ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

ともすれば・ともすると

 新明解がよいと思われる項目を。

 

  ともすれば 副 ともすると。  明鏡

        〘連語〙→ともすると   岩波

        (副)適切な対処(注意)を怠ると、そうなる傾向が現われやすい様子。
        ともすると。「-湿りがちな雰囲気を明るくする/-時代の風潮に
        流されやすい」    新明解

        三国 なし

 

  ともすると 副 場合によってはそうなりやすいさま。どうかすると。ともすれば。
         「━怠け癖がでる」  明鏡

       〘連語〙何かにつけ…しがち、…になりがちだという情況を言う語。
        どうかすると。ともすれば。「―悲観的になる」   岩波

     (副)ともすれば。「-、寝坊しがちな昨今」   新明解

     副 <ちょっとした理由で/ゆだんすると>、すぐそうなるようす。
        どうかすると。ややもすれば。ともすれば。「-気がゆるむ・
        -見すごしがちだ」   三国

 

「ともすれば/ともすると」はほぼ同じように使われるようです。

明鏡と岩波は「ともすると」に解説をつけ、「ともすれば」は「ともすると」を見よ、で済ませます。

新明解は「ともすれば」のほうに解説をつけています。これはまあ、どちらでもいいのでしょうが、新明解は「ともすると」のほうにも用例をつけているのがいいと思います。

三国は「ともすれば」の項目がありません。これはよくないと思います。使用頻度に差があるという判断でしょうか。

 

さて、その解説の内容ですが、明鏡と岩波は「そうなる傾向」「そうなりがちだ」と言うだけです。
用例は好ましくない内容ですが、よいことにも言えるのかどうか。

三国の例も同様に好ましくない内容です。語釈には「ゆだんすると」とあり、好ましくないことが暗示されていますが、今一つはっきりしません。

新明解は、「適切な対処(注意)を怠ると」として、不注意による好ましくない結果について使われることがよりはっきり示されています。

 

この4冊の中では新明解がよいと思ったのですが、他にもっとはっきり書いた辞書がありました。

 

  ともすると ある状態になりやすいさま。ややもすると。ともすれば。「-怠け
    がちになる」▽多く、好ましくない様子にいう。   集英社

 

こういう辞書があると、これがいいかなと思います。ただ、用例が一つだけというのはちょっとさみしいです。

「多く」というのは、好ましいことにも使えるということでしょうが、その例はどんなものでしょうか。

こういう場合、例えば好ましくないことの例が3例、好ましいことの例が1例、というふうに用例があげられていれば、なるほど、という気がするのでしょう。

(そうでなければ、好ましくない例ばかり2つの項目で2例ずつ、計4例、とか。)

いつもの「紙幅が云々」という言い訳のため、そういう辞書はないのでしょうが、そうあってほしいものだといつも思います。

 

新明解の副詞:まさか

新明解国語辞典の語釈の問題点です。

 

  まさか   (副)〔「まさ」は、「まさしく・まさに」の語根と同義。「か」は接辞〕
    あるはずがないと確信している事が、意外にも実現した場合を想定する
    (して信じられないことだと思う)様子。[表記]「真逆」と書くこともある。
    [文法]一般に、否定的な内容の表現を伴ったり含意したりして用いられる。
    [運用]感動詞的に用いて、相手の発言内容に驚いたり 疑いをいだいたり 
    するときの言い方となる。例、「『佐藤さんを次期専務に推す声があるん
    ですよ』『まさか』」    新明解

 

新明解は「あるはずがないと確信している事が、意外にも実現した場合を想定する(して信じられないことだと思う)様子」としていますが、用例がないので、「実現した場合を想定する」というのがどういうことを言いたいのかどうもはっきりしません。

 

明鏡・岩波は違う解釈です。

 

   《下に否定的表現を伴って》どう考えてもそのような事態は起こりそうもない
    という気持ちを表す。いくら何でも。よもや。「━雨にはならないだろう」
    「━ねえ、失敗するとは思わなかったよ」「『━結婚はしてないだろうね』
    『いえ、その━なんですよ』」「━の敗北」   明鏡

   ①《普通はあとに(推量的)打消しを伴って》そんなことはあり得ない、または
   とてもできない(だろう)という気持を表す語。よもや。いくら何でも。「―君
   ではないだろうね」「―恩知らずとも言えないし…」。  岩波

