ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

国語辞典と省の略称(2):岩波など

前回の続きですが、他の国語辞典を見る前に、問題を基本的なところから述べておきます。

まず、そもそも国語辞典が中央官庁名を項目としてたてるべきかどうかということから。

これは、一般的に国語辞典がいわゆる百科項目をどこまで載せるべきかという問題の一つです。国語辞典が百科項目をとりあげだすと、項目数が際限なく増えてしまいます。では、どうするか。社会常識として最低限のことはあったほうがいいでしょうが、「最低限」をどうやって決めるか。

小型国語辞典では、人名・国名・地名・歴史事項などは基本的に除外されることが多いようです。学習用を意識している辞典はこれらもとりあげることがあります。(以前、三省堂現代新国語辞典について「2019-12-14 固有名詞」という記事を書いたことがあります。)

いくつかの国語辞典でこれらのことを見ていくといろいろと興味深い違いが出てくるとは思うのですが、あまり話を広げても雑然としてしまいますから、現在問題にしている中央官庁名に話を絞ります。

 

普通の(?)短い名前の省庁、例えば「環境省」の場合は、それを項目として立てるかどうかがまず問題になります。国語辞典の編集者が、固有名詞をどう扱うか、固有名詞の中でも省庁名という日常生活の中でよく耳にするであろうことばの扱いをどう考えるか、という問題です。

その辞典の使用者が何を知りたいと考えるのか、それに対してどうこたえるのか、です。

環境省」のような省名は、私の見た限りではほとんどの辞書で項目とされています。

 

もう一つは、「かんきょうしょう」という音が持つもう一つの用法、「環境大臣」の通称としての「環境相」という語を項目にするかどうかです。

いくつかの国語辞典は省名だけを項目として載せ、「相」のほうは載せません。

 

前回の記事でとりあげたのは、長い名前の5つの省の短縮した言い方で、「-しょう」が「省」と「相」つまり大臣を表すことが両方とも書かれているだろうか、という話です。

「かんきょうしょう」の場合は、その音を耳にした時、「かんきょう+しょう」と分けられ、「省」の名前だということが文脈からわかれば、「環境」に関わる省だとわかりますし、「省」だとわからなくとも、「環境+しょう」と考えることは十分可能です。

また、「しょう」が大臣を表すことを思いだせば、「環境相」である可能性も考慮に入れることができます。

しかし、「けいさんしょう」と聞いて、「経産省」とすぐ浮かぶ人は少ないでしょうし、「けいさん+しょう」と分析してみても、「計算+しょう」(?)では何だかわかりません。(「けいざいさんぎょうしょう」なら、「経済+産業+しょう」だとわかります。)

「こうろうしょう」の場合は、「功労賞」が頭に浮かんでしまったら、文脈とぜんぜん合わないでしょう。

もともと、「経産」あるいは「厚労」ということばがないので、頭の中に「こうろうしょう」という音が全体として「厚労省」あるいは「厚労相」として登録されていないと、解釈ができないわけです。

ですから、国語辞典としては「厚生労働省」を項目として立てるならば、「厚労省厚労相)」も項目としたほうがいいのじゃないか、と思って調べてみました。

 

前回は、三国と明鏡、新明解を見たので、次は岩波です。

 

 岩波国語辞典第八版

  けいさんしょう 経産相 経済産業大臣の略称。
  こうろうしょう 厚労相 厚生労働大臣の略称。
  のうすいしょう 農水相 農林水産大臣の略称。
  もんかしょう  文科相 文部科学大臣の略称。

 

岩波は独特です。他の国語辞典は省名を項目とすることが多いのですが、岩波はそうせず、「相」つまり大臣のほうだけを項目とします。

経産省」「厚労省」「農水省」「文科省」という省名は項目としてありません。その省略していない形、「経済産業省」などもありません。(他の辞書にはあります。)
それらがない理由は、おそらく、固有名詞だから、ということでしょう。岩波は、固有名詞は基本的に載せていません。

 

