広辞苑と形容動詞(1)
以前、国語辞典と形容動詞について何回か記事を書きました。(「2021-09-18 新明解の副詞:くたくた・ぐたぐた」(の一部)から6回分、「2021-11-07 明鏡国語辞典と「形容動詞」」から5回分)
その時、広辞苑についても書きたいと思ったのですが、手元に新しい版がなくて書けませんでした。
今回、公共図書館へ行って必要部分をコピーできたので、少し書いてみます。
広辞苑は形容動詞を認めない立場です。そのことは、付録の「文法概説」に書かれています。
それは、自らの立場をはっきりさせるということでよいことだと思いますが、なぜそうするのかという説明は、どうもはっきりしません。
第六版までの不明瞭な説明は、最新の第七版で大きく書き換えられました。その書き換えのあたりを紹介し、検討します。
まず、私の持っている「広辞苑 第五版(1998)」から。(第六版もほとんど同じ。もっと前の版も見てみたいのですが、それはまたいつか。)
「日本文法概説」の「名詞」から、形容動詞に関わる部分を。
また、「哀れ」「親切」「奇麗」「静か」「すこやか」「突然」「堂々」「断乎」
「泰然」などの語は、名詞とするか形容動詞とするか、現代の学界で議論のある語
である。これらの語は、意味の面では状態を表し、「なり」「たり」「だ」などが
付いて形容動詞の語幹の位置に立つことから、形容動詞とされることが多い。
しかし、本書では、これらの語が語幹だけで独立した意味を表し、「物の哀れは
秋こそまされ」「彼女の親切が彼を依頼心の強い人とした」のように、他の
名詞と共通する働きをすることがあることなどから、名詞として扱うことにした
(後述「形容動詞」を参照)。 (p.2889) 広辞苑 第五版(1998)
「これらの語」が「他の名詞と共通する働きをすることがある」のはそうだとしても、形容動詞を別に立てる説では「他の名詞とは何か違うところがある」と考えるから「形容動詞」とするのでしょう。そこのところをどう考えるのか。これでは議論になっていません。
「(後述「形容動詞」を参照)」とあるので、そちらに詳しく書いてあるのだろうと期待されます。
なお、細かいことですが、
~形容動詞の語幹の位置に立つことから、形容動詞とされることが多い。
という書き方は変です。「形容動詞とされる」根拠が「形容動詞の語幹の位置に立つこと」では、根拠の中に結論が含まれてしまっています。もう少し書き方を工夫したほうがいいでしょう。
せめて「形容動詞の語幹に当たる位置に立つ」ぐらいにしたらどうでしょうか。(この書き方では内容的に合わなくなるでしょうか。)
では、同じく「文法概説」の「形容動詞」から。
形容動詞は、形容詞と同様に状態を表す語である。(略)形容動詞は、もともと、
語尾に動詞「あり」の要素があり、助動詞・助詞への接続など、文法的に動詞
に近い。形容動詞を名詞に助動詞などの語が付いたものとして、独立した品詞と
認めない説もある(本書における見出しは語幹だけを示し、品詞表示も見出しの
形式に合わせて名詞と同等に扱う)。形容動詞を認める立場に立てば、「彼は男性
だ」「彼は親切だ」という文型の似た二つの文で、「男性」は名詞、「親切」は形容
動詞の語幹と区別される。「男性」が物の名であるのに対し、「親切」は状態の意味
であり、なおかつ、「とても親切だ」のように、「男性」などにはない副詞を修飾語
とする用法があることから、形容動詞は独立した品詞となりうるとする。
なお、形容動詞の語幹となる語には、次のような種類がある。
(1)和語から成る。「静か」「穏やか」「朗らか」「悲しげ」など。
(2)漢語から成る。「親切」「丁寧」「立派」「堂々」「滔々」など。
(3)外来語から成る。「モダン」「ノーマル」「ファナティック」など。
形容動詞は形容詞にくらべ、強い造語力を持つ。 (p.2892)広辞苑 第五版(1998)
