど。

 

では、新明解は。

 

  手が早い 1 処理の手順に むだが無く、速く仕事を終える様子だ。
     2すぐに相手に手を出す傾きがある。A暴力を振るう。B肉体関係を持つ。

 

「早い」になっていました。これは、新明解が「誤り」を認めたということでしょうか。

もう一つ、「女性と関係を」が「肉体関係を」に変えられています。これは?

明鏡の「など」と同じような配慮によるものでしょうか?

それと、第七版では「(男が)女性と関係を」ということだったのだろうと思いますが、第八版では「(女が)」もありうるということでしょうか。

こういう微妙なところの改訂は、妄想・邪推の余地が大きくて楽しいです。