しかし、テレビやラジオ、あるいは周りの人の話し声が聞こえた中で、「もんかしょう」ということばがわからず、辞書を引いてみて(まあ、こういう場合に紙の辞書を引いて調べる人は非常にまれなのかもしれませんが)、「文科相」しか出ていなかったら、おや?と思うのではないでしょうか。

文科相」を項目とするなら、「文科省」も載せるべきでしょう。せめて、「文科相」の説明の中で「文科省」に触れるとか。

 

前回の記事で問題にした「-しょう」ということばは、上の4つだけではありません。もう一つありました。「こっこうしょう」です。

岩波には「国交相」という項目はありません。その理由は、上の4省とは違って、「国交」ということばがあり、項目になっているからです。「国交」の項の、別の用法の用例として「国交省」「国交相」が出てきます。

 

  こっこう【国交】①国家間の交際。「―断絶」②省としての「国土交通」の略。「―省」「―相」  岩波第八版

 

すでに述べたように、「経産相」などは、「経産」ということばがないので、その複合語として用例で出すこともできないわけです。(「文科」という項目はありますが、「もんか」でなく「ぶんか」です!)

国交相」が項目にならないように、「外務相」や「防衛相」などは項目になっていません。
それらは「外務」+「相」でわかるだろう、と考えているのでしょう。(「外務」の項の用例に「-省」がありますが、「防衛」の項には「-省」はありませんでした。)

この辺は、理屈が通っているというか、なんというか、なるほどなあ、と思います。

岩波は、独自の方針を決めて、いかにもその通りにやっている、という感じです。

ただ、例えば「文部科学省」もなく、「文科省」もなく、「文科相」だけが項目になっている、というのは、結局どうにも不自然な形になっていると言わざるを得ません。
使用者にすれば、「文科省」は固有名詞で(だから国語辞典の項目としない)、「文科相」はそうでない(だから項目とする)というようなことは意識されません。

 

さて、岩波は固有名詞を(基本的に)載せない、と上に書きましたが、例外は何事にもあります。

省庁名では、なぜか「警察庁」と「警視庁」がありました。他にもあるかもしれません。(「国税庁」「気象庁」「宮内庁」などはありませんでした。)

 

  けいさつちょう【警察庁】警察行政の中央機関。▽一九五四年に始まる。
  けいしちょう【警視庁】東京都の警察の本部。            岩波

 

明らかに固有名詞ですよね。なぜ警察関係は別なのか、まったくわかりません。
これは、意図的なものでなく、つい入れてしまったのでしょうか。

 

他の辞典にも簡単に触れておきます。

三省堂現代新国語辞典は、三国に近く、4つの省・相はきちんと書いているのですが、なぜか「農水省農水相」だけがありません。編集者の見落としでしょうか。

新選は「省」は一通りあり、なぜか「農水相」だけ大臣もあります。

現代例解は「省」のみで、「相」はなし。新明解と同じ考え方ですね。

集英社は「けいさんしょう・こうろうしょう・こっこうしょう」は項目がありません。「もんかしょう」は「文科省文科相」共にあり、「のうすいしょう」は「農水省」だけでした。前回とりあげた明鏡に似たような不統一さでした。

旺文社は、なぜか「農水省農水相」だけあり、他は「省」も「相」もなし。

デイリーコンサイスという小さな辞典を見てみたら、「農水相」以外はすべてあり、三国に次いできちんと書いてありました。

 

編集者の考え方がきちんとあって、そのようにしているという点では、三国・新明解・現代例解がいいですね。デイリーコンサイスと三省堂現代新がそれに続き、岩波は、ちょっと変だけれども、一応そうだと言えます。

 

追記 21.11.16

岩波の省庁で「検察庁」がありました。

警察庁・警視庁・検察庁」ですか。なんかかたよってますねえ。

新明解だと、「海上保安庁科学技術庁・(旧)環境庁気象庁金融庁宮内庁経済企画庁」などなど、たくさんあります。というか、実際にあるものは全部載せているのでしょう。

岩波はなぜ上の三つだけを載せたのか。編集者の好み?