ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

追い越す・追い抜く

三国の記述がちょっと足りない例です。

 

  追い越す  1追いついて、相手より先へ出て進む。2〔法〕車が追いついたあと、車線を変えて前に出る。→追い抜く2。3同僚や先輩よりも高い地位につく。  三国

  追い抜く  1追いついて、相手より先へ出る。2〔法〕車が追いついたあと、車線を変えないで前へ出る。→追い越す2。3同じ地位の他の人より進んだ地位になる。   三国
 

基本的な意味と、道路交通法での微妙な違いと、ひゆ的な人間関係の例。
細かな違いが3つ目の用法にあります。「追い越す」では「同僚や先輩より」だったのが、「追い抜く」では「同じ地位の他の人より」になります。
しかし、後者では「追いつく」必要がありません。もともと「同じ地位」なのだから。
それを「追い抜く」と言うか。
また、「追い越す」のほうでも、「同僚より」の場合、「追い越す」と言うか。

他の辞書を見てみます。

 

  追い越す  1あとから追いかけるものが前のものを越えて先へ出る。2今まで劣っていたものが追いついて、相手より更にまさる。または、目標を越える。「母の背丈を-」  岩波

  追い抜く  1あとから進むものが前のものを越えて先になる。2追いついて相手・目標より更にまさる。「先輩を-・いて出世する」  岩波

 

道路交通法での意味の違いは書かれていません。どちらも同じ用法を持つように書かれています。ひゆ的な意味の場合でも「今まで劣っていたものが追いついて」とあり、三国の「同僚」や「同じ地位の他の人」では言えないような語釈になっています。

 

  追い越す  1先行していたものを追い抜いて、前に出る。「遅い車を追い越す」2今まで劣っていたものが、相手よりまさったものになる。追い抜く。「兄弟子を追い越して師範代になる」  現代例解

  追い抜く  先行するものをわきから抜く。相手を追い越す。「ゴール寸前で追い抜かれる」「先輩を追い抜く」▽(名)追い抜き  現代例解

 

「追い抜く」のほうは用法を分けてありません。「先輩を追い抜く」がどういう面での話なのかわかりません。「ゴール寸前で」ということもあり得ます。「追い抜く」の項を見ればわかるということでしょう。「今まで劣っていたものが」です。

集英社は、この2語は同じ意味だとして、「追い越す」の項には「▽「追い抜く」ともいう」とあり、「追い抜く」の項には語釈がなく、「→おいこす」とあるだけです。
人間関係については「劣っていたものが追いついて相手より上になる(追い越す)」です。


用例・解説が詳しいのは小学館日本語新です。

 

  追い越す  1あとから来て、先のものより前に出る。追いついて前になる。[例]前の車を追い越す/当駅で特急列車に追い越されます。2自分より上位のものの上に出て、それよりまさったものにある。[例]師匠の技能を追い越す/兄弟子を追い越して関脇に昇進する。

  <類語>「追い越す」「追い抜く」の異同
  1この二語はほとんど同じに使われ、あとから来て先のものの前に出る意と、比喩的用法として、先行したり優れたりしているものよりまさったものになる意に使う。

  2数量や程度に関していう場合は「追い抜く」、地位に関していう場合は「追い越す」を使う傾向がある。

  3自動車の場合は、並走して進路を変えずに前に出るのを「追い抜く」、進路を変えて前に出、またもとの進路に戻るのを「追い越す」といって区別する。

  追い抜く  1あとから行って先のものより前へ出る。[例]トラックを追い抜く。2目標としたり優れていたりするものより、まさった状態になる。[例]輸出実績でA社を追い抜く/身長で兄を追い抜く。→「追い越す」の<類語>    小学館日本語新

 

また、講談社類語。意味別分類なので、ひゆ的な用法は別の項になっています。

 

  追い越す  先に行くものにあとから追いついて、さらに先に出る。「前の車を追い越そうとしてセンターラインをはみ出した」「追いつき追い越せ」

  追い抜く  おもに競争などで、先に行くものよりも先に出る。「彼女は前半は遅れていたが、後半になって多くの走者を追い抜いて3位に入った」

  ◇「追い越す」は、「あとから追いつく」ことに注目するが、「追い抜く」は、「並んだ状態から先に出る」ことに注目する。したがって、競い合っている場合は、「追い越す」ではなく「追い抜く」を用いる。  講談社類語

 

これだけ書いてくれると、「辞書を調べた」かいがあります。(ただ、私は講談社の解説にはちょっと納得できないところがあります。)


さて、三国の他にもう一つ、記述の大きく足りない辞書があります。新明解です。

 

  追い越す  追い越しをする。  新明解

 

これだけです。そして、「追い越し」の項は、車同士の話だけです。用例は「-禁止・-車線」

人間同士の地位の話はありません。競走などの話もありません。

 

  追い抜く  1追いついて先になる。追い抜きをする。2ほかの人より力や能力などが上になる。  新明解 

 

こちらは、用例がないことを除けば、三国と同じようです。2の用法では「元は劣っていた」という点が書いてありません。(「追い抜き」の項は車同士の話です。)

他の辞書と比べて「個性的」などというレベルではありません。どうしてこうなってしまったのか。「追い越す」に車以外の用法がないと考えているわけでもないでしょう。

新明解の古い版を調べてみると、その「改訂」の様子がわかります。

 

新明解第二版(1974)
  追い越す  追い抜く。[名]追越し。「-禁止」
  追い抜く  1追いついて先になる。追い越す。2ほかの人より力や能力などが上になる。[可能]追抜ける 

 

私は、残念ながら初版は持っていません。

二版には名詞「追越し」の項はありません。
二版では「追い越す=追い抜く」のようです。ここでは、ごく常識的な解釈になっています。

ただし、「追い抜く」の項では、1の用法にだけ「追い越す」と書かれています。2の用法では「追い越す」とは言えない、ということを主張しているのでしょうか。

第三版、四版では、「おいこし」の項が作られたこと、可能形「追抜ける」が削除されたほかは、語釈に変化はありません。

 

新明解第五版(1993)
  追い越す  追い越しをする。
  追い抜く  1追いついて先になる。追い抜きをする。2ほかの人より力や能力などが上になる。

 

第五版で現在(第七版)の形に書き換えられています。「追い越す=追い抜く」は否定され、「追い抜く」の項でも「追い越す」は削除されました。ここでの「追い越し(をする)」は車に関する用法なので、「前の選手を追い越す」とは言えないことになるのでしょうか。

昔の版のほうが常識的な解釈になっていました。「改訂」によって、おかしな語釈に書き換えられてしまっています。何か独自の主張があるのでしょうか。それとも単なる「ぽか」でしょうか。

 

  ぽか  「なんでもない場面においてしてしまう、予測もしなかった失敗」の口頭語的表現。「時どき-をやる/大-」  新明解

 

新明解は、調べがいのある、面白い辞書です。