ことば・辞書・日本語文法(2)

元日本語教師です。ことばと、(日本語)辞書と、日本語の文法について、勝手なことを書いていきます。

三国第八版:あいのこ・おいぼれ

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

差別語の問題です。前に「あいのこ」ということばをとりあげました。

niwasaburoo.hatenablog.com

三国第七版の記述を。

 

  あいのこ 合いの子・間いの子  ①⇒ハーフ②

  ハーフ ②混血(児)

  混血児 混血によって生まれた子ども。ハーフ。ダブル。国際児。〔語感がよくない〕

 

前の記事では、これらの項目を批判しました。

 

第八版で大きく改訂されました。

 

  あいのこ 〔古風・俗〕①⇒ダブル⑤。〔差別的なことば〕  
   ②どちらともいえない、中間のもの。「シーツとタオルの-のような布」〔①の
   意味を連想させて、語感が悪い〕

  ハーフ ②〔俗〕⇒ダブル⑤。

  混血児 混血によって生まれた子ども。ハーフ。〔純血でないことが悪いかのよう
    な呼び名をさけて、「ダブル」「国際児」とも言う〕

  ダブル ⑤人種や民族のちがう父母の血を<引くこと/引いた子>。ダブルルーツ。
   [!]俗に「ハーフ」とも言うが、「半分」の語感をさけて「ダブル」「ミックス」
    も使われる。「海外にもルーツがある人」などとも言える。  三国第八版

  
 

良くなったと思います。

 

もう一つは「おいぼれ」です。

 

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  年をとって心やからだのはたらきがにぶく<なること/なった人>。〔老人が
  自分を卑下して使うこともある〕[動]老い耄れる(自下一)。       三国第七版

 

第八版では、「老人が自分を卑下して」の前に「老人をあざけって/」という語句が加えられました。 そういう意味合いで使われるのだということをはっきり書いてあり、よいと思います。

 

三国第八版:ワン・ツー・スリー…

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

「2019-11-27 エイト・ナイン・テン・その他」という記事の終わりのところで、

niwasaburoo.hatenablog.com

「些末なこと」として次のようなことを書きました。

 

  例えば、新明解を例にとると、

    ワン   一つ。 
    ツー   二つ(の)。
    スリー  三。

  という書き方の揺れの問題です。なぜ、例えば、  

    ワン   一。一つ(の)。
    ツー   二。二つ(の)。
    スリー  三。三つ(の)。

  というように、記述の形をそろえないのだろうか、という点です。上のように
  並べてみれば、いかにも不揃いで、編集者が形を統一したくなるだろうと思う
  のですが、そうしない。

  それぞれの辞書の書き方を表にしてみます。(我ながらヒマなことをしている
  なあ、と思いつつ。)
  (「ワン」「ツー」…を「1」「2」で表します。空欄は項目自体がない場合です。他の辞書、岩波や集英社などは元記事をご覧ください。)

 

      三国      新明解    三省堂現代新    明鏡

   1 一。ひとつ。  一つ。      一つ。一。   数のいち。ひとつ。
   2 二つ。     二つ(の)。   二つ。二。    
   3 三。三つ。   三。       三。三つ。   数の三。三つ。
   4 四。四つ。   〔四つ(の)〕  四。四つ。   数の四。四つ。
   5 五。      五。 
   6 六。      六。
   7 七。七つ。   七。七つ。
   8 八。      八。       八。やっつ。  八つ。八。
   9 九つ。     九つ。      九。      九。ここのつ。
   10 十。      十(の)。


上の三国は第七版です。

この書き方の不揃いは、三国第八版では直されているでしょうか。


何も変わっていませんでした。上の表のまま。

なぜ「ツー」を「二。二つ。」、「ファイブ」を「五。五つ。」としないのか。
何か特別な理由があるわけはありませんよね。単に編集者が気付いていないだけ。
でも、これでいいと思っているわけでもないとは思うのですが。気づきさえすれば。

(新明解以下の他の辞書も、それぞれ前の版です。たぶん、現在の版でも同じでしょう。)

以上、どうでもいいような「些末なこと」でした。

 

