ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

「勝ち越す・負け越す」:広辞苑など

広辞苑のはっきりしたミスを見つけました。大したことではありませんが。
「勝ち越す・勝ち越し」「負け越す・負け越し」の項目を。

 

  勝ち越す(自五)負けた数より勝った数が多くなる。相手より多く勝つ。「一点
    -・す」
  勝ち越し 勝ち越すこと。「横綱の-が決まった」

  負け越す 負けた回数が勝った回数をうわまわる。         
  負け越し 負け越すこと。「今季の-が決まった」   広辞苑第七版     

 

「負け越す」に動詞であることを示す(自五)がありません。これは(動)という品詞表示の代わりでもあるものです。(品詞表示が何もなければ、名詞か連語ということになってしまいます。)

第五版でも同じです。これは、改訂の際に誤って抜け落ちるというものでもないでしょうから、この項目は最初から(初版?)品詞(活用)表示が抜け落ちていたのでしょう。

ただ、これは利用者にとっては格別問題のないことなので、付け足せるときに直せばいいことでしょう。

 

私から見て、それ以上に問題なのは「勝ち越す」で語釈と用例がずれていることです。こちらは、単なるケアレスミスではなくて、きちんと考えていないということでしょう。

語釈は「負けた数より勝った数が多くなる」ということですが、その用例「一点勝ち越す」の「一点」とは何でしょうか。「勝った数」ではないでしょう。

例えば野球で一点負けていたのが、「ツーランホームラン」で「一点勝ち越した」というような場面で使われる言い方です。

「勝った数」ではなくて、この場合は「得点」です。「勝つ」のではなくて、「リードする」のです。

この用例を書いた執筆者、それを点検したはずの編集者はこの語釈と用例のずれに気づかなかったのでしょうか。

 

岩波を見てみましょう。

 

  勝ち越す〘五自〙勝った数や得点がうわまわる。⇔負け越す。「一点-」    

  負け越す〘五自〙負けた回数が勝った回数をうわまわる。⇔勝ち越す   岩波

 

「得点がうわまわる」のですね。で、「一点勝ち越す」という用例が理解できます。
「負け越す」には「得点」は関係ありません。「負けた回数」だけです。

 

新明解も広辞苑と同じで、「勝った数」だけです。ただ、用例はありません。

 

  勝ち越す(自五)勝った数が相手(負けた数)より多くなる。⇔負け越す
    [名]勝ち越し

  負け越す(自五)負けた数が相手(勝った数)より多くなる。⇔勝ち越す
    [名]負け越し        新明解    

 

「語釈と合わない用例」でもあったほうがいいでしょうか?

 

明鏡は、第二版と第三版で違います。

 

  勝ち越す(自五)勝負で勝った数が、負けた数よりも多くなる。「八勝七敗で━」
    ⇔負け越す [名]勝ち越し
  勝ち越し 勝ち越すこと。「千秋楽で━を決める」⇔負け越し 

  負け越す(自五)勝負・試合などで、負けた回数が勝った回数より多くなる。
    ⇔勝ち越す [名]負け越し
  負け越し 負け越すこと。「七勝八敗の━になる」⇔勝ち越し  明鏡第二版

 

第二版では「勝った数」だけです。新明解より用例が多くあります。

第三版。きちんと改訂されています。

 

  勝ち越す(自五)勝負で勝った数が、負けた数よりも多くなる。獲得した点が
    奪われた点よりも多くなる。「〔大相撲で〕八勝七敗で-」「八回裏に二対一
    と-した」⇔負け越す [名]勝ち越し
  勝ち越し 勝ち越すこと。「千秋楽で-を決める」⇔負け越し
  (「負け-」は二版と同じ)                 明鏡第三版

 

「点」のことが書き加えられ、用例が相撲と野球の二つになりました。
(なぜ「〔野球で〕」と注記しないのでしょうか。)

明鏡の「改訂」では、第三版の用例が第二版より減らされていることが多く、かえって悪くなっている例をこれまで多く見てきたので、困ったものだなあと思っていたのですが、この「勝ち越す」に関してはよくなっています。こうあってほしいものだと思います。

 

三国も改訂によってよくなりました。まず第七版。

 

  勝ち越す(自五)勝った数が<相手を追いこす/負けた数より多くなる>。
    (⇔負け越す)[名]勝ち越し。「一打-」  

  負け越す(自五)負けた数が、勝った数より多くなる。(⇔勝ち越す)
    [名]負け越し。                      三国第七版

 

これは広辞苑と同じです。「勝った数」と「一打勝ち越し」の違いに気づいていません。(まさか、「この一打で勝ち数が相手を追い越す」という意味ではないでしょう。そういう場合もあるかもしれませんが。)

