新明解国語辞典の「胸」の項目を。
胸 1人間などのからだの前面で、首と腹の間の部分。また、その中にある肺臓・
心臓・胃など。「-〔=肺〕を病む/-〔=心臓〕が騒ぐ/-〔=胃〕が焼ける/
-をかきむしる(なでおろす)/-に手を当てる/-のすくような〔=痛快な〕/
-を張る〔=悪びれない(誇らしい)態度をとる〕/-をときめかす〔=期待で
わくわくする〕/-が一杯になる〔=言いたい事が有り過ぎたり 強い感情に迫ら
れたり して、何も言えない状態になる〕/-を借りる〔=すもうで、下位の者が
上位の人に稽古(ケイコ)をつけてもらう〕2「胸1」の中に宿ると考えられて
いる、人の心。「-を打つ話/-のうちを明かす/-を開いて〔=隠す所無く
率直に〕語り合う/-に懐(イダ)く(刻む)」(子見出し略) 新明解
身体の部分と「心」の二つです。内臓を表す用法は用例の中で解説されています。
それはいいのですが、「胸」と言うと多くの人が思い浮かべるであろうものが一つ抜けていると思います。
5 乳房。「━を隠す」 明鏡
5〔女性の〕ちぶさ。「豊かな-」 三国
2(人の)乳房。「-が大きい」▽遠回しの言い方。 岩波
1 体の前面で、首と腹の間の部分。「-を張って歩け」〔女性の場合は、特に
乳房をさすことがある〕「-をかくす」 学研新
これは、用法としてはっきり書いておいたほうがいいでしょう。
日常語としては、「乳房」よりも「胸」のほうがよく使われるでしょう。
私は、「ちぶさ」なんて語を口にしたことが、この数年であったかどうか。
では、「乳房」はどんな場合に使われるのか。
「乳房」を書きことばコーパスで見てみたら、ちょっと驚きました。
「乳房を+動詞」というコロケーションで、頻度がいちばん高いのは、「乳房を切除する」でした。その後は「(乳房を)挟む、圧迫する、(いる)、残す、再建する、作る」と続きます。(「いる」は補助動詞の用法です。)
「挟む」とは何のことかと一瞬思いましたが、がん検診のためのX線検査の際に「挟む」ことが必要なようです。それが、コーパスで二番目に頻度が高いのです。
「圧迫する」も同じ。「残す、再建する」は乳がんの手術の後の話です。「作る」も多くはその話です。
ちょっとびっくりしました。
「乳房+名詞」で頻度が高い3語は、これまた乳がん関係の「乳房温存」「乳房切除」「乳房再建」です。
「乳房」は「ちぶさ」「にゅうぼう」2つの読み方があるので、実際の用例がどちらの読み方をしているのかはわかりませんが、上の複合名詞では後者でしょう。
国語辞典で「ちぶさ」を見てみます。
ちぶさ 人や哺乳動物の雌の胸に(から腹にかけて)ある、乳を出す突起状の
器官。 新明解
他の辞書もほぼ同じです。
では、「にゅうぼう」は。岩波と明鏡。
にゅうぼう ちぶさ。 岩波 明鏡
これだけです。言い替えただけ。これでいいと思っているんでしょうか。指すものが同じなら、国語辞典として区別する必要はない?
項目なし 新明解(「乳房炎」あり)
「乳房炎」を「にゅうぼうえん」と読ませるなら、「にゅうぼう」という項目が必要でしょう。「ちぶさ(乳房)」という項目があるのですから。
いつもの新明解だと、
にゅうぼう 「ちぶさ」の意の漢語的表現。
とやりそうなところですが。(「絵画」の項目参照。ついでに、「絵」の項も。)
他の辞書のいくつかは、「位相」の違いを指摘しています。
にゅうぼう〔医〕→ちぶさ 集英社
集英社は医学用語だとしています。これだけでも、重要な情報です。
三国は〔生〕、「生物・生理」の用語とします。学研新は〔文〕、つまり「文章語」だと。
〔文〕「ちぶさ」の医学分野での言い方。 講談社類語
文章語で、医学分野の言い方としています。どうでしょうか。
書きことばコーパスで頻度の高かった、「乳房を切除する(とる、切る)」「乳房再建」などは、医者と患者との会話で普通に使われている表現ではないでしょうか。そうすると、「文章語」としていいかどうか。(「乳房を~」の例で「ちぶさ」か「にゅうぼう」かは決められませんが、私の感覚では後者です。)
その辺の細かいことはともかく、たんに「にゅうぼう=ちぶさ」としてしまうのは、どう考えても国語辞典として不十分だと思います。