三国第八版:イー E

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

今回は「イー E」です。前に、「2017-7-9  E」という記事を書きました。

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第七版では、「東」を表す記号とあります。そこで、他の方角はどうかと思うと、

  東西南北:EWSNの記述が揃っているかどうかを見てみると、W、Sでは方角に
  ついての記述なし。エヌは項目自体なし。

という結果でした。

第八版では、W、Sにはそれぞれ「西」「南」とあり、Nの項目もできて「北」とあります。

きちんと改訂されていました。

 

もう一つ、七版に

  〔音〕ハ長調のミ。ホの音階。「-マイナー」

とありましたので、他の音名を見てみました。

  音楽で、「E」は「ハ長調のミ」であるらしい。では、ハ長調のレやファは、D・
  Fなのか。
  AからGを見てみると、A・B・C・F・Gには音名としての記述がありません。
  Dは項目自体なし! なぜEだけに音名があるのか。

 

第八版ではどうなったでしょうか。

「D」という項目はできたのですが、AからGまで、E以外の項目には音楽の話はありませんでした。

なぜだかわかりません。

 

新明解は、前の第七版ではアルファベットの項目が全然ダメだったのですが、第八版で大きく書き加えられました。

このことは、「2020-11-29 イーなど・エッチ」に書きました。

niwasaburoo.hatenablog.com

上の記事に、次のように書きました。

  今回の新明解の改訂でいちばん大きく変わった項目は、これらのアルファベットの
  項目ではないかというのが、私の個人的な感想です。それまで全く存在しなかった
  いくつかの項目が、多くの行数を費やして記述されることになったのですから。
  「エー A」が12行、「シー C」は9行。「ディー D」は7行。「エフ F」は13行。
  「ジー G」は9行。「エイチ H」は10行。それぞれ、かなり徹底的に書いていて、
  面白いです。(「エフ F」は七版でもなぜか詳しかったのですが、八版ではさらに
  詳しくなりました。)

この改訂で、音楽での使われ方も詳しく書かれるようになりました。

 

  エー 7〔音楽で〕イの英語音名。ドイツ語音名のアー。イタリア語音名のラ。
                                                         新明解第八版

 

なぜかドイツ語やイタリア語まで書いてあって、懇切丁寧です。

 

なぜ、三国では 第八版でも音楽のことが書かれているのは E だけなのか。

方角のことは重要だけれども、音楽のことは重要でないと考えたのでしょうか。

 

三国第八版:ウインター・ワン・アーバン

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

今回は「名詞」か「造語成分」かという話です。
「2017-08-25 ウインター」という記事で、「ウインター」は名詞とは言えない、ということを書きました。

 

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三国の第七版は「ウインター」を名詞としていました。

 

  ウインター(名)〔winter〕冬。「-スポーツ」  三国第七版

 

それが、第八版では造語成分とされました。

 

  ウインター[造]〔winter〕冬。ウィンター。「-スポーツ」  三国第八版

 

これだけのことですが、国語辞典としては、やはり必要な訂正です。

 

同じことは、「ワン」「ツー」などにも言えます。

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  ワン(名)〔one〕1一。ひとつ。「-コイン・-プッシュ」2一点。「-オール」  三国第七版

 

  ワン[造]〔one〕1一。ひとつ。「-コイン・-プッシュ」2一点。「-オール」  三国第八版

 

こちらも、八版では造語成分とされています。

なお、「ツー」「スリー」などにも同じような変更がなされています。

 

もう一つ。「アーバン」を見てみます。

 

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  アーバン(名)〔urban〕都市。都会。「-ライフ〔=都市生活〕」  三国第七版
  アーバン〔urban〕1[造]都市・都会の。「-ライフ〔=都市生活〕」2(ダナ)都会的。「-なよそおい」  三国第八版

 

「アーバン」を名詞としていた第七版に対して、第八版は造語成分とし、「アーバンな」という形容動詞の形も認めました。大きな進歩だと思います。

 

三国第八版:あいうえお(順)・おもてめん・たてせん/よこせん

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

1 あいうえお(順)