 

明鏡も岩波も「起こりそうもない」「あり得ない・とてもできない」と否定・打ち消し(の推量)だとしています。

 

三国は上の明鏡・岩波と同じ用法と、おそらく新明解と同じ解釈のどちらも認めています。

 

   1そんなことはないだろうという推量や、それが実際にあったというおどろき
    をあらわす。「-知るまい・-入賞するとは、と喜んだ・-の初戦敗退・
    『おばけかな』『-!』」  三国

 

私は、この三国の記述がいいと思うのですがどうでしょうか。

 

それにしても、何で新明解はまともな用例がないのでしょうか。

唯一の例である[運用]の感動詞的用法「まさか!」は「そんなことがあるはずがない」という気持ちを表しているのですから、副詞用法の語釈と整合していません。「実現した場合を想定」しているわけではありませんから。

 

書き言葉コーパスからの例を少し。

 ・まさか無いとか言わないよね?
 ・そんなことはまさかないでしょう。
 ・そういうことはまさかないと思います。
 ・まさかないだろ…と思っていた商品が。
 ・念を押すのを忘れたがまさかなくしてしまうとはな、困ったものだ。
 ・まさか無いだろうと思っていた「ガチャ子の帰還」が実現してしまったのだ。
 ・その当時は私自身、「雷が我が家に落ちるなんてまさか無いよな〜」なんて思ってました。
 ・まさか本気で言ってないよね?
 ・それともまさか本気で言ってるのか?
 ・でもまさかそうではないでしょう。
 ・そしてまさか自分の旦那がそうだなんて、夢にも思いませんでした。
 ・まさかそんなこと本当にするわけないからな。
 ・まさかと思った。
 ・最初はまさかと思いました。
 ・まさか、そんなはずはない。
 ・まさか本当に出て来るとは。
 ・まさか津波なんてくる訳ない!
 ・まさか犬が食べちゃったの!?

こういう実例をたくさん調べて、自分の辞書の語釈で全部説明できるかを考える、というのが辞書の執筆者・編集者の基本作業だと思うのですが、それをきちんとやっているのかどうか。

実例をしっかり分析していれば、自分の辞書の解釈に合うような用例をのせるのはそんなに難しいことではないと思うのですが。

 

熱い

短い話。新明解と岩波の「熱い」が不十分だという話です。関係する用法だけ引用します。

 

  熱い 物が高い熱をもっていて、接触したり 近づいたり するとからだに強い
     刺激を受ける(のが危険だと感じられる)状態だ。「-砂の上をはだしで
     駆け回る/-食べ物や飲み物は苦手だ/燗(カン)を熱くする」  新明解

  あつ-い【熱い・暑い】〘形〙温度が著しく高い。そういう感じだ。①熱せら
   れている。[熱]冷たい。㋐物の温度がきわめて高い。「鉄は―うちに鍛えよ」
   「―うどん」▽それが体(の一部)に触れた時に起こる感じを言う。  岩波

 

明鏡と三国は用法2として次のように書きます。

 

   2 体や体の一部が、普通より高い熱をもっていると感じる。特に、病気の
    ために体温が高いと感じる。「体中がほてって━」「君の手は━ね」     明鏡

   2 体温が高い(感じだ)。「ひたいが-」   三国

 

「体温が高い」場合も「熱い」と言います。新明解と岩波はこの用法を書いていません。
また、それぞれの語釈はこの用法をカバーしているとは言えません。

 

寒い・暑い・涼しい

新明解国語辞典の記述がどうも変です。

 

  寒い ⇔暑い 気温が低くて、快適に過ごすことが出来ない状態だ。
   〔赤道から遠く隔たった地帯やヒマラヤの高山などのように、年間を通じて
    気温が低く寒く感じられる所を指すこともある〕「冬の-朝/背筋(セスジ)
    が寒くなる〔=⇒背筋〕/懐(フトコロ)が-〔=⇒懐〕 
                               
  暑い 気温が高くて、快適に過ごすことが出来ない状態だ。
   〔赤道やそれに近い地帯のように、年間を通して気温が高く暑く感じられる
    ところを指すのにも用いられる〕⇔寒い     新明解

 

それぞれのかっこの中は何が言いたいのか。

 

  赤道から遠く隔たった地帯やヒマラヤの高山などのように、年間を通じて気温が
  低く寒く感じられる所を指すこともある

 

これが「寒い」の記述?「~所を指す」?

