ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

千・万・億・兆(2):岩波国語辞典

前回の続きで、岩波国語辞典を見てみます。
岩波は、数の言い方についていくつかの注記をしています。その注記の部分だけ引用します。
まず、「十」の注記から。

 

  十 ▽10を普通は「一十」と言わない。このあと十一から十九までは「十二」のように「十」との和で表し、「二十」「三十」……は「十」の倍数で表す。  岩波

 

まず、「10を普通は「一十」と言わない。」とあります。これは、当たり前すぎるような話ですが、「二十・三十」と比べれば、「一十」と言うのが自然だとも言えます。でも、そう言わない。そのことをわざわざ書いています。岩波の編者のこだわりがあります。
(なお、「普通は」というのは、そう言う特別な場合があるということでしょうか。どういう場合にそう言うのでしょう? 何らかの数値の読み上げ・確認で、正確を期する場合、などでしょうか。例えば、「7214:ななせんふたひゃくいちじゅうよん」というような。)


そのあとの、「このあと十一から十九までは「十二」のように「十」との和で表し」というところ、言っている内容はわかるのですが、「十一から十九までは「十二」のように」という表記のしかたはおかしくありませんか。
最初に読んだときは、なんとなく読み過ごしてしまったのですが、よくよく考えるといかにも変な書き方をしています。

「十二」とカッコを付けて、(発音や意味内容ではなく)表記を問題にしているのだ、というのはいいとして、その前の「十一から十九まで」の表記は問題にならないのか。
「十一・十九」という表記がわかる人を相手にして、「「十二」のように「十」との和で表し」と説明することのおかしさを言っているのですが、私の言いたいことはおわかりでしょうか。

ここ、たぶん誤植なのだと思います。

 

 (原文)
  十 ▽10を普通は「一十」と言わない。このあと十一から十九までは「十二」のように「十」との和で表し、

 (修正案)
  十 ▽10を普通は「一十」と言わない。このあと11から19までは「十二」のように「十」と(一の位の数「二」)の和で表し、


下のように書きたかったのではないでしょうか。( )の中を書くかどうかは別として。
こう書けば、前の「10」という書き方と整合性がとれるでしょう。

これも当たり前の話ですが、アラビア数字の書き方では、「22」の二つの「2」の意味は違います。左の方は「20」の意で、右の方は単に「2」です。

何をわかりきったことを言っているのかと思う方もあるかもしれませんが、漢数字の書き方と比べてみると、アラビア数字の表記法、「位取り」というやつが、なかなか優れたアイデアだということがわかります。

漢数字はアラビア数字と違います。「二二」とは書かないで、「二十二」と書く。(もちろん縦書きで、です。)「二」はあくまでも「2」なんですね。「二十」は「2×10」(10×2?)です。

ここでちょっと不思議なのは、「十二」は「10+2」なのに、「二十」は「2+10」ではないんですね。

「十一」は「十と一」、「十二」は「十と二」ということでしょう。そうやって「十八、十九」とくれば、次は「十十」になるわけですが、それを「二つの十」と考えて「二十」にしたのでしょうか。(ローマ数字は20を、「X (10)」を二つ並べて、「XX」と表しますね。素直な書き表し方?です。)

まあ、とにかく、漢数字を考えた人は、「二十」という合理的な書き方を発明した。これで、「位取り」がなくても、大きな数が書き表せます。
(やまとことばの数の表し方というのを、私は不勉強で知りません。「ひと」から「とお」まではいいとして、11は何と言うのでしょうか。「とおあまりひとつ」という言い方を昔どこかで読んだような気がするのですが、それでいいでしょうか。では、20は? 「はたち」というのはもともと20の意だということも言われます。30では「三十路みそじ」という言い方がありますね。「八十島かけて」などというのもある。「そ」が10の意なのでしょう。と、自分の無知をさらすのはこれくらいにします。)

 

さて、岩波国語辞典の話に戻りましょう。もう一度、「十」の項を。

 

  十 ▽10を普通は「一十」と言わない。このあと十一から十九までは「十二」のように「十」との和で表し、「二十」「三十」……は「十」の倍数で表す。

 

最後の部分、「「二十」「三十」……は「十」の倍数で表す」というところも、省略のある説明です。

「二十」が、なぜ(「十二」のように)「2+10」ではなくて「「十」の倍数」を表すのか、ということが説明されていません。

「「十」の倍数で表す」と書くのではなく、「「二十」「三十」……を「十」の倍数を表すものとする」とでもすればまだいいでしょうか。
(いや、私が必要以上にしつこい人間だ、ということは十分自覚しています。)

 

では、次に「百」を。

 

  百 数値表現の正確を期するには「一百」「壱百」の表記も使われる。  岩波
  
「「一百」「壱百」の表記も使われる」というのは、実際に発音されるわけではない、ということでしょう。上で触れた「正確を期する数値の読み上げ」でも、「7124:ななせんいちひゃくふたじゅうよん」ということは、たぶん、ないのでしょう。(いや、あるのかな?)

さて、ここまで「一十」「一百」は「(普通は)(口頭では)言わない」ということを見てきたわけですが、「千」では次のように書いてあります。

 

  千 ▽一千の事を単に「千」と言う場合が多い。  岩波

 

「一千の事を」という具合に、「一千」と言うのが当然であるかのような書き方です。
これはどうも説明が一貫していないように思います。まず、「一千」という言い方があるということを初めに言い、それから「単に「千」と言う場合が多い」と言うべきでしょう。「一十」「一百」は普通は言わないのですから。

しかし、この説明は、前回見た新明解とは反対です。新明解は「一-〔=千の強調表現〕」と書いていました。「千」のほうが普通なのですね。どちらなのでしょうか。

現代中国語では「一千」と言い、「百」も「一百」と言いますね。(「1100」は「一千一百」と習いましたが、「千百」と言ってはいけないのかどうかはわかりません。)その辺が日本語とは違います。でもまあ、中国語は中国語です。問題なのは日本語でどう言うか、です。

とりあえず、「単に「千」と言う場合が多い」という事実が確認できればいいでしょうか。

 

最後に「万」。

 

  万 ▽一万を単に「万」ということが多い。  岩波

 

これはどうでしょうか。「多い」でしょうか。新明解の、

 

  「一-円〔この場合の『一』は、千円・百円・十円の場合と異なり、省略できない〕」  新明解

 

という記述をどう考えるのでしょうか。どういう根拠で「多い」と言っているのか。

確かに「万を超す群集が」という場合などは、いちいち「一万」とは言わないのでしょうが、そういう例が「多い」とは、私には思えません。

ここは新明解の注記の方がいいだろうと思います。(私が日本語教師だということもあります)

「億・兆・京」については、特に問題にするような注記はありません。「京」の漢字項目(「きょう」の所にあります)には「東京・京都」を表し「けい」と読むことが書いてあります。