まず、「あいうえお(順)」です。

第七版にはこの項目はありませんでした。niwasaburoo.hatenablog.com

第八版には、「あいうえお」という項目が新たに作られ、その用例として「-順にならべる」という例があげられています。

 

2 おもてめん 表面

「おもてめん」という語について、以前書きました。

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これも、国語辞典にあったらいいと思われる語です。七版にはありませんでした。

ただし、「うらめん」という語は、七版にありました。

その「うらめん」に、八版では新たに反対語として「⇔表面おもてめん」という記述が加えられました。

しかし、八版でもまだ「おもてめん」という項目はありません。あってもいいと思うのですが。

 

3 たてせん 縦線/よこせん 横線

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「たてせん」「よこせん」も、国語辞典にあっていいことばだと思うのですが、ほとんどの小型辞典にはとられていません。

いくつかの辞書では「じゅうせん・おうせん」という読みで項目があります。私は「そこからじゅうせんを引いて」と言われたら、え?と聞き返してしまいます。

三国は「たてせん・じゅうせん」「よこせん・おうせん」のどれも、七版も八版も項目がありません。どうしてでしょうか。使わないんでしょうか。

 

三国第八版:ウエストポーチ・浮かされる・ここ

三省堂国語辞典第八版が第七版からどう変わったか、このブログでこれまでにとりあげてきた項目を見てみます。

 

まず、明らかな誤植から。

「2017-08-05ウエストポーチ」で「ポーチ」の英語が間違っていることを書きました。

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第八版は、waist pouch に直されています。porch ではありません。

また、「和製(英語)」でもありません。

よかったよかった。

 

次は「浮かされる」です。

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  浮かされる ①心がうき立つようにさせられる。むちゅうにさせられる。「熱に-」

     ②頭がのぼせて、ぼんやりする。「酒に-」 三国第七版

 

「熱に夢中にさせられる」というのはどういうことか。

明鏡から。

 

   1 高熱などで、意識が正常でなくなる。「熱に━」
   2 夢中になって、心がうわついたようになる。「投資ブームに━」  明鏡

 

こういうことですよね。

第八版では、

 

  浮かされる 1のぼせたりして、頭がぼんやりする。「熱に浮かされてうわごとを言う・酒に-」

    2それが好きで、夢中になる。「恋愛映画に-」  三国第八版

 

直されていました。よかったよかった。

 

もう一つは「ここ」です。

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三国第七版は、

 

  ④きょうまでの短い期間。最近。「-一週間ばかり会っていない」 三国七版

 

で、「きょうまで」だけだったのですが、第八版は、

 

  ⑤きょうまでの短い期間。最近。「-一週間ばかり会っていない」
  ⑥これからの短い期間。「病人は-二、三日が山だ・-数日が勝負だ」〔大事な期間の場合に言う〕  三国第八版

 

「これから」についても書かれています。

ただ、「大事な期間の場合に言う」という注釈がついています。

過去のほうは特に限定がないのに、将来のほうだけ「大事な期間」ということがあるでしょうか。

天気予報などで「ここ数日は晴れの日が続くでしょう」などと言うでしょうし、特に「大事な期間」ということもないと思うのですが。

 

国語辞典の「自動詞・他動詞」(33):いろいろな意見

前回の記事の最後にこう書きました。
  
  辞書による自他の認定の違いがかなりの数あるということ、それをどう考えるか。
  
それをまた考えてみます。「ブレーンストーミング(脳内嵐)」風に、(私は賛成しないものも含めて)いろいろな意見を並べます。


A
一つの考え方は、まあ、別にいいじゃないか、というとらえ方。
国語辞典によって、自動詞か他動詞かが違っていても、大したことではない。それで使用者が悩むこともあまりない。(妙な文法マニア以外は。)
「学説」によって分析が違うのはごく普通のことで、そうやって学問は進展していくんだ、と悠然と構える。
形容動詞の範囲が辞書によって違うのも、問題点が明らかになっていいのではないか。「みんな違ってみんないい」。

 

