「運鈍根」ということばをご存じでしょうか。「運根鈍」とも言います。
成功するために必要な、三つのたいせつなもの。運がいいこと、かるがるしく動かないこと、根気があること。運根鈍。 三国
人が人生で成功するために必要なもの、です。「運」と「根」が必要なことはわかりやすく、辞書での解釈も一定するのですが、「鈍」をどう説明するか、辞書によっていろいろと違いがあります。
「鈍」は、「運」「根」とちがって、いわばマイナスのイメージがあることばです。それだからこそこの「運鈍根」という組み合わせ方に、表現としての面白み、深みが出てくるわけです。そこをどう納得がいくように解説するか。
三国は「鈍」に「かるがるしく動かないこと」という説明をつけています。これは、以下にあげる他の辞書との違いを作ろうとしたのだと思いますが、うまく当たっているかどうか。「動く」の意味がはっきりしません。「行動する」ということでしょうか。
幸運を持つ事、あまり才気に走らない事、根気強くねばる事、この三つが世渡りの秘訣だ、という考え方。運根鈍。 新明解
新明解は、「あまり才気に走らない」と言っています。
才気 すばらしい、頭の働き。 新明解
走る 4自制心が働かず(慎重に考える余裕を失い)好ましくない方向に進んだ状態になる。 新明解
頭がよいのはいいけれど、頭の良さにばかり頼るのはよくない、ということでしょうか。「あまり」のつけかたも面白いです。
「世渡りの秘訣」というのはどうも世俗的な感じがします。
この「運鈍根」ということばは、学問・研究の世界でも言われることではないでしょうか。三国の「成功」のほうが広くていいように思います。
立身・成功の三条件として考える、幸運に恵まれること、才走らずこつこつ努めること、および根気よいこと。 岩波
「才走らず」は新明解と同じですね。そのあとに「こつこつ努める」と具体的に補っています。
「立身・成功」です。「立身」はちょっと古い感じですが、「運鈍根」自体が以前からあることばなので、「立身」に対応すると考えてもいいのでしょう。
「鈍」を「ねばり強さ」とする辞書があります。
成功するために必要な、三つの大切なこと。運がいいこと、ねばり強いこと、根気がいいこと。運根鈍。 三省堂現代新
新明解では「根」は「根気強くねばる事」で、「ねばる」ことも含んでいましたが。
大辞林も「鈍」は「ねばり強さ」です。
運根鈍 成功するためには、幸運と根気と、ねばり強さの三つが必要であるというたとえ。うんどんこん。 大辞林
大きい辞書はこの解釈に集まります。
運根鈍 〘連語〙 成功するためには、幸運に巡り合うこと(運)、根気のよいこと(根)、ねばり強いこと(鈍)、この三つが必要であるというたとえ。運鈍根。 精選版 日本国語大辞典
運根鈍 成功するには、幸運と根気と、鈍いくらいの粘り強さの三つが必要であるということ。運鈍根。 大辞泉
大辞泉は「鈍いくらいのねばり強さ」として、「鈍」をうまく入れています。
それにしても、「根気」と「ねばり強さ」はかなり近いように思うのですが。
「鈍」を「愚直」と解釈する辞書もいくつかあります。
幸運と愚直と根気。物事に成功するのに必要な三つの要素。運根鈍。 現代例解
成功するための三つの条件。幸運と愚直さと根気。運根鈍。 集英社
運根鈍 成功するための三つの秘訣。幸運と根気と愚直。運鈍根。 旺文社
「愚直」とは、
愚直 あまりに正直すぎて、融通がきかないこと。ばか正直。 明鏡
ですが、「鈍」を「正直」と考えるのはどうでしょうか。プラスのイメージになっていますね。
「ばか正直」では、新明解の「世渡り」には不都合にも思います。
「愚直」にもう一言加えた辞書もあります。
幸運と鈍重で愚直な性質と根気。[参考]成功に必要な三要素をいうことば。 学研現代新
「鈍重」です。「鈍」の字が入っています。
「鈍重」については、新明解が面白い解説を付けています。
鈍重 〔人の動作や性質が〕反応が鈍くて、機敏には立ち回ることが出来ない様子だ。〔真の意味での頭のいい悪いとか 大成するしないとか とは直接の関係が無い〕 新明解
「真の意味での」というところ、編者の好みなのでしょうか。
「鈍」をそのまま「鈍い」と解釈する辞書。
成功するための3つの条件で、幸運、鈍いくらいの性質、根気をいう。◇「運根鈍」ともいう。 講談社類語
「鈍いくらいの」の「くらい」はどういう意味合いなのでしょう。本当に「鈍い」のではだめなのでしょうか。「あまり細かいことを気にせずに」あるいは「その時々の世の中の変化に振り回されずに」というくらいのところでしょうか。
私は、辞書の語釈の中では、これがいいかなと思います。「鈍い」のところをもう少しはっきり、わかりやすく書いてほしいと思いますが。
いろいろ辞書の語釈を見てきましたが、私は、個人的には、「鈍」とは単に「鈍い、愚か」の意味でいいのではないかと思っています。そう考えるのは、寺田寅彦の影響があります。寺田は、「科学者は頭が悪くなければならない」と言っています。
基礎的の原理原則を探り当てる大科学者は常にもっとも無知な最も愚かな人でなければならぬ。 寺田寅彦「知と疑」
一般の人、あるいは「頭のいい」人が、特に疑わず、当然のことと見なすことに納得せず、しつこく疑い続けること、それが科学者には必要だというのです。
上の引用の前の文は、よく知られた話を書いています。
りんごの落ちるを怪しむ人があったので万有引力の方則は宇宙の万物を一つの糸につないだというのは人のよく言う話である。 寺田寅彦「知と疑」
「なぜりんごは落ちるのだろう。そして、なぜ月は落ちてこないのだろう。」という疑いです。
「鈍」の意味をここまで引っ張るのは、引っ張りすぎでしょうか。
もっとも、これは科学や研究の話で、世間的な「成功」や「世渡り」とはかなり違うのかもしれません。