ここにも、書き方の点でどうも不自然なところがあります。
「独立した品詞と認めない説もある」と他人事のような書き方をした後に、すぐ後ろのカッコの中で「本書」は「名詞と同等に扱う」としています。つまり、その説であることを述べているのですが、今一つはっきりしない論理のつなげ方です。
ここは、上の「名詞」のところの解説のように、「しかし、形容動詞を~認めない説があり、本書はその説に立って、~名詞と同等に扱う」とはっきり書いたほうがいいでしょう。なぜそう書かないのか。
どうもこの「文法概説」は歯切れの悪い文章になっています。あまりよく推敲されていないのでしょうか。(お前が言うか、と言われると、まあ、困りますが。)
さて、そのかっこの中の「品詞表示も見出しの形式に合わせて」というところ、何が言いたいのかどうもわかりにくい表現です。
以下、私の理解した(と思った)範囲で少ししつこく説明してみます。
「見出しの形式」とはどういうことでしょうか。
形容動詞は「用言」の一つです。他の用言、動詞と形容詞はその終止形を見出しとします。例えば、「歩く・起きる・寝る」とか「大きい・悲しい」などです。
形容動詞もそれに合わせれば、「静かだ・親切だ」となるはずですが、一般に国語辞典はその「語幹」だけの「静か・親切」を見出しとしてあげています。「だ」はすべてに共通だから、というわけで省略されるのでしょう。
それならば、形容詞の「い」もすべて共通だから「見出しの形式」を「大き・悲し」とするかというと、それはしません。なぜか。
「大き」という形では「一語」としてのまとまりと感じにくいのに対して、「静か」はそう感じる、という感覚が元にあるのでしょう。(形容動詞の「語幹用法」というのがあります。語幹だけでも使えるのです。)
それで、形容動詞は語幹を示すだけで「見出しの形式」として成り立つ、という判断になります。
ここまではいいのですが、それがどうして「品詞表示も見出しの形式に合わせて名詞と同等に扱う」という話になるのか。
名詞も、形容動詞と同じように「~だ」という形で述語になります。例えば「男性だ」のように。
それと、「親切だ」は、形の上で同じになります。そこで、名詞の「見出しの形式」が「男性」であり、形容動詞が(その語幹だけの)「親切」であるなら、形式としては「名詞と同等」です。
つまり、
本書における見出しは語幹だけを示し、名詞と同等に扱う
というだけなら、それは「~だ」を省略する、ということで、何も問題はありません。
しかし、「品詞表示も見出しの形式に合わせて名詞と同等に扱う」ということには、論理的にはまったくつながりません。
品詞というのは、「見出しの形式」の問題ではありません。その語の持つ、文法上の性質によるグループ分けの問題です。(「見出しの形式」がどういう形をとりうるか、というのは広い意味での文法の一部、形態の問題です。しかし、それは文法の中心課題、つまりその語が(他の語との関係において)どのように文の中で使われるのか、という問題ではありません。)
以上、「品詞表示も見出しの形式に合わせて」というわかりにくい、というか、わけのわからない部分を私が理解した範囲で敷衍してみました。
私の理解が正しいとするならば、この「文法概説」の言っていることは箸にも棒にもかかりません。なぜこの程度の「文法概説」が書かれ、それが第六版まで載せられていたのか。
以上の、わけのわからない話の後、「形容動詞を認める立場に立てば」という論の紹介が続き、そこには一応まともなことが書いてあります。
しかし、それに対する反論はありません。「見出しの形式」の話だけで「名詞と同等」に扱うという、おかしな論理があるだけで、「文法概説」の形容動詞の説明は終わります。
ここで問題とすべきことは、初めのほうで述べたように、形容動詞が「名詞と違うところ」は何かということです。
(この話は次回に続きます)