例えば、次のような書き方なら、まだ、わかるのですが。

 

    寒い ⇔暑い 冬、気温が低くて、快適に過ごすことが出来ない状態だ。
   〔赤道から遠く隔たった地帯やヒマラヤの高山などのように、年間を通じて
    気温が低く寒く感じられる所の状態を指すこともある〕

 

こういうことが言いたかったのでしょうか?(でも、「~こともある」は、やはり変ですね。)

もちろん、「寒い」のは「冬」に限った話ではありません。私は、夏の暑いときに冷房の効きすぎたコンビニなどに入ると、「涼しい」を通りすぎて「寒い!」と感じます。(この時のコンビニの室温は、ふつう「寒い」というような温度ではありません。)

また、ずいぶん昔の中学時代の思い出ですが、梅雨時の外のプールの授業は曇り空だと寒かった記憶があります。

人が「寒い」と感じるのは、気温(あるいは「室温」)だけの問題ではなくて、人の側の状態、感じ方にもよるわけです。

次の三国の記述がいいのではないでしょうか。

 

  寒い まわりの空気が、からだ全体に冷たく感じられ(て、がまんできなくな)る
     状態だ。   三国

 

上の「暑い」の記述についても同じようなこと(「赤道や~ところを指すのにも用いられる」について)が言えますが、省略します。

 

もう一つ、「涼しい」もちょっと変です。

 

  涼しい (今までの)不快な暑さが感じられない気温になり、快適に過ごせる
    状態だ。〔一般に夏の終りから秋にかけての空気が多少冷ややかに感じられ
    る気候の状態を指す〕   新明解

 

この語釈はちょっと限定しすぎではないでしょうか。「夏の終りから秋にかけて」に「涼しい」ということばを使うことが多いのは確かでしょうが、その「気候の状態を指す」のを「一般に」と言っていいかどうか。

たんに、暑い夏に、扇風機をつけて「ああ~、すずしい~」と言うのはごく一般的な使い方ではないでしょうか。

同じ気温でも、夏に木陰に入って風が吹いてくれば「涼しい風」と感じます。風そのものの温度が低いわけではありません。(これは「気温」ではなくて「体感温度」です。) 

もっと普通には、クーラーをつけた部屋に入って「涼しい」と感じる。これは「室温」ですね。

 

ということで、上の「涼しい」の項目の記述は、執筆者の思い込みが偏っているように思います。

私の勝手な想像ですが、執筆者の思いは、「同じような気温でも、春にはそれを「涼しい」とは言わず、「暖かい」と言う」というようなことがあるのじゃないか、と思いました。その辺のことをあれこれ思い、しかしそんなことを詳しく書くこともできず、上のような書き方になったのじゃないか、と執筆者の気持ちを勝手に想像してしまいました。(同じ執筆者が、「寒い」と「暑い」の項も書いたのでしょうか? そこでの「思い込み」の内容は何だったのか?)

 

冷たい

「冷たい」についての国語辞典の記述に疑問を感じました。

まず新明解の問題点から。

 

    (形)⇔熱い 1雪や氷に触ったときのように、そのものに触れて、刺すような痛みが
   感じられたり皮膚の感覚が失われるように感じられたり する様子だ。「-水/
   風が-/救助隊が駆けつけたときには遭難者はすでに冷たくなっていた〔=死ん
   でいた〕/冷たく冷やしたスイカ
   2人や物事に対して無視する態度をとったり 心配りを欠いた対応をしたり する
   様子だ。「-目で見る/冷たく扱われる/関係が冷たくなる」  新明解

 

語釈では「刺すような痛み」「皮膚の感覚が失われる」とマイナス面ばかり書いていますが、用例の「冷たく冷やしたスイカ」がそのようなものでないのは明らかです。

「冷たい」には「心地よい刺激」の面があるのですが、そのことに触れないのはなぜでしょうか。

 

明鏡を見てみましょう。(以下、新明解の用法2に当たるものは省略します。)