B
いや、そうは言っても、やっぱりバラバラなのは困る。ある辞書は自動詞と言い、他の辞書は他動詞と言う。それでいいと言うなら、何のために自他の表示をしているのか。
漢字の表記がバラバラでは困るのと同じように、国語審議会だか何だかでいろいろ議論して、一つの基準を作り、基本的にそれでやっていくのがいいのではないか。
多少の「ゆれ」はあってもいいかもしれないが、現状のようにそれぞれが勝手にやるのはよくない。
一般人が使う辞書の記述の問題と、学問の進展は別のことだろう。

 

C
自他の区別というのは、要するに「を」をとるか「に」をとるか、という話だ。その違いは、(三国の言うように)重要なことだ。ただし、一般には移動の動詞は別にするという例外を認める。それはもともと、他動とは「他に働きかける」意味があるのが基本だから、ということだ。(では、「働きかける」は他動詞なのか、という問題。)
「を」か「に」か、という表面の形だけでなく、元に意味の違い、事象のとらえ方の違いがある。

動詞の分類として基本的なものだから、自他を表示するのはいいことだし、基本的には現在の方向でいいのではないか。ただ、もう少し、各辞書の編集者が(それぞれの)基準をはっきりさせ、個別の動詞をよく検討してほしいが。 

 

D
現在の日本語の自他の区別は、他の言語ともおおよそ共通するものだろう。外国語の学習ということも考えると、自動詞・他動詞という概念を学習しておくことには意味がある。「動詞文型」という考え方の基本部分だ。

ただ、その場合、三国のように移動動詞を自他動詞とするのはどうか。

 

E
宮島達夫が「国語辞典の自他の揺れ」をはっきり指摘してからもう50年たっている。それで、「揺れ」は収束しつつあるか。まったくそうではない。三国の方針転換によって、違いの幅は一層広がった。国語辞書は、専門書や論文と違って、一般人の利用のためにある。言わば「公共性」があると言える。どの辞書を見ても、ある程度の共通性が必要だろう。何らかの協議が必要だ。

しかし、国による「権威的な統一」は弊害が大きい。「学校文法」がいい例だ。構文論の萌芽的段階での固定化のまま、その後の日本語学の成果が何も反映されていない。
学校文法にも功はいろいろあるだろうが、罪もまた多い。その轍を踏んではいけない。

協議は、日本語学者、辞書編集者、出版社などを含めて、自他表示の緩い方針の作成から議論を始めるのがいいのではないか。(三国の編集者は孤立するか?) 

 

F
辞書に自他の表示をする必要はないのではないか。

利用者は、ある動詞が「自」か「他」かを示されても、それでその動詞が使えるようになるわけではない。「を」をとるか、「に」をとるか、両方とるか、どちらもとらないか、それを用例と解説で示すことが肝心だ。「自」とあっても「を」をとる場合があり、「他」とあっても何の用例もないのでは意味がない。

一つの方法は新明解のような「文型」を示し、その用例をきちんと示すこと。または、文型の指示はなくとも、用例を豊富にあげて、格助詞のとり方を示すこと。それをすれば、自他の表示などは無用だ。

 

G
なぜ動詞の分類として自他だけを示すのか。動詞の分類としては、状態動詞と動態動詞(動きの動詞)の区別が基本的なものとしてある。あるいは変化動詞と動作動詞、言い換えれば瞬間動詞と継続動詞とか。意志動詞と無意志動詞というのもある。それらはあまり考慮されず、自他だけが特別に示されるのは、英語などの西欧言語の文法に合わせるためか。

 

H
辞書の利用者にとって、自他表示というのはどの程度の意味があるのか。

国語辞典の利用者アンケートなどではどういうことが聞かれているのか。その結果は辞書の編集に反映しているのか。自他表示についての質問がされたことはあるのか。
おそらく、ほとんどの人が自他表示には関心を持たないのではないか。
利用者の視点というものを考えに入れて、自他表示を考え直してみることも必要ではないか。(中学の国語の先生などで関心を持つ人がいるとすると、三国の基準変更はどう評価されるか。)

 

いろいろとありそうな意見を書いてみました。私としては[E]または[F]に近いところでしょうか。

三国の考え方は、すっきりはしていても賛成はできません。新明解がそうするなら、おやおやと思いながらも、これもありだな、と思うでしょうか。