「一打勝ち越し」という用例の出し方は、(いつも三国について繰り返し述べていることですが)「わかる人にはわかる」用例でしかありません。「一打勝ち越し」という表現が使えるのは非常に特殊な場面です。それがわかっている人にしか、この用例は意味を持ちません。
せめて「ヒットが出れば一打勝ち越しの チャンス/場面」ぐらいにしたらどうでしょうか。もちろん、語釈に「点のリード」の意味を書き加えて。

第八版でずっとよくなりました。

 

  勝ち越す1(自五)勝った数が<相手を追いこす/負けた数より多くなる>。
    (⇔負け越す)
    2(自他五)〔試合で〕得点が相手を上回る。「ソロホームランで一点を-」
     [名]勝ち越し。「一打-」
  負け越す (七版と同じ)

 

これが改訂というものです。

「負け越す」は「勝ち越す」の2の用法には対応しないことがはっきりわかります。また、2の用法で(自他)となっているのも細かいです。いい用例が加わりました。

 

三省堂現代新も、用法を分けています。

 

  勝ち越す 1勝った数が負けた数より多くなる。[対]負け越す。2相手より 
    多い得点を取る。[可能]勝ち越せる。
  勝ち越し 勝ち越すこと。「〔相撲で〕今場所の-が決まる・〔野球で〕逆転の
    -ホームラン」[対]負け越し

 

用例の〔相撲で〕〔野球で〕と場合を分けているのもいいと思います。ただ、「負け越し」が野球の得点に関しても反対語として言えるかどうか、疑問です。

 

さて、まだ問題が残っています。

「勝った数が多い/多くなる」ということについて。
明鏡の用例で「〔大相撲で〕八勝七敗で勝ち越す」というのがありましたが、「勝った数」が多いというだけなら、「(11日目に)六勝五敗で勝ち越している」と言えるのでしょうか。また、その後2連敗したら「六勝七敗で負け越している」と言うのでしょうか。

私はあまり相撲を見ないので自信はないのですが、たぶん、そう言わないのでしょう。一場所15日の中で、「勝った数」が多いこと、ではないでしょうか。つまり、八勝すると「勝ち越す」。

七連戦、七番勝負の戦いなら、4勝すれば「勝ち越し」あるいは、その戦いの「勝者」になるのです。

「勝ち越す」と言うためには、全体の試合数が決まっていて、その半分を越えた時に言うのが基本じゃないか。
野球のシーズン途中で、50勝40敗ぐらいの時に、「勝ち越している」と言えるのでしょうか。
特定のチームどうしの話だと、シーズン途中でも「阪神はここまで巨人に勝ち越している」と言えるのか。なんか言えそうですね。私は野球もあまり見ないので、この辺の言い方にはまったく自信がありませんが、どうでしょうか。

 

学研国語大辞典に興味深い記述があります。

 

  勝ち越す 1〔何回か行う勝負で〕勝った数が負けた数より多くなる。
    2競技で、相手より多い得点をとる。[対]1・2 負け越す。
  勝ち越し かちこすこと。「全勝を続ける横綱は八日目の取組で早々と
    -を決めた」[対]負け越し。   学研大

 

この「〔何回か行う勝負で〕」というのは、「〔何回か[決まった回数]行う勝負で〕」ということではないでしょうか。そうだとすると、すぐ上で述べた内容に対応しています。

私はこの学研大という辞書はいい辞書だったと思うのですが、残念ながら第二版が出た後、改訂されないままになっています。紙版が無理であるなら、デジタル版の形だけでも改訂がなされないものでしょうか。(元の版のデジタル版はすでにありました。)

 

さて、さらに話は続きます。

今度は「得点」のほうの話です。

三国第八版の「〔試合で〕得点が相手を上回る。」というだけのことなら、例えば試合が終わった後で、「今日の試合は5対3で勝ち越した」と言えるかというと、そうは言わないでしょう。それは単に「5対3で勝った」のでしょう。

例解新と現代例解の注意深い記述を。

 

  勝ち越す 1 勝った回数が負けた回数をうわまわる。[対]負け越す。
     2 試合の中で、相手より得点が多くなる。
          例解新第九版(すみません。十版はまだ買っていません。)

  勝ち越す 1 勝負で、勝った数が負けた数より多くなる。⇔負け越す。
    「八勝七敗で勝ち越す」2 試合の途中で、相手よりも多く得点している。
    「二点勝ち越す」[名]勝ち越し「勝ち越しのホームラン」    現代例解

 

「試合の中で」「試合の途中で」と書いています。この辺が細かいです。
(なお、現代例解の「多く得点している」よりも、例解新の「多くなる」のほうがいいと思います。「勝ち越す」というのは、そうなった時に言うのでしょう。6回表に「5対3と勝ち越し」ても、7回裏に「5対7と逆に勝ち越され」たりするのですから。)

得点の話は「負け越す」には言いません。相手を「越す」わけですから、勝つほうにしか言えないということでしょう。

 

「勝ち越す」というのはなかなか難しいことばです。

広辞苑は、(現代語に関しては)おおざっぱな辞書であるなあ、というのが、最近、色々調べてみての感想です。