 

  1物質の温度が自分の体温より著しく低いと感じる。「━・く冷えたジュース」
  2体や体の一部が、普通より低い熱をもっていると感じる。「凍えて手が━」 明鏡

 

用法1の語釈は中立的な書き方ですが、用例の「ジュース」は(おそらく)プラスの意味合いです。寒い時に「冷たく冷えたジュース」を出されて不快だったという文脈ではないでしょう。それならば、「自分の体温より著しく低い」というだけの記述は意図が明確とは言えません。

つまり、いつも書いていることですが、語義の説明が、その語の意味用法をすでに知っている人に対するものになってしまっています。語義の説明は、それを知らない人に対して、新たにその意味を習得できるように書くべきです。(国語辞典でそれをあまり馬鹿正直に行うのは、確かに回りくどいものになる場合がありますが、基本的にはその姿勢で行くべきです。)

「冷たい」は、不快な場合にも、心地よい場合にも使えます。
「川の冷たい水」は、夏なら気持ちよく、冬に足を滑らせて落ちたら著しく不快でしょう。「冷たい」の快不快は文脈によるのです。

それは、他の温度関係の形容詞と比較すると、注目すべき特徴です。

 

「熱い」「暑い」は、多くの場合「不快」もしくは「危険」な場合に使われます。

 

  熱い 物が高い熱をもっていて、接触したり 近づいたり するとからだに強い
     刺激を受ける(のが危険だと感じられる)状態だ。   新明解

     火に近づいたときのような感じだ。   三国

  暑い 気温が高くて、快適に過ごすことが出来ない状態だ。  新明解

     気温や体全体で感じる温度が、適温より高いと感じる。  明鏡

 

それに対して、「温かい」「暖かい」は「心地よい」ことを表します。 

 

  〖暖〗気温がほどよい高さを保って心地よい。寒くなくて快い。
    「━国」「今年の冬は━(⇔寒い)」「━春の日差し」「━(⇔冷たい)風」
  〖温〗物の温度がほどよい高さを保って心地よい。冷たくなくて快い。
     「━料理」「ポットのお湯はまだ━」「井戸の水が━」 ⇔冷たい  明鏡

  適度の温度があって、寒さ・冷たさなどによる不快感を受けることがない様子だ。
  「温かい」とも書く。    新明解  

 

「寒い」「涼しい」の対立も同様です。

 

  寒い 気温や体全体で感じる温度が、適温より低いと感じる。⇔暑い

  涼しい 気温や体全体で間接的に感じる温度が、適度に低く、心地よい。  明鏡

 

繰り返しますが、「冷たい」だけが「快」と「不快」のどちらも表せるのです。と言うか、「冷たい」だけが対になるもう一つの形容詞を持っていない、と言ったほうがいいでしょうか。

            快       不快

   気温など   暖かい/涼しい  暑い/寒い
   物の温度   温かい/冷たい  熱い/冷たい

 

(あるいは、「気温/物」に関して「あつい・あたたかい」は漢字表記による区別で済ませているのに対して、「気温」に関しては「寒い・涼しい」と言い、「物の温度」に関しては「冷たい」が別にあるという体系になっていることが興味深いところだ、と言ってもいいでしょう。)

その辺のことを、どういう書き方をするにせよ、国語辞典ははっきり書いておくべきだと思うのですが、不要な情報だと考えているのでしょうか。

 

三国第八版:肌色

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。
  
2年前に「はだいろ」について書きました。

niwasaburoo.hatenablog.com

三国第七版の記述。

 

  1はだの色。2〔はだの色に似た〕黄色みがかった、うすいピンク色。うすだい
   だい。ペールオレンジ。「-のファンデーション・-のタイツ」  三国第七版

 

この語には、どういう色なのかという問題と、実際の使われ方についての問題があります。

後者についての大辞泉の記述を。

 

  [補説] 2について、以前はクレヨンなど画材の色名として使われた。現在では
   人種問題への配慮からほとんど使われず、同色を薄橙(うすだいだい)・ペール
   オレンジなどと言い換えることが多い。   デジタル大辞泉

 

そういうことですね。

三国の七版は、その問題について触れていなかった。(小型)国語辞典もこういう問題に触れたほうがいいと思いました。

 

