新明解国語辞典の副詞の記述を検討しています。今回は「そこそこ」をとりあげます。
そこそこ (副) 1辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる様子。「年金で-暮らしていけるといいのだが」「-の成績を残す」「まだ四十-だというのに髪は真っ白になっていた」「募集期間中の応募者数は一割-」2〔「-に」の形で〕その事を十分に済ませたとは言えない段階で切り上げ、次の行動に移る様子。「食事も-に(して)出かける」「挨拶(アイサツ)も-に立ち去る」[運用]1で、自分に関するよい評価に対して、謙遜(ケンソン)や照れ隠しの気持を込めて用いられる。例、「高校のときは、そこそこ成績がよかった/『今期の売り上げはいかがでしたか』『そこそこ好調でした』」 新明解
1の、「辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる」という語釈を見て、そうかなあ、と思います。用例の中の「そこそこの成績」とは、どのくらいの成績なのか。
明鏡国語辞典を見てみます。(以下、新明解の2の用法(「挨拶もそこそこに」)にあたるものは省略します。)
2十分ではないが一応満足できる程度であるさま。「出演依頼も━来るようになった」「━見られる出来映え」3《数量を表す語に付いて》…くらい。「千円━の品」「十年━の歴史しかない」 明鏡
「十分ではないが一応満足できる程度」です。新明解の「辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる」と比べるとかなり肯定的に感じます。
新明解の「基準」とはどの程度のものなのか、何が「基準」と考えるのか。
また、「そこそこ来る/見られる」の用法と、「千円/十年そこそこ」の用法を分けて扱っていることも、新明解とは違います。
新明解は「年金でそこそこ暮らす」の例も、「四十そこそこだ」の例も、「辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる」という語釈で説明できる、という立場です。
他の辞書も見てみましょう。
[副] 2十分とはいえないが基準を満たし、一応満足できる程度であるさま。「給料はそこそこの額だ」
[接尾]数を表わす語に付いて、ほとんどそれぐらいの意を表わす語。…に足りるか足りないほど。「はたちそこそこの若造」[千円そこそこの買い物」 現代例解
<副>2十分ではないが、ある程度はできているようす。[用例]そこそこなおればいいさ。
<接尾>「やっとその数量に達したか達しないかぐらいの程度である」という意味を表わす。[用例]二十歳そこそこ。一五トンそこそこの漁船。 例解新
①《多くは接尾語的に》その数量に達するか達しないかという程度。大体そのくらい。「千円―の品」②《副詞的にも使う》どうやら認めてよい程度(に)。まあまあ。「予防に―の効きめがある」「彼の絵は―見られる」 岩波
そこそこ 十分ではないが、まあまあといえる程度。「英語も-話せる」「-の成績」 新選
-そこそこ せいぜいそれぐらいの数量の意をあらわす。「千円-の品」 新選
どれも明鏡のように二つの用法に分けています。
一つは「十分 ではない/とはいえない が」と限定されながらも、「基準を満たし、一応満足できる程度」「ある程度はできている」「どうやら認めてよい程度」「まあまあといえる程度」を示します。
文法的には、述語にかかるか、名詞を修飾する用法になります。
新選は、新明解と同じ「そこそこの成績」という例を出しています。それで、「まあまあ」なのです。
もう一つの用法は、明鏡は「数量を表す語に付いて」としていたもので、多くの辞書が「接尾語」としています。新選は項目を別に立てていて、見出し語の「-そこそこ」という書き方は、接尾語であることを示しています。
数量に関して、「ほとんどそれぐらい」「…に足りるか足りないほど」「やっとその数量に達したか達しないかぐらいの程度」「その数量に達するか達しないかという程度。大体そのくらい。」を表します。
この二つの用法は、意味的も文法的にも違うものなので、分けたほうがいいでしょう。
他の辞書を見たあと、改めて新明解の語釈を見てみると、
辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる
