ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

国語辞典の「自動詞・他動詞」(28):三国第八版の自他

まだまだ続きます。

そろそろ国語辞典を離れて、そもそも「日本語の自動詞・他動詞」とは、ということを考えなくてはいけないと思うのですが、その前にどうしてもとりあげておかなければならない「事件」があります。

それは、先月、2021年の12月に三省堂国語辞典の改訂版、第八版が出版されたことです。

小型国語辞典の改訂はここ数年で何度もありました。

  現代例解第五版   2016年
  学研現代新第六版  2017年
  三省堂現代新第六版 2019年
  岩波第八版     2019年 
  新明解第八版    2020年 
  明鏡第三版     2021年

こう並べてみて、毎年一冊ずつ改訂版が出版されていたんだ、と改めて驚きます。

そして今回、三国の八版ですから、別に「事件」というほどのことではないのですが、問題は「動詞の自他の判定」に関わります。

まず、「序文」の終わりのほうに、

 

  さらに、この第八版では、新たに以下のような情報を追加します。〔詳しくは
  「この辞書のきまり」や付録を見てください〕。
   (略)
   三 機能に応じた品詞認定 (略)自動詞・他動詞は新基準で示します。

 

とあります。「新基準」とは。「この辞書のきまり」(「凡例」にあたる)を見ても、自動詞・他動詞のことは書いていないので、「付録」を見ます。

三国には今回の改訂で新しく「文法解説」が登場しました。「付録」の最初にあります。8ページ分。
めでたいことです。これでやっと、三国もまっとうな国語辞典の仲間入りをしました。(まだ「まっとう」でないのは…)

その最初の「基本的な考え方」から。
 
  この辞書を使うために必要な日本語文法の知識は、中学校の教科書で扱う口語文法
  〔以下「学校文法」〕の範囲でおおむね事足ります。(略)
  この辞書の文法に関する考え方は、基本的には学校文法に従っていますが、独自の
  方針をとる場合もあります。辞書として冗長を避けるためや、あいまいさをなくす
  ためなどの理由によります。   三国第八版 p.1690

 

「独自の方針をとる場合」とはどんな場合でしょうか。
動詞の自他が、まさにそれです。

少し後の動詞のところで、自他についてこう書いています。

 

   この辞書では、作文や日常会話のために役立つように、実用的な立場から、次の
  ように動詞の自他を決めます。
   ・「〇〇を」の形を受ける動詞は他動詞〔(他)と表示〕
   ・「〇〇を」の形を受けない動詞は自動詞〔(自)と表示〕
  (略)
  さらに、「歩く」は、単に「ネコが歩く」とも言いますが、「ネコが道を歩く」とも
  言うので、自動詞でも他動詞でもあります。
   文法書の中には、「歩く」「行く」「出る」「離れる」など移動を表す動詞を自動
  詞に含めるものも多くあります。「道を掘る」の「道を」は掘る対象なので目的語、
  「道を歩く」の「道を」は歩く対象ではないので目的語でないというわけです。
   しかし、どちらの「道を」も、動作に直接必要な要素を表すことでは共通します。
  「道を歩く」の「道を」は、その上を直接歩くことを表しています。「北に歩く」の
  「北に」が歩く動作に直接かかわらないのとはあきらかに違います。

   この辞書では、「〇〇を」の部分を、動作・作用などが成り立つのに直接必要な
  要素を表すものととらえ、この形を受ける動詞を「他動詞」、この形を受けない
  動詞を「自動詞」とします。(他)とあれば、「『〇〇を』を受けることができる」
  という意味です。             三国第八版 p.1693-4


これは、これまでの三国の版(おそらく初版から)と大きく違います。
これまで何十年もの間、ずっと上の引用にある「文法書」と同じ立場でやってきたのですが、なぜか、急に態度を変えて、上のようなことを言いだしたのです。

なんたる蛮勇暴挙。いいですねえ。

もちろん、それが正しいと思うから改めたのだというならば、

 

  あやまちては即ち改むるに憚ることなかれ<論語>  旺文社「あやまつ」の項

 

ですからいいのですが、では、今までは「あやまち」であったのでしょうか。

辞書本文の「自動詞」を見ると、当然、第七版までの書き方からはっきり書き換えられています。

 

  自動詞〔言〕その動作が直接に影響をおよぼす対象を持たない動詞。例、「走る・
    行く」など。  三国第七版

  行く(自五)②〔ある方向に動いて〕場所が変わる。「道を-人」 三国第七版

 

七版では「道を行く人」は自動詞です。

 

  自動詞〔言〕「…を」にあたる要素をおぎなわなくても、動作・作用などをあらわせ
    る動詞。例、「すわる」「燃える」。(⇔他動詞)⇒付録 文法解説「動詞」。
            三国第八版

  他動詞〔言〕動作・作用などに必要な要素〔「…を」にあたる〕をおぎなって使う動
    詞。例、「書く」「こわす」。〔この辞書では「歩く」「出る」などもふくむ。
    ⇒付録文法解説「動詞」〕(⇔自動詞)     三国第八版

 

八版では、はっきり「歩く」も他動詞にふくまれると書いています。

これまで、何十年も「自動詞」としてきた例、「道を歩く」を、これからは「他動詞」と考えよう、というのです。「道を行く」も他動詞です。

 