第八版への改訂で説明が加わりました。

 

  1はだの色。「-に合ったリップ」2うすいオレンジ色を言った、以前のことば。
  〔日本人に多いはだの色を想定し、多様な人々のはだの色をあらわさないから、
   二十一世紀には「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うようになった。〕
                              三国第八版 

1の用法はいいとして(用例が付いたのは非常によいことです)、用法の2が問題です。「肌色」は、「薄いオレンジ色を言った、以前のことば」ですから、今はそう言わない。それはなぜかというのが〔 〕の中の説明。

 

  日本人に多いはだの色を想定し、多様な人々のはだの色をあらわさないから、
  二十一世紀には「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うようになった。

 

この文、つながりがおかしくありませんか。

「想定し」たのは、このことばを使う人々、つまり日本人でしょう。「あらわさない」のは、もちろん「肌色」ということばです。(いや、この「色」そのもの?)
そして、「言うようになった」のは日本人。
  
  (日本人が)日本人に多いはだの色を想定し、(「肌色」ということばは)多様な
  人々のはだの色をあらわさないから、(日本人は)二十一世紀には~。

この「想定し」は、「想定したが」としなければおかしいでしょう。

「~し、~から、~した」というつながりは、「[~し、~から]~した」と分けられてしまうでしょう。ここでの「~し」と「~から」は、内容的に違うことを表しているので、ひとまとまりにすると矛盾します。

もっと敷衍すれば、

 

  日本人は日本人に多いはだの色を想定して、この色を「肌色」と名づけて使って
  いたが、この「肌色」は多様な人々のはだの色をあらわ[せ]ないから、二十一
  世紀には「肌色」とは言わず、「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うように
  なった。
  
ということでしょう。この文は、

  [~して、~いた]が、[~から、~ず、~ようになった]

という形になります。

この長い説明を短い語釈にまとめるのは難しいことだと思いますが、上の用法2の語釈は、きちんと推敲されていないようです。

 

さらに問題なのは、その言っている内容です。事実としてはそうなのでしょうが、そのことと、三国のこれまでの版の記述内容とを比較検討すると、おかしなことに気付きます。

 

  二十一世紀には「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うようになった。

 

というのですが、三国の第六版は2008年の出版、第七版は2014年の出版です。

それで、上にも引用したように、第七版では「肌色」とは、

 

  2〔はだの色に似た〕黄色みがかった、うすいピンク色。うすだいだい。ペール
  オレンジ。

 

と説明していたのです。二十一世紀の14年目になっているのに。この時点ではすでにそう言わなくなっていたはずなのに。

「以前は」そう使われていたのだ、という説明なら、そう書くべきところです。

第六版、第七版の改訂当時は、「肌色」ということばの使われ方の変化に気付かなかった、ということでしょうか。

それはしかたのないことかもしれませんが、第八版になって、

  二十一世紀には「うすだいだい」「ペールオレンジ」と言うようになった。

と、しれっと言われてしまうと、なんだかなあ、と思います。

 

他の辞書を見てみましょう。まず岩波。

 

   1人の肌のような、やや赤みを帯びた薄い黄色。▽人(種)により肌の色が
    異なるとして、絵具などの色名には用いない。
   2器物などの地肌の色。          岩波第八版

 

この「▽」以下の注記は、岩波第七版(2009)にはありませんでした。

「絵具などの色名には用いない」なら、どこでこの語は使われるのか。それを言わないと不十分でしょう。そしてまた、かつては「絵具などの色名」にも長い間使われていたのだということも。この書き足しを見て、「拙速」ということばが頭に浮かびました。

 

新明解と明鏡。

 

   1人間の肌の色(のような、少し赤みを帯びた、薄い黄色)。2その人種としての肌の色。
                                 新明解

   1肌の色。肌の色つや。2人の肌のような色。やや赤みがかった薄い黄色。 明鏡

 

国語辞典としてはこれでいいのだ、という判断でしょうか。「肌色」ということばが含む問題に気付いていないということでは、まさか、ないでしょう。

 