という語釈で一つの用法としてまとめることに、まず無理があるのだろうと思います。
そして、その「基準」とは何なのかと改めて思います。
現代例解も「十分とはいえないが基準を満たし、一応満足できる程度」として、「基準」という語を使っています。
新明解の例で言えば、「そこそこの成績」は「合格点」が基準でしょうか。もう少し上でしょうか。
また、「年金でそこそこ暮らす」の場合は、「世間並みの生活」でしょうか。
他の辞書も、「~程度」という言い方で、何らかの(ぼんやりした)「基準」を想定していると言っていいでしょう。
しかし、数量を表す用法では、「基準」とは言えません。
新明解の「募集期間中の応募者数は一割そこそこ」という例では何が「基準」なのでしょうか。「一割」は「基準」ではありえません。
もう一つの「まだ四十そこそこだというのに髪は真っ白になっていた」という例でも、「四十」は何らかの「基準」などではありません。
これらの例の「そこそこ」は、他の辞書が皆言う通り、「その数量に達するか達しないかという程度」(岩波)を表すものです。
結局、新明解の語釈は、この岩波の(数量の用法の)語釈に似た「(かろうじて)達するか達しないかの程度」と、現代例解の「基準を満たし、一応満足できる程度」の用法の「基準」を無理に合成した形のものになってしまっている、と言っていいようです。
そのために、どちらの用法にも合わない語釈になっている、と私は考えます。
「そこそこの成績」を、新明解は「辛うじて基準に達するか達しないかの程度」とかなり否定的にとらえますが、新選は「十分ではないが、まあまあといえる程度」と肯定的に言っています。
三省堂国語辞典はもっと肯定的です。
[副] 2並程度、または並以上であるようす。それなり(に)。「-もうけている・-の会社・-の距離がある」3ほどよいようす。ほどほど。「-につき合う・-でやめておけ」[接尾]〔数量が〕…ぐらい。〔やや少ない場合にも、多い場合にも言う〕「千円-で楽しめる」 三国
三国は「並程度、または並以上である」として、かなりいいほうへ傾いています。(用法の3を立てていて興味深いのですが、そこは議論しません。)
言うまでもなく、国語辞典の語釈の妥当性は多数決で決まるものではありませんが、それぞれの編集者達の語感として、「ある程度」「まあまあ」であることは一致しているようです。
数量に関しては、「その数量に達するか達しないかという程度」(岩波)であり、三国も〔やや少ない場合にも、多い場合にも言う〕としていて、新明解の語釈「基準」を「その数量」に置き換えれば、同じ内容になります。
以上、新明解の語釈はどうも変ではないか、という結論になります。
もう一つ、書いておきたいことがあります。
「数量」の用法で、「千円そこそこ(の品/で楽しめる)」という場合、「千円」自体が少ない数である、という含みがあると思うのですが、どの辞書もそれをはっきり述べていません。
明鏡や三国は「…くらい/ぐらい」と簡単に書いていますが、それだけではないでしょう。
新明解の「まだ四十そこそこ」で髪が真っ白になったり、「応募者数は一割そこそこ」などの例は、その意味合いがはっきり出ている例だと思います。
新明解の「辛うじて基準に達するか達しないかの程度にとどまる様子」の「とどまる」は、その含みを示しているのかもしれません。でも、やはり「基準」ということばが数量の用法には合いません。
「千円そこそこの品」で「基準」とは何でしょうか。
新選の「せいぜいそれぐらいの数量の意をあらわす」の「せいぜい」は、その「少なさ」を示していると言っていいでしょうか。「千円そこそこの品」は「お買い得」あるいは「安物」であるのでしょう。
もっと大きい額の例を考えてみましょう。「一億円そこそこの製作費」と言った場合、「一億円に達するか達しないか」という意味と、「一億円の製作費は少ない額だ」(例えば映画の製作費として)という意味合いがあるのではないでしょうか。
このことをはっきり書いている辞書は、私の見た中ではありませんでした。
ただ、「四十そこそこの男」という例だと、年齢が少ない、という意味合いは特にないと思います。
一方、「二十歳そこそこ」(例解新)と言うと、まだ社会経験が少ない、という含みを感じます。
さて、この辺はよくわかりません。年齢というものが社会的に持つ意味合いの問題なのでしょうか。