この考え方自体は、特に新しいものではありません。約100年前に松下大三郎がすでに述べていることです。しかし、それは主流の考え方にはならなかった。

「を」が受けられるものは他動詞、というのはある意味わかりやすい基準です。それですべて(日本語文法の体系という点でも)うまく行くのなら話はかんたんで、こんなに議論が分かれることはなかったはずなのですが、そうではありません。

そもそも「自動詞/他動詞」という分類は何のためなのか、そう分けることによって日本語の文法体系が見通しのよいものになるのか、という点から考え直さなければなりません。その問題も、少しずつ考えてみたいとは思っているのですが…。 

 

その説の是非ということとは少し別に、国語辞典はどういう説によることが望ましいかという問題もあると思います。

前に形容動詞についていろいろ書いた(「2021-09-20 新明解と形容動詞」など)時に、3冊の国語辞典が通説と違った形容動詞の扱いをしていることを述べました。

まず、新明解は形容動詞という品詞を認めず、「いわゆる形容動詞としての用法を併せ有するもの」という言い方で、名詞や副詞としていること。そして岩波は形容動詞の範囲をかなり限定し、一般に形容動詞とされる多くの語を名詞としたこと。逆に明鏡は「-の」の形で名詞を修飾する、一般に名詞とされる語を形容動詞とし、形容動詞の範囲を拡大したこと。

これらの辞書は、一般の説とは違うことを主張し、辞書の項目に反映させているわけですが、では、それでその辞書の使用者に何か不都合があるかというと、おそらくほとんどないのだろうと思われます。
ある語を形容動詞とするかどうかは、日常の言語活動に影響しません。

中学校で「国(語の)文法」を習う時にこれらの辞書を使っていると、多少問題が起きるかもしれません。これらの辞書は、中学生に薦める辞書としては、ちょっと問題があります。
しかし、中学生はこれらの辞書の主な購買層とは考えられていないでしょう。これらは「社会人」向けの辞書です。


ここに、三国の問題があります。三国はそもそも学習辞典としての側面が強くある辞書です。中学生から、あるいは小学生の高学年にも使える辞書である、と。
中学生にお薦めの辞書なのです。

その辞書に、学校の文法と違うことを書いてもいいのか、という問題があります。

前に「国語辞典の「自動詞・他動詞」(7)」でも紹介した学研新の「現代日本語の文法」に

 

   「を」を受ける動詞がすべて他動詞かというとそうではなく、「家を出る」
   「零度を割る」「道を歩く」のように、離脱点や基準点や移動の場所などを
   表す「~を」の下にくる動詞は自動詞である。この「を」は<対象>を表し
   てはいない。   学研現代新 付録「現代日本語の文法」から

 

とあります。中学校でここまできちんと教えているのかどうか私は知りませんが、この説を多くの辞書が受け入れているのです。

それを、三国は否定して、独自の道を行こうとしているわけです。(それも、ちょうど私が「国語辞典の自動詞・他動詞」などという調査をして、第七版を元に他の辞書との比較表なんぞを作っている時に、です。いや、まあ、それはどうでもいいことですが。)


もう一つの問題は、三国は上の引用にあるように
  「〇〇を」の形を受ける動詞は他動詞
と決めたのですが、それが実際に辞書の項目に反映されているかどうか、漏れはないか、という問題です。

これまで、多くの移動や離脱などを表す動詞を自動詞としていたのですが、それらをすべてきちんと書き直したかどうか、です。

私は、三国の第八版を入手し、自動詞・他動詞の定義を変えたことを知って、なんてことをしたんだ、と驚きかつ喜んだのですが、ふと、しかし大丈夫かなあ、ちゃんと書き換えてあるのかいな、といくつかの動詞を調べてみました。

「歩く」「走る」「泳ぐ」は、確かに「自他」となっている。では、「飛ぶ」は?
自動詞のままです。いうまでもなく、「飛ぶ」は「を」をとります。

 

  空を飛ぶ 鳥のように 自由に生きる  (金子詔一:今日の日はさようなら)

 

音楽の時間にこの歌を習った中学生(三国八版愛用者)が、なるほど、「飛ぶ」は他動詞なんだな、と思って三国を見ると「自」であった、というのはまずいでしょう。

「行く」「来る」は「自他」ですが、では「帰る」は。これも「自」のままです。

 

  あたしが出した 手紙の束を返してよ  誰かと二人で 読むのはやめてよ
  放り出された昔を胸に抱えたら  見慣れた夜道を 走って帰る
                             (中島みゆき:化粧)

 

「夜道を走って帰る」は、「夜道を走る」と考えることもできますが、「夜道を一人で帰る」とも言えるので、やはり「夜道を帰る」のでしょう。

 

で、いろいろ探してみました。 

「飛ぶ」に関して言えば、その複合動詞も多く「を」をとれるのですが、みな自動詞とされています。
「(全国を)飛び歩く」「(崖を)飛び降りる」「(ハードルを)飛び越える」などなど。

また、「走る」は「自他」になっていますが、「(ゴールを)走り抜ける」は「自」のままです。「走り込む」は「走って入る」の意味では自動詞ですが、「(駅伝のコースを)走り込む」では「を」をとるので、三国の基準なら他動詞です。

 

自動詞と見なされそうな動詞で、「を」をとり、かつ三国が「自」としているものを見つける、というのは、正月に楽しむパズルとしてはなかなか面白いものでした。

このリストはけっこう長くなるので、また次回に。