もう一つの問題。

三国は、「日本人に多いはだの色を想定」と言っていますが、他の辞書は、

  岩波・明鏡「人の肌のような」   新明解「人間の肌の色」

としていて、「人・人間」はみな同じ「肌の色」であるかのようです。

岩波はそのすぐ後に「人(種)により肌の色が異なる」と書き、新明解は用法2として「その人種としての肌の色」と書いています。用法1の「人間」とは誰なのか。

こういうところ、見直してみて、変だと感じないのでしょうか。(三国は、第八版では「日本人に多い」としていていいのですが、第七版ではたんに「肌の色」です。)

「国語辞典」の記述なんだから、使うのは(ほぼ)日本人、だからいいんだ、と言うのでしょうか。

 

もう一つ、ちょっと細かい話になりますが、この「肌色」とはどういう色なのか、という問題。

  三国第八版「うすいオレンジ色」「うすだいだい」「ペールオレンジ」

  岩波「やや赤みを帯びた薄い黄色」

  明鏡「やや赤みがかった薄い黄色」

  新明解「少し赤みを帯びた、薄い黄色」

「赤みを帯びた黄色」と言うのはつまり「オレンジ色・だいだい色」のことでしょうから、これらはほぼ同じ色と言っていいのでしょう。

三国の第七版は少し違って、

  三国第七版  黄色みがかった、うすいピンク色

としていました。これも同じ色と言っていいのかどうか、私にはわかりません。

私の子どもの頃の記憶では、クレヨンの「はだいろ」は、「オレンジ色」と言うよりは「ピンク色」に近い色だったように思うのですが、どうでしょうか。
うすいピンク色が「黄色みがかる」と、結局「うすだいだい」になるのでしょうか。

 

さらにもう一つ、問題があります。「黄色人種」との関係です。

三国は「黄色人種」の肌の色を、

 

  黄色人種 はだの色が黄色がかったうす茶色をおびて、目とかみの毛は黒い人種。
    大部分は東洋に住む。モンゴロイド。  三国

 

と「黄色がかったうす茶色」としています。

「はだいろ」の項では「日本人に多い肌の色」は「うすいオレンジ・うすだいだい」でした。

日本人が「黄色人種」であることには異議がないでしょうから、この違いはどういうことなのか。

日本人は黄色人種の中でも少し違う肌の色なのだ、ということでしょうか。そうも思えないのですが。

私は日本語教師として中国人・韓国人・モンゴル人・タイ人その他のアジア人と多数出会ってきましたが、それらの人々の多くは肌の色では日本人と区別できないと思っています。もちろん、それらの人々と多少の違いはあるでしょうが、それ以上に日本人の中での違いのほうが大きいでしょう。

黄色人種」についても、2年前に書いた記事があります。

niwasaburoo.hatenablog.com

  黄色人種 〔白色人種・黒色人種に対して〕皮膚が黄色の人種。頭髪は黒い。
    日本人はこれに属する。   新明解第八版

 

この語についての議論は、上の記事をご覧ください。

 

追記:

次の記事は「肌色」の問題についてよくまとめられていると思いました。

クレヨンから消えた”肌色”
https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/299152.html

 

三国第八版:筆記・書きつける

 

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

三国の「筆記・書きつける」について、短い記事を書いたことがあります。

niwasaburoo.hatenablog.com

第八版は第七版と同じ内容です。(表記についての注意書きが少し変わっています。)

 

  筆記(名・他サ)書きつけること。「-帳・-試験(⇔口述試験)」   
  書き付ける 1〔心覚えなどのために〕ちょっと書く。「ありあわせの紙きれに-
    ・歌を-・赤で-」2いつも書いていて、なれている。  三国七版・八版

 

「筆記」を「書きつける」とするのは、ちょっと意味がずれるんじゃないかと思います。
「筆記試験」は「ちょっと書く」のではないし、「いつも書いていて、なれている」わけでもない。
また、「筆記」は「書きつける」の2つの用法のどちらなのか、あるいは両方とも言えるのかという点でもあいまいです。

「筆記試験」が「口述試験」と反対語とされていますが、「実技試験」とも対立するでしょう。「書く」ということが基本にあるだけで、「書きつける」という、より細かな意味合いはないのでは?


それよりも文体的な違いについて触れていないのが不思議です。
「筆記する」という動詞を日常生活で使うことはあまりないでしょう。書きことばコーパスで検索すると、多くの例が「公証人が…」とか「口述を…」などです。

残念ながら、第八版への改訂では、この「筆記」の項目は「問題なし」とされてしまったようです。

 

では、他の辞書は「筆記」をどう説明しているかを見てみましょう。
まず明鏡国語辞典

 

  筆記 書き記すこと。書き取ること。また、書き記したもの。「口述━」「━試験」

  書き記す あとに残るように、書きつける。「一部始終を手帳に━」

  書き付ける 1忘れないように、書きとめる。「手帳に電話番号を━」
       2書きなれる。「━・けない毛筆で署名する」     

  書き留める 忘れないように書いておく。「伝達事項をメモに-」  

  書き取る 1 耳で聞いたことを文字で書く。「談話を━」
       2 文章などを書き写す。「掲示された注意事項を━」  明鏡

 

他の語で言い替えている部分を抜き出して、語釈のつながりを追ってみます。

   筆記 → 書き記す → 書きつける → 書きとめる → 書いておく
                     → 書きなれる
      → 書き取る → 書く
             → 書き写す

結局、「筆記」とは「あとに残るように、忘れないように、書いておく」と、「耳で聞いたことを文字で書く(/文章などを書き写す)」ということのようです。「筆記帳・口述筆記」に対応する意味合いですね。「筆記試験」の場合はぴったりする説明がありません。

 

次に、岩波国語辞典。

 

  筆記 書きしるすこと。書きしるされたもの。「口述―」
  書(き)記す 字や言葉を書きつける。      
  書(き)付ける 書きとめる。
  書(き)留める 心覚えなど後に読み返せるように書いておく。「手帳に―」
                            岩波

なんだかずいぶんあっさりしています。

  筆記 → 書きしるす → 書きつける → 書きとめる → 書いておく
   
岩波によれば、「筆記」とは「(字や言葉)心覚えなど後に読み返せるように書いておく」ことです。

そうですか?

用例も少なく、「書きつける」の語釈は「単なる言い替え」(「第八版刊行に際して」という文章を参照)で済ませています。

岩波は、このような、あまり重要視していない(?)項目の記述が非常に手抜きなんじゃないかと、最近感じることが多くなりました。

 

新明解。

 

  筆記 見た事・聞いた事や尋ねられた事を、紙やノートなどに書く事。「口述-・
     -試験・-用具」

  書き付ける 1必要な事柄を 備忘のために(求められて)そこに書く。2書き慣れる。

  書き記す 「書く」意の改まった表現。      

  書き留める 〔忘れないように〕書いて残す(おく)。「ノートに-」 新明解

 

新明解は、「見た事・聞いた事や尋ねられた事を」「(求められて)」など、その語の意味合いを何とかとらえようとしています。それがピッタリかどうかはともかく、そういう姿勢をはっきり持っているのはいいことだと思います。「筆記試験」はまさに「尋ねられたことを紙に書く」が当てはまりますね。

また、「単なる言い替え」をできるだけ避けようとしていることもうかがえます。

ただ、「書き記す」の、「「書く」意の改まった表現」というのは不十分だと思います。「論文を書く・SFを書く」などの例には当てはまらないでしょう。「改まった表現」ではあるにせよ。

「筆記」についても、「書く」の意の「改まった表現」あるいは「硬い言い方」とか何とか、文体的な特徴について書いたほうがいいように思います。小学生は「筆記する」という言い方をあまりしないでしょう。「筆記試験」という熟語は知っていても。

 

「書く」という動詞は、それにちょうど対応するような名詞を持っていない、と言えるでしょう。「書き」は用法がかなり限定されます。他の名詞、特に漢語と複合する際に、「筆記」という硬い言い方がうまく合うので都合がいいということでしょうか。

他の辞書との比較のため、三国の「書き記す・書き留める」の項目を書いておきます。

 

  書き記す 文字や文章を<書く/書いておく>。 
  書き留める 〔あとで役に立てるために〕書く。書きのこす。 三国七版・八版

 

「書く」と「書き記す」(と「記す」)の違い、「書きつける」と「書きとめる」(と「書きおく」「書き残す」)の使いわけ、などを考えだすと、どうしてこんなに似たような語があり、また我々は苦もなくそれらを日々使いこなしているのだろうか、などと思います。